出発
集まった連中へ説明したが、反応は良くなかった。いきなり言われても困るから社の人間と話し合うという奴がほとんどだ。五百旗頭も味方についてくれたが、連中は自分の抱えているデータサイエンティストにやらせろと言って譲らない。サクを知らない奴には解析はできないのだが、そこが伝わらない。時間はなく、事情は複雑だった。
「俺たちでなければ犯人は突き止められないんですよ。クー・フーリンで会社内の被害を食い止めても、それじゃ根本的な解決にならない。犯人を突き止めるんです」
「だったらその事情をもっと話してもらわないと。こっちにとっても事業が傾くかもしれないデータです。現場にも相談しないとならないんです。すぐには難しいですよ」
同じような反論が四方八方からやってくる。関係を作っていない相手にいきなり話しかけてもうまくいくことはない。職業上の経験でそれはわかっていたが、こんな状況なのだから理解しろと怒鳴りつけたかった。五百旗頭が苦い顔でつぶやいた。
「あと一歩で押し問答か。昨日までの日々を守らなければという観念は恐ろしいものだな」
「うむ。こうなると日本人は雰囲気に流されやすい。苦しいぞ」
五百旗頭の日本語訛りにハサウェイが返す。俺はいったんマイクを置いて2人と話そうとパイプ椅子にかけた。タヌキは珍しく加熱式タバコの
「なんだそりゃ」
「五百旗頭たちに無理やり連れだされたとき、俺がタバコを持って来いと机を指さしたら、こいつらが勘違いして持ってきたんだ。俺も覚えていないキャンペーンでもらった景品だ。こんなもの使う気にならないが、仕方がない」
IT企業の人間なのに新しい製品が似合わないことこの上ない。慣れない手つきで充電したホルダーを取り出し、ヒートスティックを差し込む。
「こう吸うのか……」
苦々しい顔で吸い口を噛もうとしたとき。それをなぜハサウェイが持っているのかと思い、嫌な予感がした。先月、久々に会った時。こいつはバングゥから情報が漏洩したと言っていた。
奴が白い機械を落とし、苦しそうに声を出した。
「なんだ……」
俺が立ち上るのと入れ替わるように、ハサウェイが喉を抑えてうずくまった。両目が異様な動き方をしている。駆け寄ろうとしたところで、突然、五百旗頭が俺に体当たりをしかけた。はじけ飛ぶように俺は床を転がった。
「何しやがる!」
「サリンだ! 瞳孔が収縮した!」
五百旗頭が叫びながら俺を立たせ、さらに部下に声をかけた。毒ガスだと部下の1人が叫んだ。どよめきながら全員が椅子を蹴倒して出口へ殺到する。五百旗頭が俺の腕を取って走った。ドアの周囲に殺到する連中で一度止まったが、押して開く作りだったのが幸いして、次々に外へ出ることはできた。
「息を止めたりするなよ。サリンから身を守る方法はない。タバコに仕込んだだけなら少量だろう。祈れ。ほかにやることはない」
五百旗頭が鋭く釘をさす。悲鳴と足音がひしめく中、俺たちは最後にドアを抜けた。
「まさか自衛隊の知識が役に立つとはな。恐らくはメチルホスホン酸ジフルオリドとイソプロピル化合物だろう。熱で溶けるカプセルに入れて、ホルダーの底に貼り付けたか……」
五百旗頭が息を切らしてつぶやいた。どっと汗が流れだした。視界の遠くに小さくハサウェイが見えた。なぜもう少し早く気づかなかった。そう思う間もなく、五百旗頭の部下がホールを見渡し、ドアを閉めた。
「どなたか、気分が悪い方は?」
「私と進藤君が無事ならまず大丈夫だ」
部下の言葉に五百旗頭が答えた。1人だけ年配の人が手を挙げたが、いきなり走って体に響いただけのようだ。呼吸を整えて、もう一度五百旗頭が立ち上がった。
「とにかくもうわかったでしょう! いい加減、彼にデータを渡してやりなさい! 我々に猶予なぞこれほども残されていないんですよ!」
廊下に座り込んであえぐ連中が、わかったとそれぞれの言葉で答えた。次々に携帯を取って電話をかけ始める。俺はその場にいた200以上の企業から独自収集したビッグデータにアクセスする権利を受け取り、連中はクー・フーリンとゲイ・ボルグの無償ライセンスを受け取った。今起きた事と外のハッキングに直接の関係は何もないが、とにかく、何かしなければならないという思いは共有できていた。
データへのアクセス方法をすべてiPhoneに詰め込み、代々木からもう一度バイクに乗る。夜明けになっても走り火はまだ新宿を埋め尽くし、断続的な悲鳴が風に消えていった。
走りながら、徐々にハサウェイの死を感じ始めていた。あの突き刺すような目が頭から離れなかった。会社が解散してから、俺はいつも奴をさげすんでいた。あいつの何もかもに腹を立てていた。それがなぜなのか、今になって理解した。奴は俺の親父だったのだ。親父だから憎んでいたのだ。
アクセルを全開まで回した。ハサウェイの言葉を思い出すことで、サクを追うための怒りがわいてきた。ハサウェイが俺たちを支えてきたのだと、今になってはっきりとわかった。初めて会った時からずっとそうだった。どんなにスケジュールが破られようが、仕様が決まり機能が完成するたびに、奴はバカみたいな大声で開発を褒めちぎってきた。どんなに客にバカにされようが、事務所に戻れば奴の激励を受け取って、もう一度やってみるかという気になった。どんな些細なことでも嫌になるくらいよくやったと繰り返し、クレームが来るたびに奴だけが謝りにいった。その事実が全て、俺の中へ芯を作り上げていた。
ハサウェイの命を閉じた奴を許すわけにはいかない。サクを見つけだす。このバカげた茶番を終わらせる。今、それができるのは俺だけだ。
新宿の廃屋に戻る。ごった返していたケガ人は1人もいなかった。消毒の匂いと血の跡が残っているだけだ。
俺は永久に使わないだろうと思っていた入口のドアを起こして釘で固定した。ドローンが入れないよう、10本以上の釘を打ちつけてからパソコンを立ち上げた。インターネットアクセスは問題ない。スカイプを立ち上げた。
「マドカ」
「聞こえるかしら」
俺は手短に代々木での話をマドカへ伝え、受け取ったデータを基に解析を開始できることを確認した。サクが関係しそうなデータを片端から流し込む。東京にあたりをつけて、関係しそうな情報を限定する。サクもTorブラウザを使い、ともすれば他人のクレジットカードを使っているのだ。1ヵ所に特定できたかと思っても、裏を取れそうなデータを流すとご破算からのやり直しだった。奴が読みそうな本。見そうな動画。フェルディアで使っているツール。メールアドレス。SNSのアカウント名。ネットの利用時間。これか、これかこれかとあたりをつけても、どれもが正解のようでも不正解のようでもあった。夕方にさしかかる。床に転がったジンジャエールのビンが積み上がっていった。
「体は大丈夫か」
「休むわけにいかないわ」
「いや、落ち着いて考えたら、そんなにさっさと見つかるわけがねえ。今日はもうこのくらいで……」
言いかけたときに、ふと、提供されたデータの中に流通のデータがあることに気がついた。楽天のデータにアクセスさせてもらえるらしい。経団連を脱退していたはずなのに。確認すると他社が楽天からデータの提供を受けているということがわかった。事態を考えて非開示の情報をくれたようだ。そこで、何かがひらめいたように思った。
サクが注文しそうなもの。常に通販で買っていたもの。それは……
床に転がった瓶に目を落とした。緊張を殺してスカイプへ声をかけた。
「マドカ、楽天の販売データがある。サクは楽天を使うことが多かった」
「そうなの? 知らなかったわ」
「ジンジャエールで検索してみよう。1日に2本、瓶入りの辛口を朝と夕方に。注文は必ず24本入の箱だ」
「まずコンビニや喫茶店の納品がひっかかると思うわよ」
「いや、コーヒーならともかく、ジンジャエールの消費量が通年で一定ってことはありえねえ。定期的に買うとしてもどこかで調整するはずだ。あいつは俺と違って、毎日必ず同じ量を飲んでいた」
「リンクをもらえるかしら?」
アサヒ飲料のデータへアクセスするための認証情報をマドカへ送る。東京都23区に限定して、他の電子書籍などのデータとバスケット分析にかける。送付先は特定を避けるために加工されているが、さらに宅急便の行動データを因子分析にかけることで特定できる可能性がある。サクのかつての行動記録を引き出してロジスティック回帰分析をかけた。物事の発生率を求める方法だ。これで絞り切れるだろうか。
地理情報システムを使用して東京の地図に分析結果を放り込んだ。スクリーンに表示された23区の各地に大きな白い円が輝く。新宿、渋谷、池袋、上野、六本木だ。分析結果を放り込むにつれて徐々に円が小さくなっていく。まず上野が消えた。次に池袋。背景の地図が見えてくる。やがて渋谷の白い円も消えた。最後まで残っていた新宿も消えた。白い点が一ヵ所に絞られた。
「虎ノ門ヒルズ」
マイクを寄せて言った。
「喫茶店もコンビニもあるわ」
「いや、ここだ。喫茶店がジンジャエールを買っても、人工知能の論文を落とすわけがねえ」
「喫茶店がジンジャエールを買って、別のテナントの社員が人工知能の研究をしていることならあるわ」
「サクはここにいる。最上階のホテルのアンダーズだ。前にこの場所を話題に出していたことがあった。間違いなくここにいる」
少しの沈黙に続いて、マドカが信じるわと答えた。
「マドカ、スカイプ切るぜ。うまくいってもいかなくても、もう会えないかもしれない。でも一度やりきると決めたことだ。できるところまでやるよ」
一拍をおいて、マドカが声の質を変えた。
「弟は死ぬわね」
「できればそうならないようにする」
「いいえ」
返答は強く否定された。
「あなたが思ったことを、思ったようにやって欲しい。弟を殺さなければならないなら、迷うことなくそうして欲しい。何もかも終わってから、私のところに帰ってきてくれればそれでいいわ」
「わかった」
部屋に1人。緊張し続けた時間が終わり、溶けるように眠気が襲ってきた。俺はソファに倒れるように横になった。
*
どのくらいの時間が過ぎたのか、固定したドアを何度も叩く物音で目を覚ました。続いてアルトの声が小さく届いた。
「ショウ君、いないかな?」
「まってろ」
バールで釘をひっこぬいてドアを横にずらした。
「戻ってきたのか。ウォンは病院か?」
「うん。ここにはもう包帯も薬もないからね」
「お前は何しに来たんだ」
「薬を取りに来たんだよ。車もこの近くに置いてあるしね」
「ラクシュはどうなった」
「遺体ケースに入れて病院。安置したよ」
「仕事は受けられるか?」
「少し休ませてもらうけど?」
「前の倍出す」
「……それはそれは」
アルトの目が鈍く光る。俺の中の殺意を読み取っていた。
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