忌々しい記憶

 六本木ヒルズにロボットを置いて新宿へ戻ると、もう夜だった。夏の暑さが近づくのを感じながら、古いゲーセンに入った。


 10年前に出た対戦型ガンシューティングが残っているのはこの店だけだ。黄色の筐体にまっすぐ向かい、ポケットから裸のコインを取り出す。画面の中には古いガタガタのポリゴン。香港か台湾みたいな電飾だらけの街。今日の事を忘れたくて、ガガガガと響くわざとらしい音に耳を預けた。


 ラクシュもハサウェイも、サクにこだわるなと言う。確かにそういいたくなるほど、俺が荒んでいるのはわかっている。それでも忘れるのは難しかった。あのころやっていたのはCGを撃つゲームではなく、ハッカーという巨大な相手を撃ち落とす、大それた射撃ゲームだった。


 *


 1年前。白い壁に包まれた会議室の中。200人を超える社員たちが、スクリーンを背にしたハサウェイをじっと見つめていた。タヌキはいつも通り、英語なのに小学校の校長を思い出すようなしゃべり方だ。ただ、誰も退屈そうな目をしていなかった。


「……以上がこの会社を買収してくれという交渉の結果だ。俺たちの生み出した新しく有用で、社会を大きく前進させる製品。これに対して、全く愚かなことだと思うが……シャダイ・コンピューティングは価値を認めなかった」


 ごくりと、誰かがのどを動かした。


「ここにいるサク・キサラヅをはじめとする技術者の諸君、コンサルタントの諸君、営業諸君、バックオフィスの諸君。君たちだ。君たちがこの会社を築き、育てた。軍隊。官公庁。金融。通信。国際組織。社会の根幹にかかわる組織が、我々の知性と努力の成果たるクー・フーリンに正当な対価を払ってきた」


 サクは俺の隣に座っていた。厚い眼鏡にときどき指を当てて、じっとハサウェイのセリフを聞いていた。男と思えない細腕が、ぎゅっと俺の袖をつかんでいる。ガキのころからそうだ。引っ込み思案で臆病で自信がない。だがこの会社を牽引し、製品開発を成功させたのは間違いなくこいつだった。


 白タヌキが話を続けた。


「俺は今、大きな憤りを感じている。俺のシャダイへの要求を説明しよう。君たちの基本給として最低でも年間1千万円以上の賃金を支払う事。経験豊富な社員に能力に応じて上乗せすること。販売金額に応じてボーナスを加算すること。不要な残業、夜勤、休日出勤を最低限に抑えること。臨時給としてこの会社を買収した際には全従業員に3ヵ月分を支給すること。以上だ」


 周りの連中が目を見開き、身を乗り出した。それだけあればなんだって買えるという、色気に満ちた視線が集中している。


「なんだそのみっともない顔は。大した金額だとでも思っているのか? 考えてみろ。たった2千人の企業が1人あたり1億5千万円も売ったんだ。そんなに俺の要求はおかしいのか?」


「正当だ!」

「当然だ!」


 海外から聞いている連中が、スピーカーが破れるような大声を出していた。日本のチームはこれが文化というのか誰も大声を出さないが、同じことを思っているのは明らかだった。


「シャダイによると、研究が順調に進まず君たちの給料は今より安くなるそうだ。そんな泥棒と手を組んでられん。だが安心しろ。世の中はやっぱり俺たちの味方だった。もう単独でいいからストックオプションを配ることにする。株だ。1株5セント、6円弱。これを1人10万株まで買ってくれ。高くて申し訳ないがな」


 タヌキが自分の言葉に負けてどんどん早口になっていく。息をのんで、全員が次の言葉を待った。この言い方となると、もう続く言葉は一つしかない。


「審査は通ったぞ。俺たちは東京証券取引所の市場第二部に上場する。初値で1株10ドルくらいは行きそうだ。もっと上がりそうにも思うが、まあ控えめにそう言っておく」


「IPOってことですか?」

「だからそうだって言ってるだろう」


 最前列の営業が声を出した。男は目を閉じて両手を握りしめ、女は口を手に当ててぼろぼろと涙をこぼしていた。


「ショウ」


 隣を見た。サクが呆然と前を見つめていた。


「上場か」


 2度、息をゆっくり吐いた。肺が両方とも止まりそうに思った。


「1人1億円だ」


 株なのだから、必ずしも言ったとおりの金額になるとは限らない。それでも、この社長がこれからタダ同然でばらまくデータは、どう転んでも数千万円を超えるだろう。


「大金持ちだな」


 学生の頃から数えて3年。その間に起こったあらゆることが、頭の中をめぐっては消えた。個人が億の金を手にするなんてのは、宝クジでも聞かない数字だ。


 話が終わって会議室を出るなり、誰かが叫び、全員が続いた。


 その日はもう仕事になんかならなかった。赤坂の事務所を出るなりホテルニューオータニになだれ込んで、一晩中酒を飲んだ。高い店を借り切って仲間たちと何十万のボトルをラッパで飲んだ。フグだのカニだのがひっきりなしに届いてくる。値段なんか気にするわけがない。俺たちはリッチなんだ。


 翌日、ホテルのロイヤルスイートで、ゲロの臭いと頭痛で目が覚めた。PCを無くしていないか不安になったが、鞄の中に入れてあった。周りの奴らは無理やり詰め込ませたエクストラベッドの上で寝ていた。社長からどんなメールが来ているのかと、ノートパソコンを開けた。


 いくつか未読メールが並んでいた。サクから来ていたのが目を引いた。


『僕は殺される』


 タイトルだけのメールで、本文には何も書いていなかった。周囲を見渡したがサクはいなかった。


 *


 あのメールを最後にサクは消えた。そして上場直後、新たに報告された通信系企業へのハッキングをきっかけに、売れ行きはぱったりと止まった。全ての他社製品が止めた攻撃が、クー・フーリンだけすり抜けを起こしたのだ。サクの失踪でバタバタになり、他社から買っていたデータの契約が切れていると誰も気がついていなかった。


 業界に噂が広まり、俺たちを目の敵にしていた企業が一斉にネガティブキャンペーンを張った。売上はみるみる下がり、会社へは連日引き抜き依頼の電話。半年後にハサウェイは負債を整理し、ルーグ・セキュリティは短い歴史に幕を下ろした。


 ハサウェイはこれを予想できていたのだろうか? 今考えてみればあの株の話も、税制適格なんかまるで考えていないように思えた。それはつまり、とんでもない額で株が売れても税金でかなり取られるということだ。そもそも最初から幻だったのかもしれない。そのことを白タヌキは何も言おうとしなかった。結局、ほとんどの社員は奴を単なるホラ吹きだと言って転職していった。


 クー・フーリン販売の権利はバングゥ警備保障が安値で引き取り、ハサウェイもそこに移った。最低限のエンジニアは確保できたので、今もなおクー・フーリンは多くの脅威に対応できる。それでも一度受けた悪名が覆ることはなかった。


 サクがなぜ消えたのかはわからなかった。思いつく理由はいくつかあるが、なぜあのタイミングだったのか、なぜ俺に理由を説明しなかったのかは今でも謎だ。本当に死んでしまったのか。誰かから逃げているのか。何もかもでたらめなのか。


 *


 ゲームのストーリモードが中断され、相手が入ってきた。回想を終えて対戦に集中したが、いつも会う連中より上手い。しまったと思った時にはもうやられていた。画面が赤く塗られ、雑居ビルの下にできたどす黒い水たまりに主人公が倒れた。


 ナップザックを拾い上げた。対戦相手に目をやり、こいつかと小さく舌を打った。中性的な顔立ちに長身痩躯。海老茶の開襟シャツとスラックスに新しいスニーカー。そいつが片手を振った。


「あんたかよ」

「お久しぶり。お仕事はないかな?」


 あまり会いたくない奴だ。ルーグ・セキュリティを辞めてから付き合っている情報屋だ。飛渡歩人ひわたりあるとと名乗っているが、たぶん偽名だろう。


「頼みたいのはサクの居場所探しだけだよ」

「つれないなあ。ダークウェブに新しいハッキングサービスができたのに。ブラックホールみたいなやつ。契約を代行しようか?」


 ブラックホールというのはこの業界では天文学の話ではなく、アプリケーションを攻撃するウェブサイト上のサービスのことだ。使い方は難しくなく、子供でもやり方さえ教え込めばハッキングができるようになる。ブラックホール自体は『太鼓腹Paunch』と名乗るハッカーが逮捕されて使えなくなったが、同様の手口が旧共産圏や新興国などで次々に開発されており、出来がよければ多くの客がつく。


「なんて名前で、いくらするんだ」

「リヴァイアサン。1年使い放題で150万円だけど、ちょこっとタダで使ってみないかい」


 横を向いてそいつの言葉を遠ざけた。要するに、こいつは犯罪用サービスを、セキュリティ業者である俺に販売しようとしているわけだ。ロシアのマフィアと接点があるらしく、何かといってはそこから仕入れたものの密売を持ちかけてくる。俺がそういう製品をテスト用に使うと知っているからだ。


「マニュアルもばっちりそろってる素人ハッカーに優しい設計だよ」

「実績はあるのか」

「大手だとトリスタンは買ったってさ。あとはまあ、小さい客がちょこちょこと」


 一言かわすたびに気分が悪くなる。ハッキングツールの製造や配布行為の規制は日本にはないが、国や地域によっては犯罪になる。俺にこれを売りつける一方で、こいつは別の奴――たいていは中二病をこじらせた男のガキ――を相手に稼いでいるはずだ。


 俺はアルトが嫌いだった。仕事はしっかりやってくれるが、人間としてはかなり下のほうだ。そして、そんな奴と何度も取引をしてきた自分も嫌いだった。


「借りるよ。役に立ちそうなら買う」

「仕事取ったのかい」


「アマテラス本体」

「やるね」


「あんたに褒められてもうれしくねえ」

「ははっ、ショウは厳しい」


 アルトがにっこりと笑顔を見せ、あとで連絡すると言ってゲーセンの外に手を振った。雨はやんでいた。地味なセーラー服の中学生がこちらを見る。アルトが出るなり、傘を左手に持ち替えて腕を握る。どういう関係なのかは考えたくもなかった。


 雨は止みそうになかった。灰色の世界で生きていることを、そこら中から嘲笑あざわらわれているように思えた。

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