なんきんの花と黒猫
「なんきんの花が咲くようになると、じき春じゃ」
父と並んでの午後の散歩。
梅の香りが、清らかに慎ましやかに漂っている。
「なんきんの花?」
「そうじゃ。なんきんは、かぼちゃのことじゃ」
「かぼちゃの花って、初夏に咲くんじゃないの?」
早春を告げる花の枝が揺れた。
羽ばたきの音。
花の散った様子はない。
ならば、花の蜜を吸っているのは、お行儀のいいメジロかヒヨドリだ。
「枝いっぱい黄色くなってな、きれいじゃよ」
「かぼちゃって、蔓になるものじゃない。花だって、畑で咲く。枝に咲くって、木になる特別なかぼちゃが穴馬にはあったの?」
父は、きょとんとして、それから、笑いだした。
「ああ、そりゃぁな、なんきんみたいにきれいな黄色に咲くから、なんきんの花って言っとったんだ」
「なんだ。じゃあ、本当は、何ていうの」
「そうじゃなぁ、ほれ、あそこに咲いとる」
父の指さした先には、そう背の高くない木の枝に、冬晴れの空を背景にした花が、黄金色に光っていた。
「
蠟梅の花びらは、白だしで煮て、しょうゆで色がつかないようにていねいに炊いた、かぼちゃのお煮しめのように、つやつやと光っていた。
「言われてみれば、かぼちゃ色かもね」
「なんきんと小豆と炊いたんがおやつじゃった」
故郷から遠く離れた街中で、目にした花から父は、故郷の景色を手繰り寄せる。
「なんきんどろどろ、だったよね」
「そうじゃ。覚えとったか」
父はうれしそうに相好を崩した。
舗道に張り出した枝に鼻を近づけると、梅よりも少し艶めく香りがした。
深く吸い込むと、少し鼻の奥がむずむずした。
香りが強い花の匂いは、人の鼻腔の粘膜に、刺激的すぎる。
思わず、くしゃん、と一つ。
通りかかったどこかの家猫が、ぶるっと身震いをしてしっぽを立てた。
手入れされているふかふかの毛が、臆病風に吹かれて総毛立っている。
まっ白な、顔立ちの上品な、いい猫だ。
家猫の箱入り娘は、いつもは、そこだけ紙の貼られていない障子の一番下端の四角い窓から、道行く人を退屈そうに見ている。
「猫の春じゃな」
「猫の春?」
それは、猫の恋の方がしっくりくると思ったが、口にはせずに、しゃがんで白猫に手を出した。
野良猫に手を出すのは、かみつかれたり、ひっかかれたり、猫パンチをお見舞いされたりするが、この猫は人馴れしているから大丈夫だろうと思ってのことだ。
「春に呼ばれて家を抜け出して来たんじゃろ。人間に飼われてなついていても、所詮はけだものじゃからな。本能には逆らえんのじゃ」
父も、そして母も、動物を家の中に入れることを嫌った。
子どもらが、仔猫や仔犬をどんなにかわいがっても、自分たちは必要以上に触れようとしなかった。
人間と動物の間に、厳然とした越えられない敷居があると思っているようだった。
白猫は、ひとしきりごろごろと喉を鳴らしながら触らせてくれてから、遠くによその猫の姿を見つけて走り去ってしまった。
「そういえば、穴馬では、家畜や家禽の他に、ペットとかいたの」
「ペットは、おらんさ。いや、おったな」
「どっち?」
「よそにはおった。うちにはおらんかったな」
「犬?猫?」
「おるうちには、どっちもおったよ」
「よくわからないんだけど」
思案顔でたずねると、父は話してくれた。
「犬は、番犬じゃ 放し飼い。
猫は、ねずみ捕りじゃ。
たくさんおってな、わらわら歩いとった。
そんでもって、ほうっとくもんだから、ますます勝手に増えとったな」
「増えてたって、対策は講じてなかったの?」
「今みたいな犬猫の医者なんぞおらんかった」
「そっか、そうだよね」
「猫は、一匹、有名なのがおってな」
「有名な猫?」
「その猫は、ころころっと大きくて、真っ黒な猫じゃった」
「ころころしてる黒猫だったら、きっと、毛艶のいい猫だったんじゃない」
「有名などろぼう猫で、村のもんは、何かしらその猫に悪さされとった」
父は咳払いをして、こう告げた。
「どんな悪さしたの」
「わしんとこはな、飼ってたあひるをやられた」
「食べちゃったの?」
「食べはせん。アヒルの首んとこ、噛んだ痕があってな、もうだしかんようになってた」
「猫はどうしたの」
「納屋のすみっこにおった。えらい興奮しとって、総毛だって、唸って、動けんようになってた」
「つかまえたの?」
「雪おろしに使うもんでな、こう、がーん、と、打ち据えてやった」
「わ、ひどい」
「ひどいことないんじゃ。みんな、悪さされとったからな。いい気味じゃ、と思うとったわ」
「それで、どうなったの、それから」
「打ちどころが悪かったかして、動かんようになってしもうとった」
と、父は、さらっと口にした。
「化けてでそうな、いかいやつじゃった。そんだもんだから、一緒におったもんは気味悪がって、弔ってやらんと、ってことになってな」
「弔う?死んでしまったの?」
「わしらで、なまんだって唱えて、川へ流した」
「……」
「流したら、すぐに目が覚めて、もがいて、もがいて、反対側の岸に、流れ着いたんじゃ」
「よかった」
「その後は、見んようになった。どうしたんじゃろかと、飼い主は探しとったな。似たようなのがたくさんおったでな、すぐに忘れとった」
「そうなんだ」
「動物を愛玩するっちゅう考えはなかったな。人間の生活をおびやかすようなもんは成敗する、それが、山の村の決まりだったんじゃ」
風が、ひゅっと吹き過ぎた。
猫の声が、風に乗って、遠くから聞こえてきた。
「花散らしじゃな、この木にいるのは」
梅の古木がせり出しているところに来たら、かしましい鳴声とともに花びらが降ってきた。
場所とりをして、スズメたちとせめぎ合っているのは、シジュウカラだ。
くちばしで、花をちぎって捨てては蜜を吸い、またちぎっては蜜を吸っている。
シジュウカラは、食事のマナーはあまりいいとはいえない。
けれども、風に舞う花びらは、風情がある。
花を散らしても、許される。
穴馬の三月は、まだ雪景色。
四月の声を聞くようになって、ようやく雪が溶けだす。
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