第15話

 発病から約半年で死に至るその病は、今まさに女王の命の灯火を吹き消さんとするはずであった。だが彼女は血の染みのようなアザを見ない限りは病人とは思えない。ルーク王のように衰弱することも、口がきけなくなることもない。それは女王の生に対する凄まじいまでの執着が、死神さえも圧倒したとしか考えられなかった。事実女王は発病してからというもの、高熱に襲われても発作に襲われても、生きることをあきらめはしなかった。薬で吐き気を押さえ、死神に挑みつけるように食事をした。それを吐いてもあきらめなかった。時に発作に襲われ身動きが取れなくなったときは、常に一人きりで部屋に閉じこもり、誰にもその衰弱した姿を見せはしなかった。ただひとり、翡翠騎士団長ラスフィールだけが死神から護ろうとするように、女王の寝室を警護していた。

 病との、迫り来る死との戦いはまったく孤独だった。誰一人救えるものはない。限られた時間の中で、果たすべきことを果たせるのかどうかという焦りまでもが、女王を極限まで追い詰めた。この病から逃れる術がないのであれば、この世に未練なく去ることが唯一の救い。そのための手段は、女王にはひとつしかなかった。


「行くぞ」

 純白のドレスの裾を躍らせながら、軽やかに女王が床を蹴った。剣を構えたまま動かない黒髪の騎士にまっすぐ向かっていく。

 これが本当に死の瀬戸際に立たされた者の動きなのだろうかとリグルは疑わずにはいられなかった。その突進はリグルやラスフィールのように疾風を思わせるものではなかったが、羽が舞うように軽いものであった。見惚れるほどに美しいその姿は、女王が目の前にある自由への歓びに満ち輝いているからであろうか。

 鋭い剣先がリグルの胸めがけて閃いた。そしてそれを難なくかわす。女王の剣は確かに鋭かったが、それはあくまでも女性にしては、である。盗賊相手ならば通用するであろうが、剣士であるリグルやラスフィールには到底及ばない。勝負は誰から見ても明らかだった。それでも勝利を信じているのか、女王は一歩も引かなかった。

 キィン!

 高い音を立てて剣と剣がぶつかり合う。それを謁見の間の入り口付近で、翡翠騎士団長ラスフィール・アルシオーネは動くことなく見守っていた。

 すべてを見届けよ、それが女王の命令だった。

 どんなことがあっても手を出してはならぬと。

 勝てるはずもない決闘を挑み、戦う主君の盾となることも代わりの剣になることも許されず、ただ見ていろと言われたのだ。ずっと守りたいと思っていた人がたどる結末を、黙って見ていろとはなんと残酷なことだろうか。

 辛くても苦しくても、それが命令ならば従わねばならない。ラスフィールは血が滲むほどに唇をかんで、わずかなことも見逃すまいと、白い羽のように舞う女王を見つめていた。

 何か攻撃をしかけてくるのではないかとラスフィールを警戒していたエリスだったが、彼の様子を見て視線をリグルの背中に戻した。一緒に戦うことはできない。魔法で援護することはできない。勿論、リグルの勝利を疑っている訳ではない。だがせめて何か……。

 ふと、思い出した旋律。

 誰かに教わった覚えもない、その旋律がエリスの内側から溢れ出した。それがそのまま歌となって解き放たれた。

 それは鎮魂歌だった。

 そう、英雄王ルークの葬儀のときに母サウィンが歌っていた──。


 今 肉の器を離れ天に導かれ帰る御魂よ

 其は闇にうずくまるのではない 其は嘆きに沈むものではない

 祝福の光浴びて 歓びに抱かれるものなり

 肉の器滅びようとも その魂は永遠


 詩はそれだけしか覚えていなかったが、繰り返された旋律だけはエリスの心に刻み付けられていたのか、ガラス細工ほどに繊細な歌声が謁見の間に響き渡った。幾度となく剣がぶつかりあう音がエリスの歌声を遮ったが、やがて歌声だけがその場を包み込んだ。

 一撃を繰り出すのをためらうリグルと容赦ない攻撃で攻める女王の剣が絡み合ったまま、動かなくなった。互いに初めて至近距離で顔を合わせて睨みあった。

「……本気でくるのではなかったのか、シルヴィアよ。憐れみのつもりか?」

 一度も撃ってこないリグルにいらいらした様子で女王が吐き捨てた。自分の技量でラスフィールと対等に渡り合う剣士相手に優勢でいられると思うほど、女王は愚かではない。

 憐れみではない。父を奪われ母を奪われ、祖国を踏みにじった女王を許せるはずもない。けれどそれでも撃ちあぐねるのだ。抗い難い時代のうねりに巻き込まれてしまった孤独な女性の魂を救う道はないのだろうかと。

 東の空が徐々に明るくなってきた。謁見の間にある大きな窓から入ってくるわずかな朝陽で、女王の瞳がきらりと輝いたように見えた。

 涙、だった。


「────!」

 リグルの中で何かが弾けた。分割された地図がすべて揃ったかのように、それは一気にひとつに繋がっていく。


 あの時、父は何と言った?

 あの時、母は何と言った?


 何もかもがつながっていく。


「覚悟……っ!」

 リグルの剣を振り払って、女王が渾身の一撃を繰り出した。

 それが銀色の一閃によって大きく弾かれ、女王の細い手をすり抜けて宙を舞った。


「エリス、ディーンが……!」

 瀕死のディーンを抱えたアレクが謁見の間に入るなりエリスに助けを求めたまさにその時、銀色の覇皇剣がその刀身を深紅に塗り替えながら女王の胸を貫いていた。


   -----------------------------


『ジルベールに戻れ、そして護れ』

 あの時、誰を護れと、何を護れと言いたかったのだろうか。永遠に沈黙してしまったウュリア・シルヴィアが答えてくれようはずもない。

『何故国王の近衛兵が【翡翠】騎士と名付けられたか知っていますか』

 唐突に何故そんなことを尋ねられたのか、二度と戻ることのないベルティーナ・シルヴィアがその意味を教えてくれようはずもない。

 英雄王ルークも金色の魔道士アープもすでに故人だ。答えを教えてくれる者は誰もいない。

 だから、推測でしかないけれど。

 女王は最愛の父の願いのために孤独と苦痛に苛まれながらも、生きることを選んだ。生きることで父への愛を証明するかのごとく。だが病に蝕まれそれも叶わなくなった今、病によってではなく討たれることによって滅び──つまり『死』を望んでいるのではなかろうか。女王は自らが統治者として君臨することでジルベールという国をルークから奪った。ルークが遺したこの国を、その国民の手によって亡ぼさせようとしているのではないか。その望みは、女王自身が討たれることによって初めて達成される。死神さえも退かせた気高き女王の復讐という名の誇りは、彼女自身の死によって護られる──。

 つまり、最初からこうなることを望んで、いた。

 公開処刑をすることで民の反感を買い、反乱を起こさせた。ベルティーナを処刑することによってそれを決定打とした。そして、父と同じ覇皇剣によって、この世との決別を……。

 翡翠は緑色。それは永遠を象徴する。

『それは兄王の最愛のひとの瞳の色だから』

 兄王──ルーク・ジルベールの愛するひとを、永遠に護るための『騎士』。

 胸を刺されてなお睨みつけてくる女王の瞳は、美しい翡翠。

 きらりきらりと水晶のように輝きながら、女王の頬を一滴の涙が伝った。

 それは、ようやく悪夢から解き放たれる、歓喜の涙だったのだろうか。

 女王の荒い吐息を受けながら、小さい声で、しかし彼女が聞き逃さないように耳元で囁いた。

「……翡翠騎士の『翡翠』は、ルーク王最愛のひとの瞳の色からとられたそうだ」

 言葉もなく、女王が顔を上げた。黒髪の騎士と至近距離で見つめあった。

「あなたへの『永遠』の想いがずっと残るように、ずっとあなたを護るように……そういう願いがこめられてたんじゃないのか?」

 ロゼーヌの瞳が揺れて、大粒の涙がとめどなく溢れた。これまでずっと堪えてきたものが堰を切って溢れ出した。何か言おうとしてかすかに動いた唇も、吐息をもらしただけだった。

 ロゼーヌの身体から紅に染まった覇皇剣を静かに引き抜いた。バランスが崩れてロゼーヌの身体が大きく傾いた。

 水晶の涙をこぼしながらも、女王の表情はとても穏やかで、微笑んでいるようにさえ見えた。ようやくすべてから解き放たれたロゼーヌが駆けつけたラスフィールに抱き止められたときには、すでに息絶えていた。


   -----------------------------


「兄さん!?」

 アレクに抱えられたディーンの姿を見て、エリスは歌を止め血の気を失った兄のもとに駆け寄った。

「すまない、エリス……! 早くディーンを……」

 床に仰向けに寝かされたディーンの腹部を改めて見て、エリスは小さく悲鳴をあげた。応急処置で止血はされているが、包帯代わりの布もすでに血に染め上げられていて、その効果を発揮していない。ディーンのすぐ傍らに跪くと、エリスは生唾を飲んでありったけの魔力を集中させる。まばゆいほどの光がエリスとディーンを包み込む。

 その光が消えたとき、ディーンのすぐそばにエリスが倒れこんでいた。慌てて抱き起こすアレクに、

「もう大丈夫よ、完全にとはいかなくて……ちょっと眩暈がするかも」

「あ……ああ、エリスも大丈夫か?」

「私は平気、眩暈がしただけ」

 ディーンはまだ一人では起き上がれないようだったが、それでもさきほどよりははるかによい顔色で、

「ありがとう……エリス」

 再会した妹に礼を言った。

「……女王は……?」

 ディーンに問われアレクが謁見の間の中央を振り返ったとき、そこには深紅の剣を下げたリグルと、純白のドレスを紅に染めた女王を抱きとめる翡翠騎士団長がいた。

「最期まで見届けろ、それが陛下……いや、ロゼーヌ様の命令だった。私はそれを遂行する」

 言ってロゼーヌを抱えて立ち上がった銀色の騎士ラスフィールは、まっすぐ黒髪の騎士リグルを見つめた。

「……あのとき、ウュリア様はこう言った」

 聖母なる森で慕っていたウュリアと対峙し、剣を抜いたとき。英雄はすべてを受け止めるがごとく両手を広げ、

「『リグルを頼む』と」

 刃を向けられても、その命を狙われていたにも関わらず、ウュリア・シルヴィアはラスフィールを信じていた。でなければ、愛する息子を任せたりなどしない。

「あ……」

 何度思ったか解らない、父は自分よりもラスフィールのほうがかわいいのではないかと。しかし父が最期に思ったのはリグルだったのだ。急に泣きたくなって、リグルは必死で歯をくいしばり、その涙を飲み込んだ。

「……もう会うこともないだろうが……」

「……さようなら、ラス」

 その名で呼ばれ、ラスフィールが苦笑する。

「お前は……変わらないな」

 意味を把握しかねたリグルに背を向けて、ラスフィールは玉座に向かって歩き出した。その後ろに立てかけてあった鞘を投げてよこすと、そのまま奥の扉に姿を消した。

「……おい、何で行かせたんだ」

 ディーンが一命を取りとめて安心したのか、アレクが辛辣な口調で訴えた。このまま行かせて、復讐のために舞い戻ってこないという保証はどこにもないのだ。

「大丈夫……ラスはそんなことはしない」

 見届けることが命令だったのなら、彼はそれに背いたりはしない。

 ……そんなことはもう、絶対にあり得ないのだ。

 断言されて言葉に詰まったが、アレクもまだ自由に動けないディーンとエリスを放っておいて、翡翠騎士を追いかけることはしなかった。満身創痍で迎え撃つにはあまりにも手強い相手が自ら去ってくれたのだ、わざわざ追う必要もあるまい。

「……みんなは?」

 先に行けと言った反乱軍の仲間たちと別れてから大分時がたつ。翡翠騎士ふたりが相手とはいえ、まだ追いついてこないのはあまりにも遅すぎる。

様子を見に戻ろうとリグルがディーンを抱え、アレクがエリスを支えて謁見の間から戻ろうとしたとき、その足音が聞こえてきた。

「悪い悪い、遅くなっちまった」

「遅すぎるぞ、何やってたんだ!」

「シャンデリアが落ちてくる前に後ろから射撃してきた一般兵たちがいただろ? あいつらが追いついてきやがって、足止めくらっちまってたんだよ」

 反乱軍の仲間がひとりも欠けることなくそこにいた。多少の傷は負ったようだが、治癒の魔法を施さなければならないほどの重傷者はいない。

「で、こっちはどうなったんだよ」

 仲間に急かされて、ディーンは一息ついてからしっかりとした口調でみなに告げた。

「……戦いは終わった。我々は自由を取り戻したんだ」

 こみあげる言いようのない高揚感と歓声が謁見の間に響き渡った。

 反乱軍は、独裁王から祖国を取り戻したのである。

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