干し草の中の針
午前4時に携帯の音で目が覚めた。電話回線が復活したようだ。寝ているマドカさんからそっと腕を抜いて離れる。トイレに入ってiPhoneを耳に当てた。
「進藤さんですね」
「五百旗頭さん。すごい時間にかけてきましたね」
「この状況ですからね。今はどちらですか」
「渋谷です」
「それなら……今、代々木の国立オリンピックセンターにいるんですが、歩いてこられますか。かなり多くの企業の人間がいるのですが」
「……なぜですか?」
「アーネスト・ハサウェイ氏にもここへ来ていただいているのです」
「いえですから、まずなんの話か教えてもらえませんか」
「都市インフラや回線の問題は遠からず解決する見込みが立っています。あとはどの組織も情報系の回復が必要になってきています。そしてクー・フーリンのおかげでアマテラスだけは無事なのです。なのでハサウェイ氏からの大量購入を検討しているのですが、彼が価格をどうしても譲らなくて」
「価格? 値段の話ですか?」
「はい。私どもとしては、この製品の価格を一時的に下げて配布する以外の選択肢はないと考えているのです。1ヵ月でも良いので、価格設定を変えてほしいとお願いしているのです。そこで、あなたにも協力していただけないかと」
考えてもいなかったが、そんな状況になっているならクー・フーリンをタダ同然でばら撒くのは確かにありかもしれない。人が死んでいて、消防警察でもすぐには解決できないのだ。
「ハサウェイはなんで値段を下げないんですか」
「わかりませんし、頑として話しません。なので協力を求めています」
「俺が行ったってうまくいくか……いや、わかりました。行きますよ。ただ、その前にハサウェイと話ができますか」
「かわりましょう」
受話器の向こう側で、聞きなれた英語の声が響いた。
「ショウか」
「何やってんだ、あんた」
「営業だ。クー・フーリンが必要な客が一同に集まっているからな。経団連所属の重役が勢ぞろいだ」
「いや、言ってることがおかしいだろ」
「来れば状況はわかると思うぞ」
「おい」
ハサウェイが何かを言おうとした気配があったが、その前に声が切り替わった。五百旗頭だ。
「いいですか、進藤さん。クー・フーリンがあればこの問題は解決できる。これはすばらしい事実なんですよ。選択の余地はないとお考えください。この東京にとっても生か死かというところです。こちらも必死なのです。来ていただきます」
高圧的な口調を残して電話は切れた。
ドアを開けると、電気がついていた。マドカさんが寝返りをうって俺に目を向けている。体を半分だけ起こして、銀色の仮面をこちらへ向けた。
「行くのね」
「ここに戻ってくる」
「夢の中で、人に会ったわ」
「またサクの夢か」
「いいえ」
マドカさんが俺の目を見て、小さく微笑んだ。
「新しい人。ここに」
生きている方の手を体に当てる。確信があると、灰色の目が語っていた。少しとまどったが、当然ありうることだと自分に言い聞かせた。
「産めるかな」
「どうしてほしい?」
笑顔が俺を受け入れてくれるのがわかった。彼女の全身を見る。再会した時に感じた異質なものへの違和感は、もうわずかにも残っていなかった。
「……産んでほしいさ。体が問題ないなら、だけどな」
「大丈夫だと思うわ。自信があるの」
「わかった。絶対に戻ってくるよ。マドカさんのために」
「もうマドカさんはやめてよ」
仮面をつけていない彼女の顔を見つめた。この人生を選べば困難があるのはわかっている。それでも、もう彼女と生きることは、俺の生きる意味だ。
「カーテンを開けて」
「ああ」
「朝が来るわ」
「最悪の朝か」
「いいえ。私はそうは思わない。朝はいつも朝よ。何が起きても」
マドカがビルの彼方へ目を向けた。
俺は手短にさっきの電話の内容を告げた。代々木に行って、そこの状況次第で次にどうするかを決めるといった。
「ここから先はスカイプで連絡を取りましょう」
「できるかな。俺のスマホもなんかしらに感染するかも知れねえ」
iOSに感染するウィルスは限られるが、ないわけではない。アップルの規約でこの製品はアンチウィルスが使えないが、サクはフェルディアにiOSを攻撃できる機能を開発していた。
「ゲイ・ボルグを入れたクー・フーリンがこのパソコンに入っているわ。必ずこれを経由して接続するようにして」
マドカが渡してくれたパソコンを預かると、荷物を片付けて部屋を出る前に最後に窓の外を見た。
「マドカ」
「ええ」
「最初に会った時から、ずっと好きだったよ」
「グズね。さっさと言ってくれれば、その場でOKって言ったのに」
その口調は、3人で過ごしていたころと何も変わらなかった。声がひび割れていても、優しくて、知的で、そして少し抜けていた、あの彼女のものだった。
*
代々木までは20分もかからなかった。敷地の中までバイクを進めていく。立食パーティの会場みたいなところに、数百の背広がめいめい勝手に椅子を置き、声を荒げて電話をしていた。ホール以外にも小さな部屋がいくつもある。
俺を見て大柄な男が声をかけてきた。通された小部屋にハサウェイがいた。黒い服を着た暴力団のような連中が奴を取り囲んでいる。
「なんでこんなことになってんだ」
「来ればわかると言ったろう」
ハサウェイが皮肉な笑いをこちらへ向けた。
「監禁にならないようにか、食い物は豪勢だ」
「脅迫されてるのか」
「俺がどう言おうが、傍目にはそう見えるだろうな」
見回すと五百旗頭がいた。穏やかな表情ではない。目が合うなり話しかけてきた。
「進藤君。よく来たといいたいところだが、欲しいのは協力というより君の説得だ。クー・フーリンの価格を大幅に下げ、人命を救ってもらいたい」
その口調から敬語が消えていた。
「客だと思って今まで下手に出てたけど、その態度じゃあやる気もなくなるぜ。いいことを教えてやるけどよ。この国には警察と消防と自衛隊っていう、素晴らしい組織があるんだぞ」
「それで決着はつかない。わかるだろう」
「便利そうな道具があるからよこせってのか」
「言ったはずだ。選択の余地はないと考えてほしい」
俺の横の男が警棒を引き抜いた。鉄砲がないだけマシだが、こんな人数に囲まれたら腕力で逃げるのは無理そうだ。
「あくまで交渉だ。まとまれば何もしない」
「2度言わせろ。その態度じゃやる気もなくなるって言ってんだ」
五百旗頭とにらみ合う。男は眉をわずかに曲げ、お義理のように口角を上げた。
「それは悪かった。朝早くに呼びつけたことだし、お詫びにコーヒーでも出そうか」
「ウィルキンソンのジンジャエールをくれ」
五百旗頭が目の形を変えずに横を向き、持ってきてやれと言った。片手で空いている椅子をひったくり、かけながら手と足を組んだ。
「さっきのは俺の気分の話だけだ。クー・フーリンの値下げに応じることは、別にいいと思うんだがな」
「ほう」
「ただ、ハサウェイと2人にしてくれ。奴の話が聞きたい」
言って、五百旗頭と2人でハサウェイを見た。奴の目もわかったと言っている。
「1時間やろう」
「30分でいい」
ジンジャエールを受け取ると五百旗頭と取り巻きみたいな奴らは出ていった。小さな会議室のドアをばたんと閉めるなり、俺は話し始めた。
「どういうつもりだ?」
「言ったことがすべてだ。俺は値引きはしない」
「そういう状況じゃねえだろう。あいつらに恩を売って将来を作るのも商売人だろうが。ついに年で頭が石みてえになっちまったのか?」
「なかなか失礼な事を言うな」
「そうとしか思えねえよ」
「金が要る」
「なんにいるんだ。前の会社の債務は整理し終わったんだろう。会社を立ち上げるためか。それとも離婚して慰謝料でも払ってんのか?」
「笑えん冗談だな。俺は結婚したことは一度もない」
「じゃあなんに金がいるんだ」
「俺はサクを探し続けていたんだ」
言葉がぴたりと喉の奥で止まった。
「探偵やらディープネットやら、あらゆる方法を使ってな。サクを見つけるつもりだった。この事件を奴が起こしたことはわかっている。今放っておけば2度目も3度目もある。なんとしても見つけないとな」
初めて聞いた話だった。
「本気かよ」
「あたりまえだ。俺の経営者としての一番の業績は、お前とサクを雇えたことだからな」
「そのために、あの五百旗頭たちに金をよこせって言ってたのか? もう手遅れだ。連れ戻せたとしても、サクの行き先は刑務所だ」
「出てからやり直せばいい」
「死刑かもしれねえ」
「だったら亡命させる。居場所さえわかればなんとでもなる。奴に白の帽子を取らせる。それはあの天才から貴重な時間を借りた、果たさなければならない俺の責務なんだ。奴だけは殺させん。アーロン・スワーツの二の舞にはさせん。奴の力で世の中は変わる。法が現実に追いついていないだけだ。絶対に陽の当たる道を歩かせる」
「俺だってそう信じてやってきたさ。でも結果はこれだぞ。細かくは言わなかったがな。俺だってサクを探してきたんだ。相当本気でな。でも全部空振りだった。あと一歩だと思ってたところでこの惨事だ。もう終わりだ」
「あと一歩?」
「サクの姉貴と協力してサクをさがしてたのさ。一度は本人に会えそうなところまで行ったんだ」
「サクに姉がいるというのは聞いたことがあったな。たしかビッグデータのことをやっていたか?」
「シャダイのメンバーで、フェルディアの開発に携わっていたんだ」
「その話をもっと聞かせてくれ」
「もういいだろうが! お前はいっとき俺の上司だった、ただの外国人じゃねえか! なんだってそんなに口を出したがる? 肺ガンで死ぬまで隠居生活でも楽しんでりゃいいじゃねえか!」
それを聞くなり、ハサウェイはぐっと俺の前に踏み込むと襟首を握りしめた。
「いいや、やり残したことがある。お前たちだ。お前たちのことがある。このまま老いさらばえて死ぬわけにはいかん」
「俺たちがどうした?」
襟をつかまれたまま言い返した。
「お前らが未来を創るところを見ていない。お前らが愛した技術を、世界に役立てる姿を見ていない。技術のない俺にはそれしかないんだ。若い才能と一緒に情熱を傾け、一緒に夢を見るしかないんだ。国籍も立場も関係ない。俺はお前らが世界で誰よりも素晴らしいサイバーセキュリティの旗手だと信じて生涯を賭けたんだ。
いいか。お前らは俺に夢に見せてくれた。それも金を儲けようだの、名前を知られたいだのというケチな夢じゃない。社会を育て上げ、人類の未来を築き上げるという大きな夢に酔わせてくれたんだ。生きてるか死んでるかわからないような安い人生を捨てることができた。その恩を返さないままくたばれるか」
ハサウェイが燃えるような目で俺を見つめていた。俺は答えずジンジャエールの瓶をゴミ箱にたたきつけた。
「演説はもう結構だ」
「だったら話の中身を聞け。そこに座れ」
押しの一手で説き伏せられたのは、サクにフェルディアの開発を同意させられて以来だった。
「とにかく聞かせろ。お前もサクの姉、たしかマドカ・キサラヅか? 奴もサクを探してきたんだな?」
「ああ。でも手掛かりなしさ。名前での検索や、奴がやりそうな行動での絞り込みは失敗だ」
「いや、そこまでやってるなら十分だ。手が出てきたぞ。個人情報保護法が改正されたのは知っているな? 特定の個人を識別できないように個人情報を復元できないよう加工した匿名情報は、一定の条件のもとで第三者に提供できる。例えば交通系事業者は乗降データをデータ分析事業者に提供したりできる」
「それがどうした?」
「サクの居場所がわかる」
「何を言ってやがる? 個人が特定できないように加工するって自分で言ってるじゃねえか。情報をもらっても意味ねえだろうがよ」
「それができるんだ。種類が多ければな。今、ここには日本を代表する相当数の企業が集まっている。あらゆるデータがあるんだぞ。これをお前らが知っているサクに関する情報に合致するよう加工して地理情報システムにかけろ。お前とサクの姉なら、個人を示す情報を知っているだろう。仕事で読んでいるサイトや本、論文。趣味……サクなら植物。あとはなんだ。嗜好。性癖でもいい。片っ端からそういう要素で複合検索をかければ、絶対に個人は特定できる。ビクター・ショーンベルガーみたいな有識者が、ビッグデータで個人の行動があぶりだされると言い張ってるのは知ってるだろう。それを逆用しろ。針を見つけたければ干し草を燃やせ」
言われてみると不可能ではないような気がしてきた。サクがどれだけ丁寧にデータを隠蔽していようが、飯を食ったり物を買ったりしないわけはない。だとすると、そこから何かを割り出せる可能性は少なからずある。
「五百旗頭に依頼するのは大金じゃない。この、サクを特定するためのビッグデータだ。今度こそ奴に会えるぞ」
伝わってくるハサウェイの手が熱かった。久しぶりにこの男の体温を感じた。この男らしい温度だった。なにがなんでもあきらめないつもりなのだ。
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