ニジュップン
大人になればリスクマネジメントが上手くなって怪我をしなくなるものだ。
昔、側溝に足から落ちたことがある。そのとき溝蓋の端に脛が当たって、鉋で木を削るように脛の皮膚が削げたが、その後何食わぬ顔で家に帰って母親を卒倒させたのも、今では笑い話だ。
あの頃は擦り傷なんて日常茶飯事だったはずなのに、今では包丁で少し切っただけでも大慌てしてしまう。それは俺が弱くなったのか、はたまた社会のストレスで感覚が鋭敏になっているのか。
「ねえ、いつまでそこにいるつもり?」「早く出てきてよ」
聞き慣れた女の声に体が跳ねる。子どもの頃の話なんてそんなこと今はどうでもいい。俺は何度も折りたたんだトイレットペーパーで患部を圧迫した。
少し切れただけだ。小指の先にも満たないはずの小さな傷のはずだ。それなのに、大した傷でもないのに、この最悪な状況が全身から冷や汗を噴き出させていた。
痛みに抗いたいという本能から身体は無意識に力む。止血の甲斐なく、トイレットペーパーが血で湿っているのが手に伝わってくる。女の声とドアを叩く音すら遠くに聞こえる。理解し難いことがたった数分で起こったせいでもう何をどうすればいいのかがわからない。体の中心から体液が渦巻いて、そのうち瓦解してしまうのではないか。それかもしかしたら一生このままなのではないかという、うすぼんやりとした不安さえあった。
普通の日だった。さっきまでは普通の日だったのだ。俺の部屋で彼女と次のデート先について話していた。それが、この傷口が、すべてを非日常に変えてしまった。
急な痛みに襲われた。呼吸が浅くなり、神経が集中するのがわかった。その危機から逃げ出そうと、俺は彼女を置いてトイレへと逃げ込んだ。
————何の解決にもならないのに。
壁に寄り掛かって大きく息を吐く。一瞬だけ痛みが和らいだ後、再び疼いた。それは彼女への罪悪感と似ていた。
「だんまりじゃわからないでしょ? 何が嫌なの?」
トイレのドアノブが激しく回る。それを見ていると視界がグニャリと歪んでいく。この状況を打破するための術など到底思いつかないが、焦りのあまり何も考えられないことだけはわかっていた。
滲み出た汗で髪が額に張り付く。もう限界だった。
落ち着け、落ち着け。パニックになったところで解決策なんて1つも思いつかないのだ。俺はもう一度深呼吸をする。そして傷口の痛みをかき消すように両頬を叩いた。もう大丈夫だ。
状況を整理しよう。俺は着の身着のままトイレの中に逃げ込んでいる。傷口は小さいながらも確かに負傷していて、ドアのすぐ外では女が待ち構えている。そして、今この状況で女は俺の敵だということも確実だ。
劣勢どころか負けが確定しているような状況で何ができるだろうか。
助けを呼ぶ? スマホ......は机の上だ。女がドアの前にいる以上、取りに行くのは難しいだろう。そもそも、仮に助けを呼んだとして何になるのだろう。きっとなんの冗談だとあの女に追い返されてしまう。
女を押し退ける? 傷が痛くてできる気がしない。
対話をして出て行ってもらう? そんな話術は持ち合わせていないし諦めるとは到底思えない。
何も思いつかない。俺はいつもそうだ。結局俺は凡人で、無節操で、不侫な人間だ。何も成し遂げることはなく、生産性のない日々を送っている。世界では戦争が終わらず、恵まれない子どもたちがその日の食糧にありつけるかすらわからずに懸命に生きようともがいているのに、俺といったらなんだ。無為に生きて時間が過ぎるのをただ待っているだけじゃないか。今すぐ募金箱に全財産を突っ込んできた方が、未来ある若者が救われる分よっぽどマシだろう。
「いい加減にしてよ‼︎」
「ひィ!」
低くくぐもった声の中に確かな怒りを感じて、俺は現実に引き戻される。
どれだけ時間が経ったのだろう。絡まった紐がまとめて波に流されたように混乱は解け、ただ恐怖心だけが残っていた。冷や汗はもはや涙と変わらない。
————時間が解決してくれる。それまでここにいればいい。
————全てを諦めてドアを開ければいいさ。
頭の中で2つの声が行き交う。ドアを叩く音と女の大声は激化する。そうしてそれらは混じりあって、ひとつの曲のようだった。
唾液が変な味になる。冷たく濁っていく。
もう、もう————————、
がんばった。
俺はがんばったのだ。
この現状に考えあぐねていたが、傷の痛みが全身の脈動と共鳴し、いつの間にか自然と一体化して、そんなことを思っていた。
苦しみはいつだって目の前にあった。それこそ生まれた日からそこにあったのだ。その中で今目の前にあるその苦しみから脱する術を知っていた筈なのに、それをしようとはしなかった! しかしつまらない自尊心に執着していた先ほどまでの自分を蔑む気持ちはない。
なぜなら俺は自然だからだ。プライドにしがみつく俺も、今の俺も、等しく『俺』であり、『自然』であり、『変容』そのものなのだ。
そしてそれは、ドアの向こうにいる彼女も同じだろう。形の異なる苦しみを受け、焦り、もがいている。いわば彼女も苦悩というぬかるみに溺れた同胞だったのだ。そして俺たちは折り重なって背を喰み合い、生と死を、苦しみと解放を繰り返しているのだと、悟った。
そして俺は全てを諦めた。彼女に敬慕の情すら抱えて呼びかけた。いつもより、優しく。
「ごめん、肛門科開いてるか電話で確認してくれる?」
ウェヌスの失笑 下村りょう @Higuchi_Chikage
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