カゲ
@HIB
第1話
「話ってなんだよ」
家に入ると、靴も脱がないまま口を開いた。何度来ても、この部屋の獣臭さには慣れない。
「まぁ、入ってよ」
彼はそう言い置くと、そそくさと部屋の奥へと引っ込んでしまった。
「んで、話って?」
床に腰を下ろすや否や、再び口を開く。
「ちょっと、頼みごとがあってね」
「頼みごと?」
持参したコーラの蓋を開けながら、聞き返した。
「でも、その前に見て欲しいものがあってさ」
そう言うと、素早く立ち上がり隣室の引き戸に手をかけた。その瞬間、戸があたかもスイッチだったかのように体に嫌な予感が走る。
「待った」
彼の顔も見ないまま、思わず声が出た。
「もしかして、生き物関係…とか?」
「おぉ、よくわかったじゃん」
得意げな声に驚いて素早く顔を上げると、ニヤリと不気味な表情で、勢いよく引き戸を開ける彼の姿が見えた。
彼とは、中学から現在の大学に至るまで約七年間の長い付き合いだ。大学に至っては合わせてもいないのに、同じところに進んでしまったものだから、半ば腐れ縁のようなものだと、俺は勝手に思っている。
自己中心的で他者を巻き込む。常識が欠如していてその行動の多くは理解に苦しむ。彼の性格は決して一言では言い表せないが、彼を語る上で絶対に欠かせないのは「生き物」だ。
彼は生き物を愛している。ただ、その種類が問題なのだ。
犬や猫、ウサギや小鳥。それらの愛玩動物も、もちろん好きなのだが、厄介なのはそれだけにとどまらず、通常は忌避されるようなものの方が愛しているということだった。
中学時代、理由はなんだったか、詳しいことは忘れたが、彼は突然、『ネズミを百匹集める』と言い出したことがあった。当時の俺はまだ、彼とは友人になりたてだったこともあって、その話を笑って聞いていたが、後日彼に呼ばれて家に行ってみると、彼の自室には溢れんばかりのネズミが入った小さなケージが置いてあり、それを指差して『あと八匹』と笑っている彼がいた。
今思えば、彼のことを頭のイかれたやつだと認識する最初の事件だったのかもしれない。
この時の光景は今でも忘れない。––いや、忘れられないと言った方が正しいか。一匹でも気持ち悪いあのネズミが九十二匹も小さなケージに押し込まれていたのだ。その気持ち悪さといえば…、なんとも筆舌に尽くしがたいものがあった。今、少し思い出しただけでも吐き気に襲われそうだ。
結局、この「ネズミ百匹事件」は残り一匹のところで母親に見つかり、保健所に駆除されるといった、あっけない幕引きを迎えたが、彼の「イかれた話」は挙げればきりがない。
ともかく、俺が数多くの事件から学んだことは「彼と生き物を交わらせるとロクなことにならない」と言うことだけだった。
触らぬ神に祟りなし、とはよく言ったものだが、俺はいつだって彼に、祟られる。
重い足取りで入った引き戸の先には、なんの変哲もない、六畳一間の和室が広がっていた。
部屋に入った時、体にヒヤリと冷たいものを感じた。見上げるとエアコンが点いているようで、「運転」の横に小さなランプが点いていたのが目に入った。また、見上げて見て気がついたのだが、明かりもついているようだ。
一瞬、彼が基本的にリビングでその生活を完結させている人間だったと言うことが脳裏をよぎった。だとしたら、自分が使っていない部屋にどうしてここまで、と思ったが、そこまで考えて思考をやめた。彼にとって、それは愚問なのだろう。彼はいつだって人よりも生き物、なのだから。
そんなことを考えながら、ぐるりと部屋を見回す。部屋の内には、ケージや鳥かごのようなものは一切見当たらない。それよりも、俺の目を引いたのは工事現場で使用されるような投光器が部屋の角に置かれていることだった。
どうして、こんなものがこの部屋にあるのだろう。この狭い部屋の内を照らすには、余りある光度だと思うが…。
––と、いうか。
「生き物、だよな」
「うん、そだよ」
「どこにいるんだ?」
話しながらも、俺はせわしなく視線を動かしていた。ケージの類が一切ないということは、そこに入りきらないほど大きな生き物か、もしくは、入れられないほど小さな生き物かのどちらかだという事だろう。前者だとするならば今目に入っていないということは考えられないから、自ずとその可能性は消えるだろう。つまりは、小さい生き物だという可能性が高いということになる。
––小さい生き物…。
もしかして虫の類か。だとしたらたまったものではない。虫は大の苦手だ。
「下だよ、下。みてみ?」
「下?」
促されるまま視線をゆっくりと下ろしていく。瞬間目の端で黒いものがもぞもぞと動いた気がした。やはり虫か…。悪寒を感じながら、その黒へと視線を合わしていく。
直後、その正体に気づいた。同時に体が強張るのを感じた。
––いや、ちがう。虫なんかじゃない。
––影だ。
その影は猫の形をしていた。真上から見た猫の形。光源と影の間に猫は存在しておらず、その影だけがべったりと畳に張り付いている。
そして、それは今、俺の目の前をゆっくりと移動していた。一歩一歩、踏みしめるように、左右の足を器用に出しながら。
「驚いただろう」
俺の様子を見ていたのか、彼が得意げに声をかけてきた。それにつられるようにして顔を上げる。
「え、こいつって、生き物…だよな」
自分でも、驚くくらいか細い声が出た。体が強張ってしまってうまく声が出せない。これでも精一杯だ。
「んー、たぶんね」
––多分って、おまえ。
横目でギロリとねめつける。
すると、それを知ってか知らずか、彼も視線を返してきた。
そして、顔を覗き込んで口を開いた。
「それにしても、意外とびっくりしてないね」
「いや、かなり驚いてる」
本当に驚いてはいるのだが、どうもそれが外には出ていないらしい。人間、真に驚くとこんなものなのだろうか。
「そっか」
興味なさそうにそう言い捨てると、再び影の方へと向き直った。
「まぁ、僕自身この子が何者なのかはわからないけど、面白いから飼おうと思ってさ」
嬉々として、そう口を開くと、そのまま言葉を続ける。
「僕は、この子を『カゲネコ』って呼んでる」
「…カゲネコ」
思わず復唱してしまった。
そのままというかなんというか。なんともいえないネーミングセンスだ。
「んで、頼みごとなんだけどさ」
「なに」
目を見ないままで吐き捨てる。全くもって嫌な予感しかしない。
「明日から三日間、旅行に行くんだけど、その間だけこの部屋でお世話して欲しいんだよね」
––ほらきた。
「なんでだよ。やだよ」
顔の前で手を合わせたまま、頭を下げている彼を見ながらふと思う。
彼は頑固な男だ。一応こうして断っては見るがどうせ押し切られてしまうのが関の山だろう。
こうして、目の前で猫じゃらしを振ってみると、こいつは跳びつこうとその前足をばたつかせていた。決して触れないということに気がついていないのか、はたまた、気づいている上での本能的な動きか。
どちらにせよこれだけ見ている限りはただの猫––の影––なのだが。
案の定、俺は彼に押し切られる形でカゲネコの世話を引き受けてしまった。
もっとも、影猫は餌も食べず、それ故、糞もしないため、遊び相手になってやることがそのほとんどを占めていたのだが。
ちらりと時計に目をやる。午後九時半。そろそろ、世話の内の「遊び」以外のことをやる時間だ。それには、あの、投光器を使用するらしい。
部屋の隅まで歩いて行き、投光器の上部についた取手に手をかけ、そのまま片手で持ち上げる。思っていたより重く感じられ、慌てて両手で抱えるように持った。
どうやら、こうやって持つのが正しいようだ。
そうして、そのまま部屋の中心まで運び、手を挟まないようにして慎重に畳においた。すると影猫が足を滑らせながら勢いよく、投光器の前まで走ってくるのが目に入った。その光景に微笑みを浮かべながら、ゆっくりとスイッチをオンに入れる。
瞬間、部屋全体が真っ白な光に包まれた。想像はしていたが、かなりの光度だ。俺の想像をゆうに超えてくる。
その光は、まばゆいなんて生易しいものではない。目をチクチクと刺してくるような、痛みを覚えるほどのものだ。
少し経ってようやく、光が目に馴染んできたようだ。強く、目をつぶってからよく凝らしてみる。すると、輪郭がぼやけて、いまひとつはっきりとはしないが、白の中に一際濃い黒が浮かび上がった。そいつは、その背筋をピンと伸ばして、気持ちよさそうに寝そべっていた。
彼曰く、これはカゲネコにとって食事のようなものらしい。つまり、こいつは今、光を「食べている」のだ。
––ただ…。
この姿を見ている限りは、食事というよりは「ひなたぼっこ」と言われた方がしっくりくるのだが。
そろそろか、と言われていた通りの十分ほどで、スイッチをパチリとオフに入れる。それから、霞む目をこすりながら、投光器を設置とは逆の手順で元の位置に戻した。
ふうっ、と一息ついて腰を下ろす。カゲネコの方を見遣ると、そのまま名残惜しそうに寝そべっていた。まだ「食べたい」のか動こうとする気配はない。
近くに転がっていた猫じゃらしを手に取り、軽く振ってみる。だが、こいつは顔だけをこちらに向けて、動こうとしない。
その姿を見ながら、ぼうっと頭を動かしていた。
––こいつは何者なのだろう。
考えたところでその謎は解けないだろうが、それでも、半日一緒に過ごしてわかったことが二つある。
まず、こいつは「影」であることを除けば、ただの猫だということだ。動くものを捕まえようとして、その前足を器用に素早く動かすし、高いところが好きで姿が見えないと思ったら、だいたいは鴨居に登っている。つまりは動物事典の猫のページに記載されている生態と、全く同じだということだ。
そして、もう一つはこいつが「影を嫌う」ということだ。こいつは、自らが影であるにもかかわらず決して影のうち入ることはない。試しに、体で影を作って近づいてみたところ、磁石が反発するように、一定の距離を確保していた。
ただ、このことは彼も知っているようで、和室の明かりは決して消さないように釘を刺されていた。彼自身、明かりを消したところで、なにが起こるかはわからない、とのことだったが、万が一のことがないようにとの配慮だった。
––しかし。
自らも影であるのに、影を嫌うとはどういうことなのだろうか。「仲間」のようなものではないのだろうか。近いものが故の同族嫌悪か、あるいは。
自らが「闇」であることを自覚した上で、より大きな「闇」に飲み込まれることを恐れているのか。
翌日、午後十時。俺は自分で握ったおにぎりをほおばりながら、カゲネコの姿を眺めていた。
「食後」のそいつは、昨日と同じ場所、同じ体勢で余韻に浸っているようだった。こいつが本物の猫なら背を撫でてやるところなのだが、そうもいかないのがもどかしい。
今日は、昼前ごろから強い雨が止まず、時折混じる雷にオーバーに体を震わしていたが、慣れたのか、諦めたのか、いまではすっかり、リラックスしているようだった。
窓の外に目を遣ると、夜の暗さだけではないであろう真っ黒の空から、バケツをひっくり返したような雨が降っていた。特には雷鳴も聞こえる。心なしか、カゲネコも陰鬱そうだ。
ふっと、彼のことを思い出す。どこに行ったかはもう忘れてしまったが、この雨で楽しめているだろうか。いや、もしかしたら、明日に向けて荷物をまとめている頃かもしれないな。
––そうか、明日で終わりか。
明日の昼ごろで、こいつともお別れかと思うとどことなく寂しい感じがした。最初は、得体の知れない奇妙な生き物だと思っていたが、二日も過ごすと愛着も湧いてくるもんだから不思議なものだ。
––最後に少し遊んでやるか。
転がっていたネズミのぬいぐるみに手を伸ばす。
その瞬間だった。
一瞬、指先を見つめていた視界が白んだ。コンマ数秒遅れて、鼓膜を破壊せんばかりの轟音が部屋と、そして空気を襲った。それに共鳴してか、ただの驚きか、心臓が破裂せんばかりに脈打っていた。
それが、雷だと気付いたのは全てが終わってからだった。
––そうだ、カゲネコは…
「おい、大丈夫…」
口を開きながら、視線を向けた瞬間だった。
パチリと小さな音と共に、今度は視界が闇に包まれた。
瞬間、出がけに決して明かりを消すないようにと言った時の、彼の顔がよぎった。
––まずい。
瞬間、心臓が鞭で叩かれたかのように跳ねた。同時に勢いよく立ち上がる。停電か。あんなに明かりを消さないように気をつけていたのに、まさかこんなことになるなんて。
目を凝らして見るが、眼前に広がるのは闇ばかりだ。迅る心臓を落ち着かせるように深く呼吸をしながら、ポケットからスマホを取り出しライトをつける。それから、光を眼前へと向けた。
向けた光の先、照らされるのは部屋のうちだけで、一向にカゲネコの姿を認めることはできない。
「おい!」
カゲネコは鳴かない。だから、俺の声が聞こえていたとしても返事はない。だが、いてもたってもいられず声が出た。
––消えたのか、闇に飲まれたのか。
せわしなく、光を動かすがやはり姿は見えない。
その時、ふっと違和感を覚えた。
状況にではなく、心に、だ。
––怖い。
いままで、味わったことのない種類の恐怖。ゆっくりと心を蝕まれるような、そんな感覚。
––なぜ急に…。
だめだ、考えられない。
思考も恐怖に侵食され始めた。具体的な何かではないのだ。ただ言いようのない恐怖。
その時、手足が震えだした。手からスマホが零れ落ちる。ガタガタと顎も鳴っている。
––こわい。
足に力が入らず、がくりと膝が折れた。吐き気がこみ上げてくる。心なしか、視界もけぶってきた。苦しい。
––こわい。
視界がぐるりと回った。
薄れゆく意識の中、偶然にもスマホから発せられる光が眼前に拡がった。
意識が切れる直前、最後に見たのは巨大な「影」だった。
「…い!」
「おいって!」
言葉と同時に、強烈な一発が頰に見舞われた。
声にならにない声とともに跳ね起きる。
「大丈夫?」
彼が心配そうに、顔を覗き込んでいる。深刻そうな顔と、その間抜けに日焼けした黒い顔の対比がどこかアホらしい。
「あ、あぁ」
そのとき、ふっと吐き気が蘇った。焚きつけられたように素早く立ち上がり、便所まで走って行った。彼が背に言葉を投げるが、それどころではない。
ひとしきり吐き終えると、口元を洗ってから部屋へと戻った。彼が口をポカンと開けたまま座っているのが目に入った。
「大丈夫なの?」
訝しげにそう口を開いた。
「うん、まぁ…」
全て吐き切ったのか、心なしか胸はスカッとしていた。
「なんか、悪いもん食ったんかな」
ははは、と笑ってそう言ってみたが、ちゃんと笑顔が作れていただろうか、自信はない。
それより、と言葉を継いで続ける。
「カゲネコは?」
そのとき、ぱぁっと彼の顔が晴れたのがわかった。
「あ、あの子なら元気だよ!」
そう言って彼は、俺の背後を指差した。
指した方向に目をやると、あの生き物はいつも通り鴨居の上で体を伸ばしていた。
帰路につきながら、胸に手を当ててみる。
結局、あれはなんだったのだろうか。
不意に襲ってきたあの恐怖は、今となっては跡形もなく消え去り、感じることはおろか、思い出すこともできない。
そして、最後に見たあの「影」は…。
ともかく、このことは彼には伝えなかった。なぜだか伝えない方が良いのだとそう感じたのだ。
ただ、俺が伝えなかったところで、彼もいつか知ることになるのかもしれない。
あの恐怖を、そしてあの闇を。
カゲ @HIB
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