河童
「川のそばできゅうりを作ったらだしかんよ」
「何がだしかんね」
「かっぱが来るだよ」
「かっぱ?かっぱって、あのかっぱか」
「そうじゃ、あのかっぱじゃ」
その日、父の父――私の祖父は、あめ煮するから、あじめどじょうをとりに行ってこいと言われていた。
とってきたあじめどじょうを茹でて干して、蜂蜜と醤油で煮詰めたあめ煮は、甘いもんのない穴馬では、おかずにも上等なおやつにもなる貴重なものだった。
祖父は、早いとこ済ませてしまおうと思って、谷川へ向かって歩いていた。
村のはずれから谷川へ降りるには、途中、背の高い藪の細道を抜けなければならない。
お天道様は真上にあるから、そう怖がることもなかったが、何処からともなく聞こえてくる、村人のではないように思える大人のひそひそ声は、耳の底にひっかかって足を重くした。
「相撲とるかい」
「どうじゃろな。とったかもしれんな」
「強いか」
「皿の上に水があるうちは、どえらい力がある」
「どえらいか。月の輪に勝てるか」
「ぶってぇ腕しとるでな、爪もきついでな、月の輪とはようせん」
そこで、だだん、だん、と、地団駄を踏むような音がした。
「皿の水できゅうり洗うか」
「どうじゃろか。皿にたまっとる水では、足りんじゃろ。洗いはせんな」
今度は、ぽりぽりと、何かをかじる音がした。
みずみずしさが感じられる歯切れの良い音だった。
「かっぱは昔からおったでな」
「昔からおったか」
「そうじゃ」
「きゅうりばっか食うから、みどり色しとるんじゃろ」
「かっぱは、どんびき色じゃ」
「どんびきか」
「どんびきみたいに、焦げた茶っぽい色だと、見たもんが言うとった」
「誰が言うとったか」
「誰じゃったろか、見たもんが言うとった」
「どんびきは、雨蛙だで、みどり色と違うか」
「枯葉に乗っとると、そん色に変わる」
祖父は、学校でそういえば習ったなと思い出した。
体色変化。
お天道様に当っとったら、自分も、焦げたようになるしな、と、祖父は思った。
そう思ってから、ちょっとそれとは違うかと、思い直した。
「で、きゅうりはどうした」
「きゅうりか」
また、何かをかじる音がした。
「川のそばできゅうりを作っとると、次の日行くと、食われとる」
「それは、人だろ。いたずらもんが食ったんじゃねえだろか」
かじる音が絶え間なくしている。
「歯のあとが違う。かじったあとが、ぎざぎざになっとる」
「ほう、そうじゃろか」
「ほれ、見ぃ、わしゃ、子どもん頃、川でかっぱに食われかけたんじゃ」
もさもさ音がして、しゃべり主が腕まくりをして腕を見せているようだ。
「えれえ傷だな。縫ったんか」
「縫った。麻酔もせんで、涙がちょん切れた」
「かっぱに噛みついたやつはおらなんだか」
「おらなんだ。いや、一人おったか。そりゃ、わしのことじゃ。川で泳いでたら、かっぱが、ほれ、ここんとこ腕んとこな、噛みついてきて、わしを動けんようにした。水飲むし、むせるし、けつのことられそうになって、わけわからんようになって、噛んだ。そしたらな、かっぱは逃げてった。口ん中、しばらく青臭くて、かなわんかった」
「そんでも、とって食われんでよかったな」
「そうだなぁ。よかったかもしらんが、それっから、きゅうりが大好物になってな」
「けつのこよりうまいか」
「うまいかもしらん。食ったことないでな、けつのこ」
祖父は、思わず、自分のお尻の穴を両手でふさいだ。
穴馬の河童も、よその河童のように、尻子玉を狙うのだ。
「お天道様がきついな」
「そうじゃな。そろそろ干上がってしまいそうじゃ」
「川狩りにもどるか」
「誰ぞおるかな」
「あめ煮作る言うとったもんがおったぞ」
「そうか。では、来るな」
「来るな」
そこで、しゃべり声が途切れた。
谷川の流れる音が、急に大きくなった。
祖父は、声のしてきた方に藪をかき分けて進んでいった。
ぽっ、と現れたのは、踏みしだかれた藪の日だまりだった。
齧りかけのきゅうりが、散乱していた。
ぎざぎざの歯型のきゅうりが、たあんと、あった。
――川で泳いでいると、けつのこをとって食われる。
子どもが泳いでいると、襲われる。
襲われるとだしかんようになる。
溺れてだしかんようになってしまったことを
河童に襲われたと言ったのかもしれない――
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