エピローグ
「よくやったよ」
刑務官がポンと俺の肩を叩いた。
「お世話になりましたね」
「いつもはもう来るなって言うんだけど、あんたはもう来そうにないからそれはなしだよ。元気でね」
「どうもっす」
塀の外へ力強く踏みだし、体に太陽と風を与えた。緑が多いなというのが最初の印象だった。新幹線に乗り、まっすぐ東京へ向かった。
塀の中にいる間、一番気になったのはマドカのことだった。結婚は獄中でもできたが、やはり彼女は妊娠していた。しかも俺の逮捕の流れでウォンの不法滞在がバレて、奴は香港へ強制送還された。焦って連絡したが意外にも返信は早く『心配ご無用、信頼できる医師や保育士へ根回ししてあるよ』と一言。結局、例の義手と義足は見事に機能し、マドカは無事に男の子を出産できた。とりあえずウォンをヤブと呼ぶのはやめることにした。
辟易したのは、俺たちが強大な悪を打ちのめした正義の使者としてメディアに扱われたことだった。雑誌の中で、俺は上司と同僚を殺された復讐に燃えるスーパーハッカー。大怪我をさせられた悲劇のヒロインのおまけ付き。ついでに講演かなんかで撮られた写真が見つかって、30年前のロッカーかとまとめサイトで爆笑された。腹は立ったが、そいつらが絶賛しているのは俺たちと無縁な架空の存在だと割り切るしかなかった。
マドカの出産前後になると、五百旗頭からも頻繁に連絡が来た。出所したらアマテラスに就職しろという。返事に迷っていると、仮釈放の引受人になるから面会をさせろとたたみかけてきた。さらにこの男はマドカのために基金まで作り、支援者の協力を得て妻子を刑務所の面会にまで連れてきた。宣伝のためだろうが文句も言えない。根負けして就職は約束したが、今日の出迎えを派手にやるのは絶対にやめろと言い張った。そんなわけで一人の出所だ。
新幹線の窓から田畑をながめながら、あの時のことを考えていた。今になって思う。サクはアルトの拳銃から弾が出ないことを知っていたような気がする。プログラムを書くときに何度もテストし、壇を殺した時にも現場検証をやった奴だ。使ったことのない拳銃を試さないとは思えなかった。
それにもしサクが自殺すれば、罪の重さに耐えられずに死んだ小物だということになる。だが他殺なら、正義の味方に殺された強大な悪者となる。スマートガンという新技術を知らずに失敗したというシナリオは、力を使いこなせる者が勝つというサクの思想と一致する。
そして事実、サクの死によって、技術者には警察も自衛隊も太刀打ちできず、技術者だけが立ち向かえるという認識は広まったのだ。
サクの自分殺しを請け負ってくれる奴は、俺しかいない。マドカにもハサウェイにもラクシュにも、それはできない。刑務所に入ろうが殺人者になろうが奴をどれだけ殺したくなかろうが、それでも引き金に指をかけられるのは俺だけだ。
『僕は殺される』
素直に考えれば、それは自分の行動を後悔してのものだろう。だがもしかすると、その言葉は『僕は君に殺される』という意味だったのかもしれない。より正確には『僕を殺してくれ』ということかもしれない。今となっては想像でしかなかったが、その方が自然に思えた。
東京から地下鉄に乗り換えて広尾で降りた。住むことはないだろうと思っていたヴィンテージ・マンションが遠くに見えた。前科者には立派すぎるが、マスコミから離れてマドカの医療や生活を考え、仕事に行きやすい場所はここしかなかった。
街を見渡した。また少しずつ世の中は進んでいた。自動制御を搭載した自動車に、歩行者に随伴するナビロボット、登録者を認識して自動で開くゲート。再び社会は活発に動き、ITはあまねくところで利用されている。世界を支える多くの技術者たちの成果だ。
ただ、絶え間ない発展がもたらされる中にいても、俺にはとても世界が静かに感じられた。ひとつだけが以前と違っていた。木々の間を歩く俺の隣には誰もいなかった。膨大な知識に裏付けられた無数のアイデアが、俺の耳に届くことはなかった。理想と情熱に燃える笑顔はどこにもなかった。行く手を埋めつくす空の青さに、俺は初めてサクとの別離を感じた。
遠い記憶を心の深い場所へしまって、マンションのエントランスへ向かう。彼女がいた。最新の義足がその姿勢を自然に支えていた。そして隣にもうひとりの姿。
「多くを失ったわね」
喉の手術が成功して、その声は昔の音色を取り戻していた。
「でも私たちがいるわ」
マドカの瞳をじっと見つめた。片方だけの目に涙をいっぱいに浮かべながら。彼女がゆっくりと俺の手を取った。
「おかえりなさい。ジンジャエールを作っておいたわよ」
両手でゆっくりと彼女のマスクをはずし、華奢な肩を包んでキスをした。
サクの思いは引き継がない。今日からは3人で生きていく。もう一度あの世界へ。今度こそ白の帽子を取って。
(完)
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