第2話

1978年、岐阜県加茂郡。

シトシトと涙雨が屋根に当たる気配に目を覚ました。年末も押し迫る12月半ば。時計を見ると26時を少し回った所だった。


この家には夫婦が2人と1匹が住んでいる。

仕事を定年退職した夫と長く専業主婦である妻と年老いた愛犬。小旅行などを共にしながら静かに生活を営んでいた。

広い敷地に古いだけの日本家屋が一件と、自分たちの趣味で作った畑。住み慣れた家への不満といえば、トイレが外付けという事だけだ。夏場ならまだしも、冬場に一旦外に出なければ用も足せないのは辛い。しかし、辛い辛いと嘆いた所でトイレが近くに来てくれるわけもない。

妻は意を決して布団から出て、こういう時のために傍に置いていた綿入りの袖無しを掴む。


「どうした?」


「お手洗いです」


「スッ転ぶなよ」


「はぁい」


そういって再び目を閉じた夫の横には、同じように布団から顔を出して眠っている愛犬。スッ転ぶなよ、なんて、お互いそういう気遣いが必要な歳になったのね、そんな事を思いながら寝室のドアを開けた。


廊下をギジリ、ギジリと音を立てて歩く。板張りの床は体に絡みつくような冷気を帯びていた。玄関で引っ掛けるだけのサンダルを履いて、ガラリ、と引き戸を開く。屋内だってこんなにも寒いのに、外はもっと寒い。北風が冷気と手を繋いで妻の体を包む。雨の雫が棒になって目の前に落ちて来る。「寒い」と呟くと白い息が駆け出すように妻の体から飛び出した。


ふと気付くと、自宅の敷地の前の道路に1人の女性が立っていた。

青白い街灯の下でマフラーに顔の半分を埋めている。こんな夜中に会うものは人でも犬でも等しく不気味である。けれど、家の前に人がいることはたまにあることだった。すぐそばに幹線道路が走っているし、その道沿いには飲み屋もある。若い人もそうでない人も、酔いを覚ましつつ歩いて帰ることは珍しくはなかったのだ。街灯の灯りを頼るように立っている女性はキョロキョロと辺りを見渡している。


「誰かを探しているのかしら。」


あまり気にしないように、玄関を出て数メートル先の厠に急ぐとか細い声で「すみません」と話しかけられた。


「はい?」


「夜分にごめんなさい、少し困ってて…」


マフラーを少し下げて、申し訳なさそうに眉根を寄せる。敷地内に入らないように遠慮がちに声をかけてきた彼女の元へ妻は距離を縮めた。くっきりとした二重に、大きな瞳。細く長い髪が冬の冷たい風にゆらゆらと揺れている。そしてマフラーの下は白いマスク。


「どうしたの?何かあったの?」


「いえ、ちょっと伺いたい事が…」


風邪だろうか、掠れた声で申し訳なさそうに頭をぺこりと下げる。


「なぁに?」


女性は柔らかく笑って「実は…」と何かを話すためにその華奢な右手をマスクに掛けて、そうっと下におろして問いかけた。


「私、綺麗?」


妻はただ、声も出ず、足も動かなかった。何か、鉛のようなものを纏っているような気さえするくらい体が重かった。


マスクの下に隠れていた口元は不恰好に裂けていた。無理やり広げられた口角からは生々しく血が滴り落ちて、鉄臭い。まだ新しい真っ赤な血と、酸化したまま顔にこびりついている黒ずんだ血。街灯が味方をするようにチカチカと瞬きをしながら、鮮明に女に光を当てた。女の白い息が1つ、2つと動けなくなった妻を捕まえるかのように伸びては、消える。

女は笑っていた。ただ、爽やかに、まるで子猫を愛でるように笑っていたのだ。

目を細め、「ねぇ、私、綺麗?」と恐ろしく楽しそうな声で何度も、何度もーー



「それが、口裂け女の発祥なんだって。」


「そ、その人はどうなったんですか!?」


「お話はそこで終わってるから、ねぇ…」


「亡くなったっていうことですか!?」


「ううん、思いつかなくってさー。だからそこで終わりにしちゃったの」


「…誰が?」


「私が」


「あんたかい!」というツッコミは勿論心の中に留めておいた。佐伯先生は俺をからかう事が好きらしい。どうやら佐伯先生の息子さんと俺が同じ歳らしく、なんとも息子を見ているような気がするとか、しないとか。


昔はもう少し、どんな事にも疑い深かったというか、騙され難かった。けれどここ数年は冗談や嘘を割と鵜呑みにしてしまいがちで、周りの人間にからかわれる事が増えた。とりあえずその辺りはやっぱり、ハルの影響だと思う。「三旗小」と書かれた腕章を付けた校長とハルが小学校から少し離れた横断歩道に立っている姿が小さく見える。彼女と知り合ってから、今まで知らなかったものが目に見え始めた事が間違いなく発端だ。


「岐阜県で老婆が母屋から離れたトイレに行くときに口裂け女を見た、っていうのが発祥なのは本当らしいけどね」


「よかった、うち、トイレが家の中にあって…」


「河北先生は一人暮らし?」


「ええ、まぁ。」


「洗濯機は?」


「外付…」


「け」と言い終わる前に気付いて淀んだ俺に、佐伯先生は「夜のベランダには気をつけてね」と含み笑いで告げる。


「さっきの話に戻りますけど、校長先生と野山先生が立っているあたりですよね、”口裂け女”が目撃されたのって」


そう。実は最近不審者の目撃情報が相次いでいるのだ。その為、いつもは挨拶運動の一環として7:30から校門前に職員が立つだけだけど、今週からは校門前と少し離れた横断歩道に交代で立つようになった。


問題となっている不審者の最新の目撃情報は、まさにハル達がいる横断歩道。そして不審者というのが「マスクをした女の人が話しかけてくる」というものだった。たどたどしい話し方に手招きする震える手。女はマスクに手を掛けて「聞きたい事があるんだけど…」と近付いてくるとか。親切心で「なぁに?」と尋ねたところ、女はマスクを取った。するとマスクに隠されていた口が大きく裂けていた、らしい。

それが1人、2人でもないし、はたまた「友達の従兄弟の友達の話」とか曖昧な情報ではないのだ。そういうわけで、今、三旗では口裂け女出没の話で持ちきりだったりする。


「どっかのアホの悪戯だと思うけどね。交番のお巡りさんも巡回してくれてるし、早々にとっ捕まって欲しいけど。」


「も、もし、もしも、本当の口裂け女だったら…」


「どうします?」と俺が続けると、佐伯先生は整った眉をギュッと寄せた。

しょっちゅう俺をからかって面白がっているけど、赴任して来た初日から佐伯先生はよく俺を気にかけてくれて、いつも同じ目線で、まだまだ新米に毛が生えたくらいにしかならない俺の話も「うんうん」と聞いてくれる人だったから、まさかしかめ面をされると思わなかった。さすがに不審者が出回ってるのに危機感の無い質問だったかな、と心に冷や汗をかいてきた頃に、佐伯先生は「…ポマード」とつぶやいた。


「は?」


「ポマードって3回唱えると口裂け女って逃げるらしいわよ。聞いたことない?」


「あの、何故そんなしかめ面で…」


「ポマードって言葉が出てこなかったのよ。なかなか使わないでしょ、ポマード」


あぁ、だから。と、ちょっとホッとした。

そういや口裂け女って、ポマードが苦手だったな。口が裂けた理由が整形手術の失敗で、その手術を請け負った医師がポマードで髪を整えていたからとか。


「あれ。べっこう飴を投げるといいんじゃなかったっけか?」


そう言いながら俺の横に立ったのは、ジャージ姿の立木先生だった。立木先生はこの学校で一番背が高い。190近くあるんじゃないだろうか。坊主頭で、彫りの深い顔立ちは初対面の人間にとって圧を感じるに違いない。勿論、俺もそうだった。


「ニンニクって言えば大丈夫、って聞きましたよ」


「ニンニクー!?河北くん、それはドラキュラだろ、ドラキュラ!」


「ドラキュラってニンニク嫌いなの?私、餃子が好物って聞いたんだけど」


「それ、どこから聞いた話?」


「子どもの頃、宇都宮にいた叔父が言ってた。宇都宮の餃子を食べたドラキュラがあまりの美味しさから人の生き血より宇都宮餃子を好きになったから、ドラキュラは人を襲うことがなくなったって」


「それ、ぜってぇ嘘だよ、佐伯くん」


「俺もそう思います」


「あー!餃子食いたくなってきたなぁ」と立木先生が伸びをする。ガヤガヤと子どもたちの声が聞こえ始めてきた時に、急に「校長先生、校長先生、至急職員室に戻ってください」と校内放送がかかった。

少し先の横断歩道にいる校長に声が届くはずもなく、校長は変わらずハルと一緒に横断歩道の前に立って、青信号とともに駆け出してくる生徒たちに笑いかけていた。


「聞こえてませんね。校長先生に伝えてきますよ」


そう言って、俺は2人の元へ急ぐ。

道路に沿うように流れる用水路には、小さな魚がキラキラと鱗を光らせて泳ぐ。生徒たちがその影を追いながら学校に向かって歩いてくる。


「あ!かわきた先生、おはよーございます!」


「おはよう!川ばっかり見てると転ぶぞ!」


「先生、おはよー!」


「おはよう!島田、体操着は?」


「あー!忘れた!」と大声を張り上げる生徒に「今日だけは許してやるから、次は忘れないようにな」と言うと、彼はジャンプしながら「はーい!」と答える。

俺は子どもが割と好きらしい。実はこの仕事にきちんと就くまで気付かなかった。


「校長先生」


「ん?どうした?」


「校内放送がかかってます。職員室に戻って欲しいそうです」


「そうか、ありがとう。じゃあ、私の代わりに野山先生とココ頼むよ」


「わかりました」


相変わらず高級そうなスーツをビシッと着こなす校長は、姿勢正しく、優雅に学校へ向かって歩き出す。ハルはその後ろ姿を見て「眼福です」と呟いている。


「校長先生、素敵ですよね」


「本当にな、なんか、オーラがあるよな」


「色気もあります」


「愛妻家らしいよ」


「言うことなしですね。」


「話変わるけど、野山先生、お知り合いじゃないよね?」


「誰とですか?」


「噂の口裂け女」


ハルはキョトンとした顔で俺を見る。その顔に何となく、心がざわつく。つい、と目をそらして横断歩道の向こう側を見れば、何やら長い木の枝を振り回す男子児童達。俺が「危ないから振り回すなー!」と叫ぶと彼らは「やべー!」「かわきただ!」と遠慮なく呼び捨てにしながら木の枝を歩道の傍に捨てた。


「直接会ったことはないですよ」


「”間接的に”ならあるの?」


「ううん、噂話程度。ポマードって言えばいいとか、豆腐を投げるとか…」


「と、豆腐?」


「でも、兄が会った事があるって言ってたな…」


「あぁ、兄貴さんも見えるんだっけ」


「はい。私の5倍くらいは、色々と」と彼女は呆れたような顔でそう告げた。彼女の気持ちは、わからなくはない。俺もハルと付き合っていた頃に一度会った事があるけど、なんというか、多分口裂け女も逃げ出すタイプだと思う。


「その兄が昔…いつだったかな、まだ中学に通ってた頃に話してくれたんですよね、口裂け女の事」


まるで朝の光景を置き去りにしたような神妙な顔で話し出した彼女の声に、俺は耳を傾けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

三旗のハル 夏目彦一 @natsume151

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ