カラオケージョン

鷹宮 センジ

カラオケージョン

「おい、トウマ!お前今日も帰りが遅すぎるぞ!」


蛍光灯の明かりの下、腰に手をあてがい仁王立ちする男と、気おつけの姿勢のまま動かない青年が向かい合っていた。


「こんな遅くまで、いったい何をしているんだ馬鹿野郎!」


パァンッ!


繊細な旋盤操作で鍛え上げられた右手が、弧を描いてまだ冬の冷たさが残る頬に襲いかかる。


父親に叩かれて体の軸を振らしながらも、青年は何も言わずにじっと下を向いていた。玄関の扉は開け放しで、外の静けさが怒鳴り声の響いたフローリングを侵食し直していく。


父親はだんまりを決め込んだ青年をしばしの間睨み続けていたが、何分経っただろうか、遂に諦めて踵を返し廊下から自室へと去っていった。


後に残る青年は、これでもう十回目になる対峙なのにまだ理由を話さない自分に呆れながら、玄関の上がり口、冷えきったフローリングに靴下だけの右足を載せた。


~・~・~・~


それは稲瀬家の珍事とも呼べる事態であった。


稲瀬家の家は築120年を過ぎた古い屋敷を取り壊してから建て直した二階建ての洋風家屋で、家長のモトハルと妻のミナコ、長男のトウマにその妹のサクラの四人家族が住んでいる。


トウマは今年で近所の名門校である歩通野徳明高校に合格し、現在では生徒会の手伝いをしながら卓球部で活動していた。文武両道を絵に書いたような活躍ぶりは、まさしく稲瀬家の、ひいてはモトハルの誇りだった。


トウマの品行方正ぶりは、モトハルの教育あってこそである。小さい頃から根気強く礼儀作法から勉強まで丁寧に教え、そして無理をしないように娯楽として卓球やピアノを独学で遊びとしてやらせた。無理矢理教育を詰め込まれること無く、またストレスを程よく運動で発散させたトウマは、学校や地域で今時珍しい真面目な少年として有名になった。


それから何年も過ぎて、高校に入学してからも成績優秀で卓球の全国大会に出場した息子にモトハルは鼻高々だった。ここで留意しておきたいのは、モトハルの教育は人に責められるものでは無かったということだ。体罰やら虐待やら一切せず、むしろ優しい父親として妹から尊敬されていた。子供に手を上げることは一度か二度しかなく、親としての彼は優秀だった。


「俺はどんなに頑張っても、結局は中途半端に終わった。いくつか成功したことはあった。でも成功に変えられる失敗は山ほどあるんだよな」


ある日、まだ幼い兄妹の前で語ったモトハルの言葉である。


「俺は良い奥さんと結婚して、理想の職場に就けた。お前達のような可愛い子供に恵まれた。でも、それ以外のことはほとんど後悔ばかり。だからお前達には人生で後悔させたくないんだよ」


この時の言葉を、兄のトウマは小さい手をギュッと握りしめて、妹のサクラは内容がチンプンカンプンでも父親の真剣な表情に目を輝かせながら聞いていた。


その兄妹を長年見てきたモトハルだからこそ、ここ最近のトウマに対する違和感は尋常ではないと断言できた。


普段なら必ず自分の携帯電話で帰る時間を伝えて、その通りに帰宅するトウマ。しかしこの所2週間ほどはどこかに寄り道しているらしいのだ。


報告してくる帰宅時間が遅くなってから、モトハルはトウマに帰りが遅い理由を聞いていた。初めはどうせ生徒会活動か何かだろうと、世間話の体で聞いていたのだが、トウマは何も語らない。それが一週間ほど続いてからいよいよモトハルはトウマに手を上げ初めて、今に至る。


「なあミナコ。俺はどうしたらいいんだ……。最近のトウマは俺の言うことを聞いちゃくれないんだ。あのトウマが、だぜ?俺はもう自身をなくしたよ…」


トウマが帰ってきてからしばらく経った和室の畳で、モトハルは慣れない日本酒を煽ってくだを巻いていた。


向かいのダイニングキッチンで、トウマの食べた夕食の食器を一つ一つ丁寧に洗うミナコは、一度皿を洗う手を止めてニッコリと夫に笑いかけた。


「あなた、そんなに気に病む必要もないんじゃないかしら?」


「……それは、いったいどういう意味だ?」


片手で熱燗から冷めつつある徳利を揺らすモトハル。自分の今までしてきた事は、ひょっとすれば間違っていたのかもしれない。そんな不安とともに妻の言葉を待ち受ける。


「だって、世の中の青年なんて反抗期は当たり前じゃない?あの子は芯が強くて、それでいてひた向きで真っ直ぐで柔らかい心を持っているんだから、心配いらないわよ。あなたが想像していそうな事なんて起きないわよ」


優しく酔っ払っいながら落ち込んでいる夫を励ましつつ、今度はトウマ用の弁当のおかずを作り出すミナコ。菜箸の先端に黄金色の溶き卵を絡ませて熱したフライパンに流し込んだ。


ジューー……。


深夜の家に香ばしい醤油の匂いが微かに漂う。菜箸で焼き上がりつつある卵の表面を整えながら、ミナコは言葉を継いだ。


「そりゃあ、私だってトウマのことは心配よ?帰りが遅い理由を言わない所とか、特にね。でも私には、どうしてもトウマが特別理由もなく悪いことをする子には見えないからね。私はもっとあの子を信じてあげればいいんだって思ってるわよ」


「そうか……」


そこでモトハルは、揺らしていた徳利を机に置いて、炬燵から起き上がった。じんわりと温い両足を心地よく感じながら、多少覚束無い足取りながらも仕事部屋まで階段を登っていく。


妻の言うように、息子のことを信じてやれない自分が間違っているのかも知れない。しかし、それでももどかしい。自分はいったいどうすればいいのだろう。信じることは必ずしも美徳とは言えない。しかし、信じないこともまた良いことではない。当たり前だ。


なら自分はどうすればいいのだろう。どうすれば息子の事を信じてやれるのか?あるいはどうすれば諦めがつく?


これまで子育てにさほど苦労しなかったモトハルならではの苦悩であり、全ての父親が必ず、そして大抵はモトハルより早く迎える悩みである。


それから一晩中悩んだ末、自分のプロポーズを受け入れて、今まで勤めていた会社が倒産しても支えてくれたミナコの事を信じることにした。


その翌日、悩みすぎて徹夜したモトハルが工場への出勤に遅れて、珍しく遅刻してしまったのはご愛嬌だろう。



~・~・~・~



それからさらに1週間。相変わらずトウマの帰りは祝日の塾帰りでも遅く、モトハルの怒りは我慢の限界を迎えていた。さり気なくトウマに日常会話の一部として何をしているのか聞き出そうと試みていたが、食事中も、寝起きも、帰った直後も、出かける直前にも、トウマは口を割らなかった。


「やっぱり俺が間違っていたのか?ミナコの言うことは確かに一部正しいだろうが……もう流石に看過できんだろう。思い切って警察に相談するか?しかしそれでは我が家の面目丸潰れだ……サクラは相変わらずいい子でいるが、やっぱり反抗期は来るのか?来てしまうのか?」


ブツブツ言いながら旋盤作業をしている社長を、休憩に入った社員達は遠巻きに眺めていた。モトハルがバブル期の弾けた直後に大きな賭けとして設立した工業用部品の製造をメインとした小さな下請け会社は、社長自ら旋盤作業に携わる等の配慮により、社員が社長を通じて仕事に向き合える、今どき珍しい不景気感が微塵も感じられない会社となった。


その頼れる社長には、悩み事があると旋盤に語りかけながら仕事する癖があるので他の社員も余計な口出しはしない。機嫌が悪い虎の檻に手を突っ込むバカはいないのだ。


しかし、そんな社長に対して話しかける事が出来る例外もいる。そう、副社長にしてモトハル唯一無二の親友であるキンジである。


「アッハッハッハ、モトちゃん。また何か悩み事かい?雰囲気怖いよー」


「…………俺は見ての通り旋盤作業中だが」


「ブツブツ言いながら旋盤回す社長は怖いよ?みんなも怖がってるじゃん?」


それを聞いたモトハルは瞬時に手を休めて、作業用ゴーグル越しに辺りを睨めつける。すると他の社員は脱兎のごとく逃げていき、あとにはモトハルとキンジだけが残った。


「……俺、やっぱり社長は向いてなかったかな」


「その発言はもう3回目だよ?自分で『俺が今週ネガティブ発言3回繰り返したら罰ゲーム』とか言ってたよね?これで今日の帰宅と明日の出勤は歩きになるけど?」


モトハルは最近の自分は沈み気味だと分かっていたので罰ゲームを用意してみたのだが、効果はそんなに無かったようである。ちなみにモトハルの家と会社は道のりにして4キロほど離れている。普段は車で通勤している四十路の男にはかなりキツい運動である。


モトハルは自分で、もう駄目だと分かっていた。我慢の限界である。自分の息子が1ヶ月もどこかに寄り道しているのは間違っているし、何か犯罪に関わっている様であれば然るべきところに相談しに行かなければならない。


「ねえ、モトハル」


すっかり黙って考え込んでいたモトハルに、キンジはまた声をかける。


「どんなことについて悩んでいるかとか、そこら辺はよく分からないけど──必ず後で後悔しないような選択をするんだよ。この世はやり直しが効かないんだからね」


「そんなことはとっくに分かっているさ」


モトハルにとって、キンジは大切な親友である。自分の人生のターニングポイントで、ここぞという時に手助けしてくれた。会社の設立に協力してくれたし、妻との出会いはキンジがきっかけだった。プロポーズもキンジと相談して計画したし、子育ても一足先に子供がいたキンジのアドバイスあってこそである。


キンジのアドバイスは、妻の言葉の次に信用出来る。モトハルはそう確信している。


だからキンジの発した次の一言に混乱したとも言える。


「あとね、モトちゃんには1つ大きな忘れ物があるんだよ。勿論、物じゃないよ?記憶さ。モトちゃんは大事な大事な事を忘れているんだ──それさえ今日、家に帰るまでに思い出せば、トウマ君の行動も分かるんじゃない?」


「それは、どういう事だ?」


モトハルが眉をひそめて問い正そうとするが、キンジは「そう言えば今日は取引先に出張しないと〜〜」と誤魔化してその場から足早に去っていった。


「俺が、忘れている、事?」


あとには虚しく空回りする旋盤とモトハルだけが佇んでいた。


~・~・~・~


定時となり、帰る時間となると社員一人一人に「くれぐれも無理な残業はしないように」と声をかけてモトハルは会社を出た。


自分で歩いて帰ると決めたので、防寒具といえば薄手のコートしか無いのに、モトハルは寒い外へと踏み出した。時期は12月の半ば。気温がそろそろ0度を下回ろうかという夜である。


剥き出しの両手を擦り合わせ、モトハルは黒々としたアスファルトを眺めながら歩を進める。


──今日中に思い出さなければならない事?一体何なんだ?俺が息子の行動を理解するために、重要な一欠片を無くしているというのか?あのキンジの言うことだから間違いはないはずだが、全く思い出せない。今日、思い出さなければいけないということは、今日に関することか?今日、今日は普通の平日だよな……家族の誰かの誕生日でも無かったはずだ……。誕生日?でも何か引っかかるな……。


不意に、モトハルの視界を遮る物があった。何だろうと首を傾げて空を見上げると、そこには。


「──。」


雪。


空一面のしっとり覆いかぶさったグレーの雲から、ヒラリヒラリと、儚げに雪が舞い降りてきていた。


しばらく呆然と雪のダンスを眺めていたモトハルは、不意に妻とこうして雪を眺めていた事を思い出した。その日は誕生日では無かった。しかし、そう。Happy Birthday to youを歌ったのだったか。


「歌う?」


モトハルはその動詞を口にして、思わず叫びそうになった。息子は一見、万能なように見えてハッキリと分かる弱点を一つ有していたのだ。前に家族とそこに出かけた時、妹のサクラに負けてとても悔しそうにしていた、アレだ。


「くそっ。もう店は閉まっているのか!?」


大事な大事な事をようやく思い出せたモトハルは、血なまこになって自分のスマホで近くの開いている百貨店を検索した。



~・~・~・~



「ミナコーーッ!!ただいまっ!!」


「あら、遅かったわねアナタ。歩いて帰ったの?でもそれにしても、やっぱり遅いわね」


少し冷ややかな目付きのミナコに、モトハルは右手で握っていた紙袋を差し出す。


「……これは?」


訝しげに首を傾げる妻の演技力に苦笑しながら、モトハルは息を整えて妻にこう告げた。


「俺が悪かったよ、ミナコ。結婚記念日──今日だったな。これで俺たちは20歳だ」


モトハルの宣言に首を傾げていたミナコは、小声で「…このバカ」と呟くとほんの少しだけ、涙を零した。



~・~・~・~



その事実にいち早く気づいたのは、他でもないトウマだった。


トウマは父親を慕い、母親に助けられながら成長してきた。トウマの人生指針の大半は父親が起因しているが、父親から教わっていない事は大抵母親が教えてくれていた。例えばお箸の持ち方を教えてくれたのはモトハルだったが、お茶碗の持ち方や禁止された箸使いを教えてくれたのはミナコである。父を尊敬していたトウマだが、そんな立派な父にも欠点はあるし、それらを補うからこそ母は偉大なのだと理解していた。


だから父親が母親を愛しているのも、母親が父親を愛しているのも当たり前だったのだ。しかし、やはり欠点のあるモトハルと言うべきか。10月の終わり頃、ミナコの手帳を偶然見て、トウマは父親が致命的なミスを仕出かす直前なことに気づいた。


父親は自分にとって大事な行事を必ず自室のカレンダーに記す。ミナコの手帳で、12月のある日が結婚記念日だと知ったトウマは、モトハルのカレンダーを見て愕然とした。そう、書いてなかったのだ。結婚記念日を。


モトハルとミナコの馴れ初めを(モトハルは恥ずかしがって教えようとしなかったので)ミナコから聞いていたトウマ。結婚記念日はモトハルがミナコにプロポーズした日でもあるのだ。


モトハルがミナコをデートに誘い、様々な所を巡り、締めのカラオケでモトハルはミナコに向けて「Happy Birthday to you」を歌った。


その日は特別誰かの誕生日では無かったのに、ミナコは何故モトハルがその歌を歌ったのか分からなかった。


困惑しているミナコに、モトハルはこう言ったという。


──今日は僕の誕生日でも無ければ、キミの誕生日でも無い。今日は、そう。僕らの誕生日にしたいんだ。僕らがこれから生きていく上での、一つの出発点にしたいんだ。


モトハルはミナコにそう告げると、おもむろに懐から小箱を取り出し、そして──。


──あとはベタな展開である。


それから毎年、その日を結婚記念日として祝おうということになっていたのだが。しかしモトハルは妻を愛し、愛されながらも仕事に追われる日々で記念日のことをすっかり忘れてしまっていた。一方のミナコは夫を愛し愛されながらも、夫が何度も記念日をすっぽかし、今年で連続5年すっぽかすことになりそうな事にかなり怒っていた。


その事をいち早く察したトウマ。彼は二人にこれからも末永くおしどり夫婦でいて貰いたかったので必死に策をねった。


「僕がこっそり父さんに教える手もあるけど、母さんはきっと父さんに自分で思い出して欲しくて5年も我慢しているんだろうな……。いや、5年我慢するなら言えよって話なんだけど。じゃあ父さんには自分で思い出してもらうしか……でも父さんは変に抜けている所があるからな。多分今年も無理だろうね」


そこで考え出したのが、母親にもう1年待ってもらう為の秘策である。名付けて『息子は忘れてないよ結婚記念日作戦』である。


そう。要するに息子であるトウマが、父親の代理として母親に対するプロポーズを再現するのである。幸い、自分の声とモトハルの声は親子だからか似ている。この声でもってプロポーズを再現すれば、母親ももう一年待とうと考え直すかもしれない。


しかし、トウマには乗り越えなければならない壁があった。そう。音痴である。トウマは超絶的な音痴だったのである。校歌さえ音を外しまくるトウマにとって、Happy Birthday to youを歌うのは至難の業だった。唯一頼れる妹のサクラにカラオケ上達法を聞いても、体育会系のサクラは「練習あるのみ」と力説してきた。


そこで、トウマの猛特訓が始まった。


近くの友達の家が経営しているカラオケ店に頭を下げて、カラオケの料金を大幅割引してもらった上で毎日そこに通い、ひたすらHappy Birthday to youを練習した。


家に帰れば父親に怒鳴られるが、何をしているかなんて理由は絶対に言えない。かと言って嘘をつくのは愚か者のする事だと教わったトウマに嘘はつけない。本当は言いたい一心に駆られながらも、トウマは懸命に練習を重ね、とうとう結婚記念日前日に完璧な歌声を友達の親であるカラオケ店の店主に保証されたのだ。


あとは父に内緒で母を連れ出し、ドッキリ大作戦風にプロポーズの再現をする予定だったのだが。


「──土壇場になって思い出すとか。本当に父さんは周りに苦労させるよね」


「まあ、そう言いなさんな兄ちゃん。結果よければ全てよし。仕方の無い事だったのだよ」


リビングの引き戸の隙間から、兄妹がヒソヒソと話をしていた。視線の先では、モトハルの買ってきたミナコの好物である赤ワインを飲み干す両者の姿がある。


「それにさ、父さんが電話で話しているの聞いたけど、父さんが結婚記念日を忘れているのをキンジさん知ってたらしいじゃん。お前、リークしただろ?」


ヒソヒソと指摘してきた兄に、サクラはアッカンベーの顔で返事した。


兄の回りくどい作戦を聞かされた妹としては、父の親友であるキンジに情報をリークするのが精一杯の心遣いだったのだ。それに日々怒鳴られて凹みながら自室に入っていく兄が不憫だったこともある。兄が両親を大切にするのは分かるが、多少は自分自身にも目を向けてほしいと思うサクラであった。


「お、丁度いい頃合かな」


モトハルが席を立ち、台所に向かった瞬間トウマは機械をリビングに運び込み、サクラは機械から伸びた配線をテレビに繋げた。


「ちょっと、トウマにサクラは何準備しているの?」


ほろ酔い気味のミナコは、兄妹の突然の登場に目を白黒させながら聞いた。


「そりゃあ、僕は今までのヒトカラでの練習が無駄になるのは忍びないからね。それに母さんは赤ワインだけで満足するのはよくないと思うよ?」


「そうそう。兄ちゃんの努力は正当に評価されるべきなのさ」


家庭用のカラオケ機械をこっそり通販で買っていた兄妹は、配線を繋ぎ終わるとそれぞれマイクを手に取った。サクラはもう片方の手で曲を予約している。


そこに丁度、モトハルがフラフラの足取りで台所から戻ってきた。


「おーい、ミナコ。いい感じのチーズが冷蔵庫にまだ……ん?」


「はい、父さん」


サクラはモトハルの手から素早くチーズを奪い取ると、マイクを押し付けた。


「え?え?何これ?マイク?」


「そうだよ父さん。いくら老けたからと言って、二十年前の今日、どんなことをしたかくらい覚えているよね?」


テレビでは前奏が始まり、リビングのテーブルには既にミナコとサクラがそれぞれマラカスとタンバリンを持って待機していた。


「えー、それではお聞きください。見事練習により音痴を脱した僕と、昔から歌が上手いことで評判のモトハル氏によるデュエットです」


トウマは少し斜に構えて、司会者風に「今夜の曲は何ですか?」とモトハルに聞く。


やっと理解の追いついたモトハルは、歌い始めるまでの僅かな時間で、妻に向かって微笑みながら告げた。


「これは妻との思い出の曲──お聞きください。『Happy Birthday to you』」

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