1章 捜索者 廃屋の底の底

家賃1万5千円

 かちり、というクリック音に続いてブラウザを開く。画面いっぱいに表示されるウィンドウの隅へカーソルを移動させて、ブックマークをクリック。


 そう聞くと自分の日課と変わらないなと思うかもしれないが、俺の方法は少し普通と違っていて、グーグルクロームやマイクロソフトエッジは使わない。代わりに使うのはTorってやつだ。読み方はトーア。このブラウザを使うと、普通はたどり着けない「ダークウェブ」という区画へアクセスできる。ここはハッキング製品や麻薬や違法ポルノなど、日々、ろくでもない取引が飛び交っている無法地帯だ。


 2019年7月。今日も邪魔が入らなければ、俺はそこである情報を探す予定だった。


 どがらがしゃん。


 今日は邪魔が入った。薄暗い部屋に鳴り響く謎の音。部屋の奥へ目を向ける。厚化粧の女が眉間にしわをよせてドアノブだけを握りしめていた。ドア本体はない。どこに行った。


 床を見ると、でかい板がばったり倒れていた。なるほどまた壊れたか。状況を理解するのに3秒くらいかかったぞ。


「ふっざけんじゃないわよ! もう帰る!」


 舞踏会の仮面みたいな白い顔が、ドアノブを投げ捨てながら奥へ怒鳴りつけた。


「いやいや大丈夫だよ、絶対に大丈夫! さあ、椅子に戻って!」


 その向こう、倒れたドアの向こうから、明るく大げさで鬱陶しい詐欺師の名刺みたいな声が返ってきた。


「どこの世界に1週間ハダカでこんな気持ち悪いコードつけて生活する人がいるのよ! お金もらったって絶対イヤよ!」


「いやいやいやいや、これは人類のための崇高すうこうな実験なんだよ! IoTは今や日進月歩なんだってば! さあ今すぐ恥じらいながら服を全部脱いで!」


「イヤっつってんの! ほか当たって、ほか!」


 女は肩を揺らしてもう一度怒鳴り、紺色のジャケットを羽織って俺の横を通り過ぎた。見覚えはあるが名前は知らない。こんなところに来る奴だし、覚えたってしょうがない。


「また来てねー!」

「今までがなければぶん殴ってるとこよ!」


 響きわたる捨てゼリフを残して、女が出口のドアノブを握った。


 どがらがしゃん。


 出口までぶっ壊れて白い煙が立ちのぼる。まずいな。機械はほこりに弱いんだぞ。デスクトップパソコンに布をかけ、空気清浄機を強に切り替えた。


 この場所について説明しよう。新宿駅を降りて百人町というエスニック・タウンへ入り、脇道を少し歩いたところに変な路地がある。そこから地下へ降りて廃屋の底の底、瓦礫がれきの下の下。ケーブルと空き缶をこえた先のびたドアに、中国語と日本語と英語で『複雑な事情のある病人と怪我人歓迎』と書いてある。それがこの場所であり、俺の下宿先だ。


 さて、一応話でも聞いてやるか。倒れたドアをよけて診察室へ入った。茶色の長椅子、ホウロウの洗面器、そして人体模型。黄緑のカーテンをめくりあげるとヤブ医者が白衣を脱ぎながら出てきた。つややかな黒い髪。目は細く肌は白い。さわやかな笑顔だが、こんな場所なのでホラー映画の悪役にしか見えない。


「なんかやらかしたのか、また」

「いやぁ、逃げられてしまったよ」


 長髪をなでながら言う。こいつはウォン。黄家麒ウォン・ガーケイ。俺に住むところを貸している香港人の医者だ。推定年齢32歳。多分不法滞在。腕はともかく頭が絶望的におかしい。脳を入れ替えるのはこいつの技術でも無理だったようだ。


「そろそろ誰も来なくなるぜ。患者を実験台にするのいい加減にしろよ。IoTとか言っても普通わかんねえだろ」

「タダで診てるのに非協力的だよねえ。次から好みのコからもお金とろうかなあ」


 IoTというのは様々な機械をインターネットにつなげる仕組みのことだ。こいつの場合は、義手や義足などのあらゆる医療技術をインターネットにつなげる研究にいそしんでいるらしい。なお、なぜ人を裸にする必要があるのかは知らない。


「それよりどうすんだ、それ」


 倒れた2つのドアを両手で指さした。たしか昨日この家主は『美しく完璧に誰にも文句をつけられないくらい見事に直したよ!』と言っていた気がする。


「困るよねえ。彼女乱暴すぎるよね」

「そうじゃねえ。ネジ穴がバカになってんだから蝶番ちょうつがいとノブをずらせって言ってんだ。わかれ」


「よし頼んだ!」


 ウォンがにっこり笑顔で俺の両肩をつかんだ。


「なんで俺が?」

「僕の繊細な指先はIoTを研究したり愛くるしいショウ君をかわいがったりするためにあるんだよ。わかるだろう?」


「わからねえ」

「じゃ、トンカチとクギはその棚にあるからね! 親愛なるショウ君、僕の言うことがわかったかい?」


「てめえの言ってることはわかった。てめえがわからねえ」

「そんなこと言わないでさあ。どうせダークウェブでエロ動画見てるだけでしょう?」


「人探しだって言ってるだろ。ったく、奴が見つかったら明日にでも出てってやるのによ」


 嫌味を言ってから立ち上がり、工具箱を開く。ドアを立てて両足の間に挟み、釘が刺さるようキリで穴をあけた。


 そろそろ自己紹介をしよう。俺は進藤将馬。26歳。職業はサイバーセキュリティコンサルタント。加速するサイバー犯罪に対応するため、豊富な経験と知識を活かして様々な企業へアドバイスをする、いわゆるエリートだ。当然金には困らず、女にはモテまくり、社会的地位も高い。高度なハッカー達と情報戦を繰り広げ、犯罪者と戦うスリリングな毎日を過ごしている。日々、忙しい。


「そうだショウ君! そろそろ家賃を3ヵ月もらってない気がするんだよね! 仕事が見つからないなら、君のカラダで払ってもら」


「うっせえ少し待ってろ! 払う気はあるって言ってるだろ!」


 もう少し正直に言おう。


 俺は進藤将馬。通称ショウ。元々はITセキュリティで食っていたが、今は失業してニート生活だ。この冗談みたいな場所に住んで1年になる。月1万5千円の家賃を滞納中。おかげであの長髪に毎日雑用を押しつけられる。


「いてっ」


 2つ目のドアを固定した時に壁のトゲが指を突いた。しまったな。ヤブでも絆創膏くらい持ってて欲しいが……


 思うのとほとんど同時に、独特な日本語が両耳に降りてきた。


「使う?」


 目の前にハンカチがゆれている。顔を上げると、あまり見たくない女が立っていた。

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