第13話

 イグナの剣が幅広の重量のあるものではなく、普通の長剣であったとしても、その剛腕に変わりはない。昼間に負った右肩と脇腹の傷を差し引いても、イグナの一振りを真っ向から受け止めるのはどう考えても得策ではなかった。苛烈を極める翡翠騎士副団長の剣撃を受けることもままならず、ディーンはすべての攻撃を紙一重でかわし続けた。

 先の混乱のときにイグナが用いていた幅広の剣ならば大きく振り下ろすかなぎ払うか、いずれにせよ剣の重量ゆえに変化に乏しく至極読みやすいものであった。しかし今彼が振るう剣は普通の一般的な長剣だ。それを振り下ろし、なぎ払い、或いは突き、そのすべてが変幻自在で付け入る隙がなかった。獲物を換えてなおのこの猛攻は、優れた剣士であるというよりも、闘争心の塊であるような印象を受ける。

 イグナの剣はまだ一度もディーンを捕らえはしない。しかしディーンの剣もまた一度もイグナをかすめることもないままで、だが確実に一歩ずつ、ディーンは来た道を退きつつある。その様子を数歩離れたところから見守るアレクは、己の中で激しく葛藤していた。

 今ふたりの眼中にアレクはいない。アレクが音もなくイグナの背後に忍び寄り、得意のナイフで彼の急所を一突きすれば一瞬で何もかもが終わるのだ。だがイグナは『決闘』と言った。またディーンもそれを受けて立った。決闘に水を差すことは、ディーンの手前、できない。

 ……自分の一本のナイフでカタがつくというのに。

 アレクは剣士ではない。どちらの剣が強いのかなど興味はない。あるのは決着の行方。今夜の戦いは女王の独裁政治を終わらせてかつての平和と自由を取り戻すためのものであり、個人的な決着など些細なものと思っている。叶うものなら今すぐにでもディーンとイグナの戦いに決着をつけさせて、未だ玉座にいる女王を討ち取りたいのだ。

 否──、シルヴィアとともにエリスを行かせたことが気にかかっているのだろうか?

 個人的な決着をつけようとするディーンに苛立ちながら、そういう自分もまた個人的な感情だけで先を急ぎたいのだろうか。

 考えてアレクはつきかけたため息を必死に飲み込んだ。命を懸けて戦うふたりを前に何を考えているというのか。

 ああ、早く終われ。早く決着をつけてくれ、ディーン。

 それは祈りなのだろうか、ただのわがままなのだろうか。


「どうした、撃ってこなければお前に勝ち目はないぞ。それとも反乱軍のリーダーはかくも臆病か? 先の戦いで恐れをなしたか、ディーン・アープ!」

 廊下から入る月明かりを受け銀色に輝く長剣を煌めかせながら、イグナはディーンを挑発した。ディーンとて好きで撃たない訳ではない。撃ちあぐねているのだ、この人の姿をした闘争心に。

 振り下ろし、なぎ払い、それらの攻撃をすべて間合いギリギリでかわしつつ、ディーンは手の汗で滑らぬように剣を握り直した。

 チャンスは一度。逃したら次はない。

 からからに乾いた口の中とは対照的に、ディーンの背中を冷たい汗が滝のように流れていた。イグナの剣先をかわしながら、張り詰めていく空気の中で今にも弾けそうな自分の鼓動を感じていた。

「覚悟……!!」

 イグナの渾身の突きがディーンめがけて繰り出された。違うことなく彼の左胸を狙い定めた剣先が、空気さえも引き裂いて月明かりに閃いた。

「ディーン……!!」

 アレクの目にさえ、その一撃はディーンを捕らえるかに見えた。それほどの突きだった。

 イグナもまた、確信した。これで決着がつくと。

「ハアァァッ!」

 息を止めたディーンは、迫り来る剣先に初めて自分の剣を交わらせた。否、厳密に言えば真っ直ぐディーン目指して伸びてくる剣先に十字を描くように自らの剣を当て、刃に左手を添えてイグナの剣の流れを変え、押し出したのである。己の体重をかけた突きを繰り出したイグナは方向を変えられた剣を引く事もできず、そして勢いでそのままディーンに突進する形になった。

 ……自分の前身を無防備なままで、間合いにディーンを入れてしまったのだ。

 イグナの剣を払うと、そのまま勢いで突っ込んでくるイグナの脇腹に、すれ違いざま思い切り肘鉄をお見舞いした。ディーンもまた剣を構え直す余裕がなかったのだ。すでに傷を負っているその場所はディーンの容赦ない一撃で簡単に鎧の下で血を滲ませたが、わずかによろめきつつも膝をつくことなく振り返り、イグナは凄まじい形相でディーンを睨みつける。歯を食いしばる音がアレクにも聞こえてくるようだった。

 剣を構え直し更に撃ち出そうとするイグナに、今度はディーンが激しく撃って出た。細身の鋭い剣が繰り出されるごとに流星のように輝いて、その度ごとにイグナをわずかづつではあるが掠めていく。その間にもイグナも反撃を試みるのだが、傷の上に食らった一撃がよほど重かったのか、先ほどのような勢いには欠け、その隙を縫うようにディーンは器用に少しずつ、確実にイグナを追い詰めていった。

 ギィン!

 勢いを失いつつあるイグナの剣を真っ向から受け止めて、互いに相手を押し合って数歩離れた。

 ようやく溜めていた息を吐き出したディーンは、慎重に間合いを詰めながら剣を構え直す。

「……ずいぶんとつらそうだな、副団長殿」

「ふん……虚をつかれはしたが、二度目はないぞ」

 極度の緊張の中の激しい撃ち合いはふたりの体力を著しく消耗させ、またその精神を摩耗させた。

 純粋な体力ならイグナのほうが上回るであろう。しかし今は傷を負い、見た限りでは解らないが鎧の下では包帯が真っ赤に染まっている。ディーンもまたイグナほどではないにしても、先の戦いからここに至るまでにある程度疲弊している。

 体力的には五分。剣術はまったく異なるもので比較の仕様がないが、あとは精神力の勝負。

 どれほどの時間を睨みあっていたのだろう。

 互いの鼓動が、呼吸が聞こえてきそうなほどの張り詰めた空気の中で、ふたりは何を想っているのだろう。

 鬼気迫るほどの静寂の中で、アレクもまた息を殺して見守っていた。

 恐らくは次の一撃で決着がつく。アレクにもそんな予感がしていた。これ以上撃ち合って体力を消耗しては、相手に致命傷を与えられるだけの余力がなくなってしまうからだ。

 どこまでこの緊張を保てるのだろう。

 ディーンもぎりぎりの精神状態をどこまで保てるか判らなかったし、イグナもまた開いてしまった傷口から蝕まれていく自分をどこまで保てるか判らなかった。

 撃てるのは、あと一撃。

 互いに機会を窺ったまま、微動だにしない。

 まるで時間が止まったかのような重苦しい沈黙に、アレクが耐え切れず叫び出そうかとしたとき。



 すべての戦いを見守るように夜空に輝いていた月が、隠れた。



「うおおおおおおお!!」

 ディーンとイグナ、ふたりが同時に叫んで共に床を蹴りつけた。

 それは、一瞬だった。




 ディーンの剣がイグナの胸を、イグナの剣がディーンの腹部を貫いていた。




「ディーン!!」

 再び月が照らしたその光景を見て、アレクは絶叫した。



 肺を傷つけられたのか、イグナは血を吐いて咳込んだ。ディーンは己の腹部に焼けるような痛みを感じながら、口から溢れてくる血をそのままに歯を食いしばった。

 まだ決着はついていない……!

 イグナの胸を鎧ごと刺し貫いた剣を抜こうとしたが、べっとりとついた血で手が滑り、それはびくともしなかった。だがこのままでは相討ちか、先に自分が意識を手放してしまう。それだけはどうしても避けなければならなかった。

 自分にはまだ、待っている人がいるのだ。

 大切な妹エリス、やっと帰ってきてくれた幼馴染のリグル、ずっと戦いを支えてくれたアレク、至らない自分を支え、共に戦ってきてくれた反乱軍の仲間たち。

 自分にはまだ、やり残したことがあるのだ。

 独裁の女王を討たねばならない。置いてきた仲間たちの援護に戻らなくてはならない。戦いが終わったなら仲間たちに感謝とねぎらいを、そして新しい王国の基礎を作っていかなければならない。これまでの戦いで失われた者たちの弔いもしなければならない。ベルティーナの、両親の弔いもしたい。

 死ねない。まだ、死ねない。

 死ぬ訳にはいかない……!


「ぐおぉぉ……っ」

 ディーンは剣から手を離し、自分の腹部を貫く剣を握り締めたままのイグナの右腕を両手で掴んだ。咳込むイグナはそれに一瞬気づくのが遅れてしまった。

 イグナの右腕を掴んだままディーンは身体を翻して背を向けた。そしてそのまま、ありったけの力を込めて、イグナ・レイを投げ飛ばした。

「ゴフッ」

 重量のあるイグナを腹部を剣で貫かれたままで投げ飛ばすなどと、メチャクチャな行動にディーンの身体は耐え切れず、血を吐いてその場に倒れた。同時に、投げ飛ばされてもイグナが剣から手を離さなかったのと、投げ飛ばした衝撃と、ディーンが倒れて姿勢を崩したことが重なって、ディーンの腹部から長剣が引き抜かれた。


 ……鮮血を大量に床に撒き散らしながら。


「ぐあ…っ」

「ディーン!」

 投げ飛ばされたイグナが背を床に叩き付けられて吐血するのと同時に、アレクは真っ青な顔でディーンに駆け寄った。うつ伏せに倒れたディーンを仰向けに寝かせ、その傷の酷さに思わず呻いた。あの幅広の剣でないにしても、柄まで血まみれになるほど深々と彼を貫いた長剣を強引に引き抜いたも同然なのだ。傷口をさらに広げたようなものだ。アレクはディーンの服を脱がすのももどかしく、ナイフで傷口あたりの布を引き裂き、目を逸らしたいのを必死に我慢してやはり自分の服をナイフで切り裂きながら、半泣きで怒鳴りつけた。

「この……っバカかディーン! こんな、こんなムチャを、死ぬ気か!?」

「は……は、アレクには怒られてばかりだったな」

「過去形で言うな!」

「大丈夫……だよ、私は……。それより、まだみんなが、追いつかない、何か……あったかも……戻ら、ないと」

「ディーン、喋るな、もう!」

 引き裂いた自分の服で必死に止血しながらアレクは叫んでいた。大丈夫なはずがない、こんな酷い傷を負ってまだ意識を手放さないでいられるこの現状が奇跡なのだ。

「あいつらは大丈夫に決まってるだろ!? 言ったよな、お前は何でも自分で背負いすぎだって! ずっと一緒に戦ってきた仲間なんだぜ? あいつらが先に行けって言ったんだ、大丈夫に決まってるだろ、もうちょっと信じてやらなきゃ泣かれるぜ」

 怒鳴りつけることで自分の不安を紛らわしているのか、アレクは叫びながら震える手で止血する。だがその血は後から後から溢れてきて、どんどんとディーンの体温を奪っていくのだ。

「先を急ごう……!エリスなら治せるはずだ」

 もはやアレクの、否──普通の応急処置では間に合わない。エリスの治癒魔法なら或いは……。

 無言のままアレクに担がれたディーンは息も絶え絶えに、

「ま、待って……私の剣が」

 イグナの胸を貫いたままの剣をそのままにはしておけないと訴えた。こんな状態でディーンがこの先剣を握れるはずもないし、後で取りに戻ればいいだろうとアレクは思うのだが、彼にとってはそうはいかないらしい。このまま連れて行って、途中でまた無茶をされてはと思いアレクはディーンに負担をかけないように振り返った。

「……嘘だろ」

 そこに、投げ飛ばされたはずのイグナ・レイが無言のまま仁王立ちしていた。胸にはディーンの剣を刺したまま、右手には剣を握り締めて。

 あれでまだ立ち上がるというのか。吐いた血が胸まで真っ赤に染め上げて、腹部からはついに外からでもわかるほどに血を滴らせ、意識があろうはずもないのに。

「通さぬ……ここは… …陛下の命令……」

 白目を剥いたまま、恐るべき気迫だけで翡翠騎士副団長はそこに立っていた。その目は何も映ってはいまい、それでもなお、それでもなお──。


 ヒュンッ


「……もういいんだ」

 アレクが投げたナイフが、イグナの眉間に深々と突き刺さった。それでも彼は倒れることはない。

「決着はついたんだ。あんたはよくやったと思うぜ」

 言葉もなく立ち尽くす翡翠騎士にゆっくりと歩み寄り、アレクはディーンを促した。アレクの肩に回した腕はそのままに、残る片手で騎士の胸を刺し貫いたままの剣を取るが、ほとんど力のでないディーンでは引き抜くことができない。

「誇り高き……翡翠騎士の、魂……しかと、見届けた……」

 アレクに手を添えてもらって、静かに剣を引き抜いた。

 剣を引き抜かれた傷口から、勢いよく鮮血がほとばしり、ディーンとアレクを紅に染め上げていく。


 これが、自分の最期。

 女王陛下の命令を守ることができなかった。

 なんてみじめなんだろう。命令を遂行することでしか、自分の誓いと想いを伝えることはできないというのに。

 だが何処かで清々しささえ感じている。この決闘で思い残すことがないから。

 けれどこれで、見ずにすむ。

 いずれは訪れるであろう女王との別れの刻を。

 そしてこんな血まみれな自分を女王に見せずにすんだことが、せめてもの救い。

 やれるだけのことはやった。力の限り戦った。

 自分が死んだら、女王はなんと想うのだろう。

 どうか美しい女王が悲しむことのないよう……。

 そして、最期にねぎらいの言葉のひとつもくれるだろうか。


 もう、いいんだ……。


 何もかもから解き放たれて、翡翠騎士副団長イグナ・レイはその場に倒れた。

 その壮絶な最期におよそ相応しくない、どこか満足そうな表情で────。



 誇り高き翡翠騎士の最期を見届け、ディーンは剣を鞘に収めて自分の体重のすべてをアレクに預けた。自力では立つこともままならないほど体力を奪われ、暗くなりつつある視界で必死に目を凝らし、朦朧とし今にも消えてしまいそうな意識を手放さないように歯を食いしばる。

「ディーン、すぐだ……すぐに追いつくさ……!」

 意識を手放したら最期。ディーンはすぐ間近にあるアレクの今にも泣き出しそうな横顔を見て、微笑んで見せた。

 生き抜いてみせるさ、絶対に。


 その決意は、もう言葉にさえならない。

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