食べちゃいたいくらい

 彼女と出会ったのは、選考が始まる直前、桜が満開の日だった。

 僕は大学のゼミ仲間と花見という名の宴会に来ていたのだが、日々バイトに追われていたせいで、そのゼミに顔を出したためしはほとんどなかったのだ。

 何故呼ばれたのかも曖昧なまま、ひどく手持ち無沙汰で宴会の輪から抜け出した。

 ――このまま帰ってやろうか。

 ジャケットに手を突っ込んで自販機へと向かう。着れば暑いが脱げば寒い。春というものは中途半端な季節で嫌いだ。

 突然風が吹いた。

 桜が舞った。

 彼女が僕の瞳に映った。

 僕に背を向けた彼女が着ていたのはモード系ファッションだったけれど、それに合わない真っ直ぐな烏の濡れ羽色が桜とよく似合っていた。

 おもむろに携帯電話を取り出し、写真を撮る。写真がメモリに収まっていくところを見届けた途端、激しい後悔が僕を襲った。

 何をしているんだ僕は。見ず知らずの、しかも女性を無断で撮ってしまうなんて。これじゃあ盗撮魔だと警察に突き出されても文句が言えないじゃないか。ああどうか何も知らないまま汚された彼女に謝罪することはできないだろうか。

 思えば思わるるかのように彼女が僕を振り返った。その瞳孔が僕を捉えて離さない。

 ——僕があなたを被写体にしてしまったことを、気付いてしまいましたか?

 彼女に向かって心の中で問うた。返事は返ってこない。当然ではあったが。

 しかし、僕を見つめ続ける双眸がイエスと答えているようにも思えてきて、少しずつ、少しずつ彼女に向かって歩を進めた。

 一時間にも一秒にも感じられた。背中は冷え切っているのに、ポケットに突っ込んだままの手は汗でビッショリだった。

 ようやく彼女の前に立った僕は、走ったわけでもないのに動悸が激しく、息も荒げていた。きっと端から見れば、健気な大和乙女を追い詰める不審者にでも見えただろう。

「……すみません。その、勝手に。あなたの写真を撮ってしまったのですが…………あの」

 妙に歯切れの悪い声が聞こえた。

 なんだこの声は。まるで僕の声ではないみたいだ。普段の私の声は冷水のように冷たく、もっと低かったじゃないか。こんなに上擦った声は今までに聞いたことがない。

 しかし彼女は僕の拙い言葉の続きを待っている。子オオカミのような目で小首を傾げて待っている。

 どうすればいいんだ。

 本当なら、彼女に謝罪した上で、画像を完全に消去しなければならないのに。桜の花弁が乗ったような唇を見つめているうちに、きっとこの人の正体は桜の精で、目を離した隙に消えてしまうのではないかと、僕だけでもこの姿を形に留めておきたいと思ってしまったのだ。

 とにかく僕はなんとかして言い訳を考える。

 考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて喉元から言葉を引きずり出す。「とても申し訳ないと思っています。ですが、瞬きの一つでもしようものなら、あなたが桜を象った従者に連れ去られてしまうのではないかと怖くなってしまって……悪用はしないと約束します。どうか、もう一枚だけ撮らせてはいただけないでしょうか?」

 顔から火が出た。こんなものはナンパと同じだ。素性もわからず、二枚目でもなければまだこれといった稼ぎもない僕がこんなことを言ってはいけない。

 立ち去ろう。仮に彼女が桜の精であっても、僕には止める資格がないのだから。

 彼女の口から「ふふっ」と短い音が漏れた。大して美しくもない声ではあったけど、羊水のように温かい声だった。

「『従者に連れ去られてしまう』というのは、かぐや姫のようにですか?」

 焦った。まさか会話ができるとは思ってもみなかった。気持ち悪いと吐き捨てられる程度で済めばまだいいと思っていたのだ。

 とにかく会話を続けなければ。優しい彼女を楽しませるような、なにかユーモアのある返答はできなだろうか。

「ええ。帝ではなく、七枚目のような顔の僕ですが、せめてその美しさだけでも残しておきたいと思ったんです」

 彼女はおかしそうに笑って、それから「構いませんよ」と言ってくれた。

 それが、一つ年下の彼女との出会いだった。


















「私、ユノになりたいんです」

 僕と彼女は6月に結婚した。

「新婚旅行はグアムですか? バカンスよりリラックスしませんか?」

 夫婦の新婚旅行は草津温泉だった。

 今思えば、僕たちの運命は全て彼女のぬるま湯のような一声で決まっていたのかもしれない。

 僕も彼女も就職して、同じ屋根の下で暮らして。全てが順風満帆とはいかなかったけれど、平凡でプラトニックで、それでいてとても幸せだった。

 出会って五年、結婚して三年目に、 酷い嘔吐や嗜好の変化が起こった。

 彼女は妊娠していた。

 僕たちはよく話し合った結果、子どもを産むことを決意した。

 決定的な一言はやはり彼女の一声で、彼女の真剣な眼差し、に僕は涙が止まらなかった。

「君の子どもが産まれたら、食べちゃいたくなるぐらい愛するよ」

 それから彼女の出産予定日まではあっという間だった。大きく膨らむお腹の中身は女の子だそうだ。

 子どもが産まれてもそれはそれで幸せなんだろうと、何度も彼女と語り合った。


 そして出産予定日の一週間前、僕たちは出産の前祝いとしてレストランで食事をしていた。

 子どもは逆子らしく、前日には帝王切開で入院してしまうから、準備を始める前に祝いたいと言い出したのは彼女だ。

 食事にピッタリ合うワインを控えて、生命の袋を愛おしそうに撫でる彼女は、今までで最も美しく、それを見つめている僕はなんて幸せ者だろうか。

 彼女の声と同じ温度の水を飲む子どもはきっと彼女と同じように育っていく。いずれ彼女になっていく子どものことを考えると、感慨深くてたまらない。

 食後のデザートが出る前に、彼女が唸った。そして苦痛に染まった顔で僕を見て、耐えられないというふうに床に倒れこみ、声をあげる。

 店内が騒然とした。僕も茫然とした。

 動けない蛙の代わりに誰かが彼女に駆け寄った。誰かが僕に大声で呼びかけた。

「きっとそれは陣痛です。彼女は妊娠中なんです! 早産なんだと思います!」

 そう言わなければいけないはずなのに、脳と神経は繋がれておらず、顔の筋肉は言葉を生み出すことを拒否した。その代わりに口から漏れ出すのはエナメル質がぶつかり合う音だけ。

 目の前にいる彼女が喚いているは見えているのに、臆病な僕は動くことも話すこともできない。

 レストランにいた他の客に押し込められるようにして乗った救急車で、隊員が「母体と子ども、どちらかを見捨てる覚悟をしてください」と言われた。その言葉に愛する人とその子ども、共に救う事などできないのだということを、まともに働かない頭でようやく理解して、僕の目は彼女の顔を見た。僕の耳は彼女のぬるま湯の声を待ち侘びた。

 けれども、彼女は生色を取り戻す素振りを見せなかった。それどころか縄張り争いをする猫のように呻るだけで、人間らしさの欠片もなかった。

 救急車が止まり、彼女は瞬く間に運ばれていった。僕は救急車の中で1人残された。愚考と浅慮が目の前を素早い動きで駆けていく。

 僕は彼女の決定を聞くことができない。それは3年以上嗜眠状態に陥っていた、役立たずでちゃらんぽらんで無用の長物だった僕の意思が漸く目を醒ますということだ。

 アネモネが楚々とした花を咲かせる

 僕の足は徐に動く。

 牢固たるその鴇色の花はやがて醜く枯れた

 ゆっくりと進められていた歩は次第に早まる。

 そこから産まれた種は果たしてアネモネだろうか

 僕の体が彼女を乗せた担架に追いついた。

 救急隊員が僕の役に立たない意見を聞こうとこちらを向いている。

 僕は————

「子どもを優先してください!」

 醜く枯死した花など足で磨り潰して、種からできる新しい花を愛でよう。




 私は目下の資料に視線を移した。刑事を始めて早20年が経つ。そういった事件が起きていることをリアルタイムで知った事は一度か二度ほどあったが、まさか自身が所属している署の管轄内で、己が受け持つ案件になるとは思いもしなかった。

 資料の中には現場写真を写したものもいくつかあった。そのどれもが凄惨で陰湿である。死体慣れしていない人間であれば、数日間は食事が喉を通る前に拒否することだろう。刑事一課に勤めて10年ほどが経っている私であっても、現場を見た直後の昼食は食べるのをやめてしまった。

 被疑者の——いや、容疑自体を認めているから犯人となるか。犯人の男は命の危機に晒された妻と子どもを天秤にかけ、子どもを選んだところまで語り、その後は完黙を貫いていた。

 いつまで経っても肝心の動機や殺害方法については話そうとしなかったので、今度は私が口を開く事にした。平和なこの土地、残りの刑事人生でこれほどの山場はもう訪れることはないだろう。最後の昇進のチャンスを無碍にするほど、私は無欲な人間ではないのだ。

「それで? 妻を見捨ててまで産ませたかった大事な娘さんに、どうしてあんなことをしたんだ」

 男は黙る。

「こっちもねえ、アンタのだんまりに付き合ってられるほど暇じゃないんでね。別の方法で吐かせてやってもいいんですよ?」

 私は力任せに机を蹴り飛ばした。勿論ただの脅しである。取り調べの映像は裁判所に自供の証拠として提出されるので、昔のように刑事側の暴力が分かれば大問題である。しかし、彼の罪状が罪状であるために、多少手荒な真似をしてでも動機と殺害方法を自供させねばならないのだ。

 男は大きな音を立てて浮いた机を目にしても、驚く素振りは見せなかった。彼の同級生らによれば彼はかなりの小心者であったそうだが、今回の事件で肝でも座ったのだろうか?

「早く言えば、罪も軽くなりますよ?」

「…..彼女は、浮気をしていたんです」

 男は漸く口を開いた。私に話しかけているというよりは、独り言のようだった。

「娘は僕の子どもではなかったんです。別の男との間にできた、子どもだったんです。それを知った時、私は臓腑が煮え繰り返る思いでした。彼女を殺してしまいたいと思いました」

 私は新事実に身を乗り出して問うた。

「じゃあ、どうしてそんな子どもを育てようと思ったんですか? 子どもを諦めて、新たに自分と奥さんとの間に子どもを作ればよかったわけだ。私ならそうするがね」

「あなたにはわからないでしょう」

「浮気が許せなかったと言うのであれば、浮気を知った段階で離婚すればよかったでしょう。なにも愛せない子どもをわざわざ育ててまで、こんな惨いことをするのは懸命ではなかった」

「あなたにはわからないでしょう」

「じゃあ誰にならわかるっていうんですか」

 私は声を荒げた。要領の得ないこの男に苛立ちを覚えていた。

「娘ならわかるでしょう。彼女は私の考えをよく理解して、その幼い身体を私の為に捧げたのですから」

 やっと彼の口から事件に関わりそうな言葉が出てきた。すかさず私は質問をしようとしたのだが、口を開こうとする前に、先に彼の言葉が飛んできた。

「仮に理解されなくたって、よかったのです」

「どうしてですか?」

「彼女が、愛した人が産む子どもなのですから、きっと彼女によく似るでしょう。彼女にそっくりな娘を、綺麗だった彼女のように育てればいいと思った。だから私は『君の子どもが産まれたら、食べちゃいたくなるぐらい愛するよ』と妻に言ったのです。殺したい気持ちを抑えて。大きく膨れた彼女の腹を愛おしく撫でました。殺したい気持ちを抑えて。彼女と子どもを天秤にかけられた時、揺れる間もなく天秤は娘に傾きました。愛する娘が産まれて彼女が死ぬというのであればとても本望だったです! 早く浮気相手も殺してやりたかった」

「だから、その……あなたは自分の娘を食べたというのですか?」

 彼から目を離し、再び目下の資料に目を落とす。

「愛したと言うのであれば、どうして……こんなことをしたって言うのですか!」

 私は資料を男に投げつけた。舞う資料から覗いた彼の目を見て、私が憶えたのは恐怖であろうか。


 心神喪失の父親が娘を食べた。娘は出生届の出ていない無戸籍者であった。

 父親は皮と骨以外を余さず食べるつもりだったのか、綺麗に処理を施された肉や内臓は冷蔵庫の中にあった。残された皮は防腐処理を施され、中には骨と綿を詰めて、眼窩にはガラス球を嵌めて、人型に成型されていた。

 父親は娘の肉を使ってカレーを作った。その後、カレーを入れた鍋を持って警察に出頭した。「娘を食べました」と言って。

 前代未聞の反道徳的犯罪者で、食人を行った犯人こそがこの男であった。


 振り返ると、背後で取り調べの調書を書いていた部下は、私の暴動を制止しようと立ち上がっていた。

「すまない。もう大丈夫だ」

 部下を座らせ、私自身も席に着く。いくら男の行動が常軌を逸していたとしても、私までもが理性を失ってはいけないのだ。

 男は聞いてもいないのに話を始めた。

「とても、美味しかったです。妻が好きだったカレーの中に、彼女が確固たる意志で産みたがった娘を入れたのです。不味いわけがない。私の愛するものが詰まったカレーは、とても美味しかったのに、涙で食べられなくなったのです。それが私の身勝手なエゴで殺された娘に対する罪悪感であったと……気が付いたときには、私は警察署の前に立っていました」

 彼は自らの手で顔を覆う。そして大きく息を吸う。洗い落とした娘の血の匂いを味わっているのではないかと考えると、吐き気がした。

「あなたにはわからないでしょう」

 何度目かの同じ言葉で、彼は口角を緩く上げた。無表情以外の彼の表情を見たのは、この時が初めてであった。妖ではないのかと疑ってしまいそうなほどに薄気味悪い笑みだった。人を殺して食べた男の方が、私よりも遥かに冷静なのだ。

「僕以外の男に媚態を呈した彼女にも、彼女に子種を注いだ貴方にも、わからないでしょう」

 男は据わった目で私を見上げた。

 私の中で彼との会話が走馬灯のように流れていく。

 浮気相手も殺してやりたい、心神喪失の父親、早く言えば罪が軽くなる——

「では、娘の食べ方をお教えしますね」

 嗚呼。私は、私はきっと。

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