訪れた夜
「来い、アンスウェラー」
ヤマハMOTOROiDが音もなく俺の横に立った。飛び乗るなり右手をひねる。ガソリン車と異なる加速が新宿の闇に乗り込んだ。車体が俺の体を包んで大ガードをくぐる。歩道に負傷した連中が腰を下ろし、ぞろぞろと交通機関を使えない歩行者たちが帰宅している。事故で燃えている車が残りを釘付けにしていた。その隙間をバイクで抜けた。
信号が狂い街灯が機能しない都会が、こんなに異様なものとは思わなかった。大量の人間をこの小さな都市に収容するためには文明が必須だ。ITが秩序と能率をもたらしていたのだ。
代々木を抜けて南へ走る。ライトに障害物が映るたびに、身体を包むデバイスが震えた。これがなければ何度も事故っていたろう。皮肉なことに、俺を救ってくれたのもまたITだった。
道玄坂から109の脇を抜けてめらめらと燃えるガソリンに埋め尽くされた渋谷の大交差点を迂回し、一際高いビルへ。車止めにアンスウェラーを止めて預かったホテルの鍵をポケットから出す。フロントに一人だけ残っていた従業員に階段の場所を聞いた。
「こんな日によく仕事する気になるな」
「社長から特別手当をしぼり取りますよ」
部屋は16階。エレベーターはもちろん止まっている。案内してくれたフロントが、2つ持っていた懐中電灯の片方を渡してきた。
「当ホテルはこの通り、有酸素運動に最適なジムを完備しております。良い汗を」
「あんたは出世するよ」
鉄の扉を乱暴に閉め、右手にライトを持って階段を上った。目的の階まで一度も足を止めなかった。非常扉を開けるのとほぼ同時に電気がついた。停電が終わったのか。鍵に刻まれた番号を見ながら廊下を走り、息を切らしながらドアを開けた。
「マドカさん!」
「あら、ノックしてよ。レディのいる部屋なのに」
マドカさんがベッドの横に車椅子を停めた。謝ることも忘れて彼女のそばへ行った。
「よかった……」
「うれしいわ。心配してくれたのね」
「当たり前だ」
車椅子と義手義足のマニュアルを出してもらい、手早く中身に目を通した。幸いITの手順書よりは読みやすく簡単に頭に入った。食事や排泄、睡眠といった問題もなさそうだ。ウォンが用意した一式がベッドの半分を占拠していて、マジックハンドやらタンブラーやら、普段生活に使っていたものも置いてある。ほっとして椅子に腰かけた。
「新宿まで戻るのは無理だ。ここで何日もつ?」
「3日ね。水は多めにもらっているけど、それを超えると食べるものが無くなるわ。ハッキングが継続する限り、この状況はいつまでも続く。地震や事故のように、短い期間で終わるものじゃない。戦争みたいね」
「食い物はどこにでもあるが、持ってくる方法がな……」
そしてそれ以上の問題が、電話通信網が死んでいることだった。連絡が簡単に取れないのでは不便すぎる。
「携帯はまだダメだ。これが回復しないと苦しいな」
「4Gは通信スピードが超高速化される代わりに、第3世代移動通信システムで使用する2GHz帯より高い周波数帯を用いるため、電波伝搬特性によりサービスエリアが狭くなり通信の維持には基地局が大量に必要になる。携帯電話は現代の技術がもたらすギリギリのライン上を動いている。大学の教科書で読んだ知識をこんなところで思い返すなんてね」
部屋のアクセスポイントへの接続も試みたが、ホットスポットを提供しているアドレスに到達できなかった。こちらは単にホテルのルーターが落ちているんだろう。
「ダメだ。どこにもつながらねえ」
「テレビならみられるわよ」
「見たってな」
「1度は見たほうが状況がわかるわ。体を休めながら少し見てみたら」
マドカさんがケーブルにつないだAndroidのタブレットを取り出した。画面にバタバタバタという音が流れ、黒い画面の端々にオレンジの線が見えた。
「なんだこりゃ」
「東京よ。今の」
「これが?」
「そうよ」
ボリュームをあげると、アナウンサーの声が聞こえてきた。何度か場面が変わっていく。はっきりと理解できた。映像に、絶望が落とし込まれていた。
「引き続き状況をお伝えいたします。現在ご覧いただいているのは新宿上空からの映像になります。ビル群からは一斉に明かりが消え、信号は不規則に明滅を繰り返しております。一列に並んでいる光は自動車のヘッドライト、はっきりとした点のように見えるのは……」
食い入るように画面を見た。火がいたるところに走っている。無数の建物と完成されたインフラで構成された成果物が、一晩で瀕死へと向かっていた。殺虫剤を吹き付けられてのたうちまわる巨大な虫を連想した。マドカさんと何かを話したような気がしたが、上の空で頭に入ってこない。空の瓶になんの意味もなく口をつけたりテーブルに置いたりした。
じっと下を見てから、もうたくさんだと言ってタブレットのテレビを止めた。マドカさんをベッドに移す。その隣に横になった。立ち上がろうという気力が湧かなかった。
「朝になれば状況も変わるわ。それより、話を聞かせて」
「サクのか」
「あなたのよ」
俺はひとつため息をついた。
「俺は話すことなんか……」
「頭はサクのことだけ?」
言葉に詰まった。今まで何をやってきたんだろうと思った。サクのフェルディアがついに人を殺し始めた。俺たちは間に合わなかったのだ。
なにもかも諦めて警察に委ねるしかないか。普通に考えればそれが正解だ。それは分かっていた。
それでも。
それでもという言葉が、俺の頭の中から出ていかなかった。
「マドカさん。サクを許せるか」
「どうして?」
「その体になったのはサクが原因だ」
「そうね」
「喜ぶ奴はいねえよ。どうして割り切れる?」
「あなたのほうが苦しい思いをしているわ」
「俺は失敗したことの後始末をやってるだけだ」
マドカさんは右手でシーツを押し、体をこちらへと向けた。柔らかそうなグレーの部屋着に見覚えがあった。少し袖がほつれていた。
「夢を見たわ。あなたが来る少し前に」
マドカさんがつぶやいた。
「どんな」
「あなたとサクが、同じ画面を見つめながら何かを作っていたわ。pythonでプログラムを書いているところを」
「サクはPyCharmってツールでpythonを書いていたよ。それでクー・フーリンを作ったんだ」
「それを知っているあなたが、辛いと思わないなんて嘘よ。私は2人でいるところをずっと見ていた。私にとって、サクの事はおとぎ話よ。もう彼に会っても、違う人といるとしか思えない。その彼にどうされたと言われても実感はない。でもあなたのことならわかる。サクといたころと全く違う目をしてる、今のショウ君のことなら」
マドカさんの言葉に思わず目頭が熱くなった。奴が使っている開発環境やコードを知っていても、俺は奴の事なんか何もわかっていなかった。あきれるくらい長く一緒に過ごしていた時間があったのに。結局、俺たちにとってサクは象徴だった。サクという偶像を追い求めるおかしな宗教でしかなかったのだ。真実のサクは別にいた。アーロン・スワーツを求め、自分だけの道を見つけた男は、殺人者として生きる道を選んでいたのだ。
「いや、必ず探し出す。まだ手はあるはずだ。それが思いついてねえだけだ」
「そうだとしても、もう一度会って、それでどうするの。サクに会うことと、私の会いたいサクに会うことは全く違うわ」
「会えば話す事もある」
「彼がやったことを許せる?」
「警察に引きずりだすさ。ただ、もし……いや。もう寝ようぜ。明日、何もかも考えよう」
ジンジャエールの瓶をゴミ箱に捨てた。マドカさんの指示に従って義手と義足を外した。驚くほど軽かった。人間の手足がいかに重いのかを気づかされた。体を見ないように服をかえさせた。
柔らかい右腕が俺の首に巻き付く。ゆっくりと壊れ物を扱うように、体をベッドに置く。俺が体を起こそうとする前に、マドカさんの一本しかない腕に力がこもった。どうしたのかと顔をのぞき込む。腕をほどくと、マドカさんはゆっくりと顔を覆う金属に手をやってベッドに置いた。焼けただれた顔は何も気にならなかった。仮面を外したことのほうが、はるかに大きな驚きだった。
「マドカさん」
答えはなかった。固くこわばったかさぶたが俺の唇に重なった。吐息が俺の鼻に届く。白い義眼も黒い傷痕も、その奥から伝わってくる深い哀しみを閉ざすことはなかった。
「離れないで。離さないで」
マドカさんの上に重なったまま、体をつぶさないように両肘で体重を支えた。
「いいのか」
「ええ」
「……辛かったら、すぐに言ってくれ」
マドカさんが無言で首を横に振った。目を閉じると、震える小さな声が耳に届いた。
「辛くないわ」
初めて会ったとき。美しいと思ってから8年が過ぎていた。その時は、金髪と灰色の目と、ほっそりとした手足を綺麗に感じたのだと思っていた。
美しさは何も変わらなかった。あの時に出会った姿がなくても、俺にとっては特別な存在だった。一番身近な人は、もうサクではなかった。今、俺の手の中にいる女だった。
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