三旗のハル

夏目彦一

第1話

「この器具も水洗いかい?」


「そうです!よろしくお願いします」


「最近はなかなか話し相手がいなかったから、ハルちゃんが赴任してきて嬉しいなぁ」


「世知辛い世の中ですもんね」


「ははは…よもや、歩きスマホの関係で肩身が狭くなるなんて思ってもいなかったよ」


そう言って、少し悲しそうに笑う二宮金次郎さんの背中を撫でる。冷たいコンクリート越しに懐かしい温もりが指先からリズムを奏でるように伝わるのは限られた人間だけらしい。


私、野山ハルは小学校の教師だ。

ここ、三旗小学校みつはたしょうがっこうは熊本市街地から少し離れた場所にあって、1学年が1クラスしかない。校舎は山と田んぼと緑川みどりかわに挟まれているだけのまあまあ田舎。けれどこの環境に何の抵抗も驚き不満もない理由は、ここが私の地元であり、この三旗小学校が私の母校だからだ。


以前は市内の学校で教師をやっていたけれど、今年度からこの三旗小学校に異動して来た。教師としては4年目の若輩者の私は異動で新しい環境になる事は不安だったけれど、三旗と聞いてまさか!と思った。そして家に帰って出会った生徒たちやようやく馴染んで来た学校との別れを惜しみつつも、昔馴染みたちをジワジワと思い出した。


朝は「おはよう」、夕方は「気をつけて帰るんだよ」とこっそり声をかけてくれた二宮金次郎さん。


友達に意地悪をされて1人で泣いていた時に「あんな奴ら、アタシが泣かせてあげるわ!」と冷たい手で涙を拭ってくれた花ちゃん。


落とした消しゴムが見つからなかった時「机の下に入り込んでるぜ!」って教えてくれたホルマリン漬けのカエル達。


寒くなると「私より薄着をしてはいけませんよ」と気遣ってくれた人体模型さん。


歌が下手な私の為に練習に付き合ってくれた音楽室のピアノと、厳しくも温かい指導をくれた様々な音楽家の肖像画たち。


懐かしいなぁ、皆元気かな、私のこと忘れてないかなぁ。

新しい環境での不安も勿論あったけれど、昔馴染みとの再会にそれ以上の期待を抱いてこの学校へやってきたのだ。


「まさかハルが戻ってくるなんて思わなかったよ」


「私もまさか花ちゃんがトイレから出て行ってるとは思わなかったよ」


「和式じゃなくなったからね。どーも洋式ってやつは落ち着かないんだ。」


「あー…今は洋式が増えてるもんね。前の学校も洋式だったなぁ。」


「仕方なく今は理科準備室にいるんだよ。ここには模型がいるからさ。」


「模型さんに関しては、まだ準備室から出てなくて驚愕したけど…」


「出番がないんですよね、昔から。今年からはハルさんがいらっしゃるので少なからずは役に立つ日も来るのかと思うと嬉しくなります。準備室から理科室に出してもらうだけでも感激の極みです」


「相変わらず人体模型さんは紳士だなぁ」


「すっぽんぽんだけどね」という花子さんの言葉に人体模型さんは咳払いで答える。内臓が見えてる模型さんがすっぽんぽんと言えるかははたして謎だけれども。


「週末、お買い物に行って洋服を探して来ますね。昔から人知れず風邪引いてたでしょう?」


理科室の掃除をしながら和気藹々と語る私達を、ホルマリン漬けの動物達が和かに見守っている。やっぱりいいなぁ、三旗は。何もかもが温かい。


「野山先生、まだ残ってたの?」


ガラリ、と引き戸の開く音と共に見慣れた天然パーマ頭。


「河北先生こそ、まだ残ってらっしゃったんですか?」


「クラス案内を書いてたんだ。職員室から出たら理科室の電気がついてたからびっくりしたよ。」


河北先生は児童にも保護者にも評判のいい5年生の担任教師で、私の大学時代の先輩でもあり、昔の恋人でもあったりする。


「野山先生、チャリだろ?日が完璧に暮れたらこの辺りは街灯がないから真っ暗だ。早めに帰りなさい」


「その時はバスで帰るから大丈夫です」


「バスって言っても1時間に1本とかだろ」


「慣れた道なんで」


「この間痴漢が出たばっかりじゃないか。職員会議でも問題になってただろ。」


「いざとなったらアタシ達が送っていくよ」と河北先生の背後からぬーっと花ちゃんと二宮さんが顔を出すと、暗い構内に河北先生の叫び声が響き渡る。


「ああああんた達、いたのか!!」


「いつでもいるよ」


「学校に住んでるんだもん。バカだねぇ」


「隠れた意味がありませんでしたね、河北先生なら」


「ハールー!」と私の後ろに隠れた河北先生が感情に声を震わせながら私の名前を呼んだ。


「ハル!校内に二宮尊徳を入れるなよ!」


「ちゃんと二宮さん脚も綺麗に拭いてくれてますよ?」


「そういう問題じゃないだろ!!」


私にはちょっと独特な力がある。例えば亡くなった人の姿も見えたりする。所謂シックスセンスだ。これはまあまあ聞くだろう。だけど私の持つ力は”与える”方が大きい。持っていた人形に魂が入って動き出したりするし、何も見えなかった周りの人間が様々なものを見るようになる。

つまり、幼少期の私がこの小学校に入学して、当たり前に生活する中で花ちゃんを見つけ、人体模型や二宮金次郎像などにも影響を与えて動き出すようになり、私と交際した河北先生は見えなかったものが見えるようになった、というわけだ。


「三旗に昔赴任してた先輩が”あそこは未だに学校の怪談が生きてる”って言ってた意味がようやくわかった…ハルがいたからか…」


「でも、二宮さんとかは実体があるから、私がいてもいなくても動くのは誰にでもわかりますよ」


「そうだね。わからないのはアタシくらいだろうさ。実体がないからね。」


河北先生は幽霊とかオバケとか見たこともないし、金縛りにもあったことがなかったのに私と付き合い始めてからそういう体質になってしまった。大抵は離れれば消えるものだから、結局別れてしまったんだけど、彼はよほど「受け皿」としての気質があったんだろう、別れて数年経つ今も尚、その力が息づいている。


「河北の場合はさ、ハルの影響っていうより持っていたモノが開花したって事だろ。遅かれ早かれ、アンタにはアタシ達が見え出しただろうよ」


「ぎゃあ!急に近寄るな!ダメなんだよ俺は!こーいう人外的なやつが!」


「ったく!大人の男が情けないこと言ってんじゃないよ。アタシらは好意的だから怖くはないだろ?」


「そうですよ、河北先生。僕たちは貴方に友好的です。そんなに怖がらないでください」


「無理無理無理!俺は人体模型は喋らなくても怖い!」


「全く…河北くんよりよっぽど花子ちゃんの方が頼りになりますなぁ。ねぇ、ハルちゃん」


河北先生には大変申し訳ない気持ちでいっぱいだ。だからなるべく離れるようにしているのに、どんな因果が出会ってしまう。

例えば、別れた後に決めたバイト先にも河北先生がいたし、私の教育実習先にも新任教師として働いていたし、新しく赴任した三旗小学校にもいるし。河北先生はその度に青ざめている。なんだか私がストーカーみたいに思えてくるけれど本当にただの偶然だ。私だって罪悪感で何度顔が青ざめたことか。

挙げ句の果てに、私の兄が去年結婚した相手が河北先生の従姉妹だった。式場で私を見た彼が「マジかよ」と蒼白した時は少しだけ傷ついてしまった。


「私といるともっと余計なものが見え始めてしまいますよ」


そういうと彼は物凄い速さで理科室の引き戸まで離れると「とにかく!危ないから早く帰るように!」と言って出て行った。


「露骨に嫌がるやつだねぇ…ハル、あんた、まだあんな奴が好きなのか?」


花ちゃんの言葉に力なく笑うと彼女は私をグッと抱きしめた。


そう、私は未だに河北先生が好きである。


諦めようと思うと再会するんだもん、諦めきれるわけがない。私たちが別れてしまったのは私のこの力のせいだけど、これは持って生まれたものだからどうしようもないわけで。だから私には河北先生の隣にいるわけにはいかないのだ。


「河北よりいいやつなんかいっぱいいるよ!」


「ありがとう。でもね同じ事の繰り返しだと思うんだ。」


「ハル…」


「だけど仕方ないよ。それに、楽しいこともこの力のおかげで沢山あるしね!とりあえず、理科室も綺麗になったし、痴漢は嫌だからそろそろ帰ろうかな」


そう言って通勤用のバッグを手に取る。


「そういや、最近この町に戻ってきたらしいから、ハルも気をつけなよ」


「ん?何が?」


「子どもたちが懐かしい噂話をしていてね…久しぶりに聞いた名前にアタシも耳を疑ったさ」


外は紫色の空だ。明日もよく晴れるらしく、一粒一粒星がチカチカと輝いている。

そんな夕暮れと夜の狭間に聞くのは、少し億劫な名前だった。


「口裂け女さ」

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