3 暗室の思い出
写真好きだった祖父は、自宅の離れを改造して暗室まで作っていた。離れといっても、簡単な流し台とトイレがついているだけの一間部屋。今でいうなら1DKか、1Kか。どこからか廃材のドアをもらってきて二重扉にしたり、窓という窓に手製の暗幕を張ったりと、ひとつひとつ自分で手を入れていくのが、子どもだった俺の目にも楽しそうだった。
「秘密基地みたいだったよな」
独り言のつもりで呟いたのだが、兄の笑い声が聞こえて思わず振り向いた。
「秘密基地ねえ。ま、お前は小さかったからそう見えただろうけどな」
含みのある言い方にムッとして、兄に問い返す。
「じゃ、カズ兄ぃにはどう見えてたんだよ。誰にも邪魔されずに自分の好きなことにどっぷり浸れる空間を持ってるなんてさ、男としてはそれ憧れじゃん。俺は好きだったよ、あの暗室」
今でも鼻腔に残る酢酸のにおい。絶対触るなと言われていた茶色い瓶。メジャーカップ。ホーローのバットの中でゆらゆらする印画紙。御影石の流し台の横で鎮座していた引き伸ばし器。赤いセーフライトが創る異空間……
「お前、『お座敷暗室』って知ってるか」
「はあ? なんだよそれ。めっさ昭和っぽいんですけど」
「ああ、そうだよ。昭和の話。俺だって直接見たわけじゃない、親父から聞いたんだ。当時写真をやってた人の中には、座敷、つまり部屋の中で現像作業する人が結構いたってさ。畳の上にビニールシート敷いたり、押入れ利用したり。ただ洗浄の作業だけは水が要るから、風呂場使ったりな」
俺はすっかり目が冴えてしまって、兄の話に聞き入った。
「すげえな。じいちゃんもそれやってた?」
「らしいよ。でもだんだん機材に凝り始めて、ばあちゃんに内緒で引き伸ばし器まで買ったりしてさ。凝り性だったのがまずかったな……」
「まずいって、何が? やっぱどうせなら本格的にやってみたくなったったんじゃね? 俺だって今も暗室があったら自分でやってみたいもん」
「甘いな、お前。今と時代が違うだろ」
兄はこちらを向いて苦い顔をした。
「マコト。親父がじいさんの趣味嫌ってたの、なぜだか知ってるか?」
「え……さあ」
深く考えたことはないが、確かに父は、祖父の写真趣味も、俺や兄が暗室に出入りするのも嫌っていた。
「俺はさ。じいさんが写真をやめて暗室も片付けるって言ったときの親父の顔が忘れられないよ。『今さら!』って怒鳴り始めたんだ、親父は。『止められるような道楽なら、なんでもっと早くに止めてくれなかったんだ、こんな機材やらカメラやらにつぎ込む金があれば、俺は昼間の大学に進学できたんだ!』ってさ」
俺は言葉が出なかった。
父が高校卒業後、働きながら夜間大学に通ったことはさんざん聞かされていた。三人兄妹の長男として、親に負担はかけられなかったのだとも。けど、オヤジの苦労自慢なんて、と正直なところ俺はまともに耳を貸したことがなかった。
「俺やマコトが無邪気に暗室に出入りしてた時、親父はどんな思いで見てたんだろうな。それにばあちゃんもさ」
「知るかよ」
俺は背を向けた。
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