南十字星の夜
自衛隊の採用が決まってから、ルーグ・セキュリティは大きく成長した。アマテラス特機から他のグループ会社に話が伝わり、通信キャリアとゲーム会社に採用が決まり、製品の名前が広まると大手企業が次々に代理店契約に応じた。
そして2017年の上半期はセキュリティ関連の事故が非常に多く、日本郵便と総務省で大量の個人情報が流出し、続いてこの数年でも最大の事件と言われた
「シンガポールに来い。支社を立てるぞ」
月曜の朝にいきなりハサウェイが言った。相変わらずクマのできた目を下から差し込むように入れてくる。少しは上機嫌なフリでもできないのか。
「そんな国で売れそうなのか?」
「そうじゃない。あそこにはアジアの拠点が大量に集まってるんだ。アジア太平洋ではオーストラリアを別格にすれば、俺たちのようなIT企業がまずおさえておくべきがシンガポールなんだ。最低でも10社は回るから、英語で資料を整えろ。10営業日2週間は確保してもらう」
「結構長いな」
「商談は1週間だけだがな」
束の間、タヌキ面が笑顔によく似た変な形に変わった。
「あとの1週間はなんだ」
「海辺にマリーナ・ベイ・サンズという変な形のホテルがある。そこに行ってもらう」
「はあ。なんでよ?」
「毎日8時間以上寝て昼は最上階のホテルで泳ぎ、高級な酒を飲んで料理を食うという激務だ」
「は?」
「まっぴらと言うなら、断っても構わんぞ」
「いや、そんな口調で言うなよ。どういう奴だよ。要するに売れたから遊んでこいってのか? 考えたこともない国だし、俺ひとり行ってもな」
「サクとラクシュにも同じことを言ったが2人とも返事に3秒もかからなかったぞ。つべこべ言っているのはお前だけだ」
「あんたはどうすんだ」
「俺は忙しいんだ。商談が終わったら帰る。毎日見てるお前の顔をそんなところで見たくもない」
「有給は使っちまったぞ」
「だからちゃんと話を聞け、それでコンサルタントか。業務時間を使って経費で行けと言ったんだ。同じことを何度も言わせるな。どうしても嫌というならお前だけ外す」
「いや行くけどよ」
「ならいい」
*
わけがわからないまま4人で飛行機に乗り、赤道直下の国で連日連夜の商談を繰り返した。わざわざ韓国やベトナムから来たエンジニアやセールスもいた。アジア人の英語には独特な訛りがあり、学校教育で習ったアメリカ英語がなかなか通用しない。アールは巻き舌、THの発音はスでなくトなのだとラクシュにスパルタ教育を受けても意思疎通はなかなか大変だった。サクが商談のたびに不安そうにするので、こっちまで神経がすり減る。それでもどの企業もおおむね内容は理解したという顔で、あとはどのような形で協業するかという話になりそうだった。
ぐったりしながらリトルインディアのホテルを抜けてマリーナベイに到着し、最初の日は夕方から翌日の昼まで寝た。目がさめると、南中した太陽が真上にあるのに、エアコンが強力すぎて恐ろしく寒い。電源を切ってから、細く開いたカーテンを動かした。
経験にない青さだ。空というのはこういう色だったろうかとしみじみと見上げた。見おろすと、高木のテンブスという常緑樹が伸びている。振り返った時に、背中にサクの声が届いた。
「虎ノ門ヒルズにさ、アンダーズっていうものすごいホテルがあるんだ。最上階に」
「何いきなり言ってんだ、お前」
「いや、実はちょっとあこがれてたんだよね、高級ホテル。そこが僕の知ってる1番立派なホテルなんだけど、こっちのほうがすごいなあ」
「そらまあ、1泊8万円の部屋とかもう一生泊まらねえだろうよ」
「こんなとこ好きだな。なんかいいアイデアが浮かびそうな気がする」
「意外にお前ミーハーなんだな」
「広くて植物があって。いいとこだよ」
「そうかねえ。ま、せっかくだし俺様も高級ライフを堪能してやるかね……」
身支度を整えてから2人でロビーに降りた。やけに静かだ。昨日は人の出入りが多かったようだが、他の客はとっくに起きてしまったのだろう。ラクシュがソファに体を沈めてパソコンゲームをやっている。新しいアカウントでリンガ泊地所属の新人提督になったと言っていたが、もうこいつの暗号はスルーと決めていた。
「外、出てみるか」
ラクシュにパソコンをたたませて、3人ですぐそばにある植物園の散歩道を歩いた。濃い色の群葉と樹皮から甘い香りが届いてくる。隣には淡いオレンジ色の花を咲かせたモクレン。スーパーツリーとかいう巨大なキノコみたいな建築物がいくつも並んでいる。なんだかファイナルファンタジーかなにかに入ったみたいな気分になった。
人工池に渡された遊歩道をあるいて景色を眺める。何も予定はなかった。これまでは常に自分を忙しくさせるのが日課だった。ツールを動かすことも、人と会うことも、専門書を読むこともしていない。こんな日を過ごしたのは、初めてサクの家に行ったとき以来だ。そのころは俺とサクと……そして、マドカさんがいた。その思い出はずっと心の底へ沈めていたが、日差しが落ちる森のような木々の中に、久しぶりに彼女を思いだした。
「泳ぐ?」
ラクシュが、空高く3本のビルの最上階に渡された、地上200メートルのプールを指さした。
「泳いだの、中学生のときが最後だよ」
サクが少し顔を赤くして、眼鏡をはずしながら答えた。
「水着は持ってきてるんでしょ。ナンパに行かないの?」
「僕にはできないなあ」
する必要がないだけなのだが、本人にはその自覚がないようだ。
「行こうよ」
ラクシュがサクの手を引く。天気は素晴らしく良かった。サクがためらいがちに首を縦に振る。大きく伸びをしてからホテルへ向かった。
*
上には更衣室が無いので、部屋で着替えてエレベータに乗った。ラクシュも部屋から出てきた。朱色と茶を大胆に使ったビキニに、上から軽そうなオレンジのパレオをまとっている。中身がラクシュだとわかっていても、少し大きめに心臓が動く。サクと2人で不自然に目をそらした。
デッキチェアから見えるシンガポールの夜景は独特な美しさがあった。香港上海銀行や中国銀行が並ぶ超高層ビル群の下に、豆粒のようなマーライオンが見える。巨大なプールに入ってみると、水は冷たいが外の30度を超える気温と釣り合って心地いい。こんなところに観光に来る奴のことが今まで全く理解できなかったが、少しだけその考えが変わった。
夜までさんざん遊びまわってから、水着のまま屋外レストランの傘の下へ向かった。南十字星をながめながら、つぎつぎやってくる分厚い肉を取り分ける。
「ビールでも飲んでみようかな」
サクが珍しくそんなことを言った。
「飲めるのかお前」
「ジンジャエールは毎日2本。知ってるでしょ」
「でもビール飲んでるの見たことないぜ」
「今日はちょっとそんな気分。1杯くらいは飲めるんだ」
グラスが届く。2人でチンとグラスを鳴らすと、ラクシュがくすっと笑ってから、業界の話題をふってきた。どの会社の誰が面白い製品を出したとか、新しい技術でなにかを作ってみたとか。それに続いて、俺たちを交互に見てから言った。
「2人は、なんでこの仕事選んだの?」
ん、と、サクと顔を見合わせた。
「僕は他のことができないから……」
サクが小さな声で言った。
「ショウは?」
「なんだろな。食えるようになりたかったな。手に職ってのか、そういうのが欲しくてよ」
「なんか普通だね。もっと2人ともロマンチストかと思ってた。ハッカーやスーパーエンジニアみたいな有名人に憧れてとかさ」
「そうかあ?」
有名人で知ってる人はどのくらいいるだろう。ふと、記憶を探ってみた。
「まあジョブズはすげえけど、あんまり一緒に働きたくねえな」
「うん。ビル・ゲイツも経営者としてはすごいと思うけど……ちょっと違うかなあ」
「ザッカーバーグはどうかね」
「映画のせいで印象が悪いよね」
ソーシャル・ネットワークという映画は、孤独なオタクのザッカーバーグが大衆のサービスとしてのフェイスブックを作る一方で、一緒に仕事をした友人と仲たがいをするという内容だ。作品は成功したようだが、あれを見てザッカーバーグ本人に魅力を感じる人はあまり多くないと思う。
「うーん、どれもビジネスマンじゃない。ハッカーって感じじゃないよ。セキュリティの分野なら?」
ラクシュがマンゴーを食べながら楽しそうに聞いてくる。
「ショウはあれじゃない。ジョン・マカフィーじゃないの」
「ねえわ。別の意味ですげえと思うけど」
「キャラクター的に好きかと思ってた」
「ヤク中で殺人犯だぜ」
「犯人じゃないよ。容疑者」
サクがツッコミをいれながらドラゴンフルーツを取り分けた。
「実力勝負ならケビン・ミトニックかね」
「それなら下村努の方がすごいと思うよ」
テイクダウンというノンフィクション小説に描かれたケビンとツトム・シモムラの対決は、セキュリティ分野の人間なら一度は聞いたことがあるはずだ。彼らの恐ろしく地味で恐ろしく高度なハッキング勝負は、サクに会ったころに読んで大きな衝撃を受けた。
「じゃあこういうの作りたいとか、こういう人になりたいとかは?」
ラクシュはさっきから質問攻めだ。今日は珍しくアニメとマンガとゲームの話題を振ってこない。昨日までクトゥルフにダゴンにナイアルラトホテプとかいう、暗号のような名前の神様が出てくるゲームの話をまくし立ててたのに。
「……そうだな。俺はハサウェイが言ってたみたいな、犯罪に手を染めないホワイトハットなんてのは目指したいなと思うけどな」
「そう?」
サクが珍しく怪訝な顔で答えた。
「悪くねえと思うんだけどな」
「そうかな。僕も最初はそう思ってたけど、今はそうでもないな。体制側の都合でできた言葉みたいな気がするよ。技術の世界は自由なのにさ。不健全な法律や制度でコンピュータの可能性を侵害されるなら、僕はブラックハットでもいい」
「サクには、コンピュータが哲学なんだね」
ラクシュが指を組んで口の前において、静かな笑顔でじっとサクを見つめていた。
「そうなのかな。僕は哲学はわかんないよ。でも、神聖なものなんだ」
「ふーん……」
なんとなく、ラクシュがサクを好きなのはわかっていた。ただ、それは話をしたり同じものを食べたり一緒に寝たりという、そういう好きではないようにも思えた。ただ眺めていたいというか、価値のある美術品を鑑賞している視線に近い気がした。
「でもセキュリティをやって、最近少し考え方が変わったな」
「へえ、どんな」
サクが自分から考えを話すことはめったになかった。最後のマンゴスチンを腹の中へ突っ込み、その上からビールを流し込む。ゴミが山積みになった皿をウェイターが下げた。
「セキュリティ製品をもっと世界中に広めれば、きっと犯罪に巻き込まれるような人はもっと減らせるだろうなって」
「ああ、まあそりゃ。そのためにも売らねえとな」
「そうなんだけど、売らなきゃ売れないのがね。もっと多くの人が関心を持った方がいいと思う。誰だって家に鍵をかけるし、ビルなら警備員を雇うでしょう?」
「うーん、まあそうかねえ」
「新しく作りたいものがあるんだ」
サクが空になったジンジャエールを静かに置きながら言った。珍しく、言いたいことがあまり見えてこない。
「どんな?」
ラクシュと俺の声が重なった。
「攻撃者が奪おうとする情報にマーカーを埋め込んでおいて、反撃ができるような」
「うーん、そういうのはもうないかな?」
ラクシュが首を倒しながら言った。
「もっと工夫したいんだ。帰ったらハサウェイに言ってみるよ」
サクが立ち上がり、ふとつぶやいた。
「僕、尊敬してる人はアーロン・スワーツだな」
知らない名前だった。聞こうとしたが、サクの視線は空へ向いていて、つられて俺とラクシュも同じ方角を見あげた。満天の宝石へ右手を高くあげ、メガネを外してサクがつぶやいた。
「星に手が届きそうだ」
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