その7 大学病院外科病棟
当時はスマホなんてモノは、なかった。
今でいえばガラケーのような携帯だった。
ピッチと呼ばれるPHSというヤツもあった。
携帯アプリは貧弱。SNSは盛んではなかった。
つまり、メールはパソコン同士でするものだった。
築25年のアパートの小さなワンルームは、リビングであり、キッチンであり、かつ書斎でもある。その真ん中に大きな面積を占領するテーブル。自分で組み立てたせいなのか、足の高さがそろわずカタカタ微妙に傾く。頭上の蛍光灯は、いつになってもLEDに置き換わらない。降りそそぐ青白い光のもと、林檎マークのノートパソコンが孤独に輝いている。なけなしの貯金とひきかえに来てくれたそれを、ぼくはひらく。
サユリさんから返信が届いていた。
メールありがとう!
うれしい!
入院中はたいへんお世話になりました。
いろいろミツルくんがしてくれたから、楽しかったです!
ぜんぜん腫れなかったので、おどろきました!
さすが渋谷先生!
わたしの父のお店、もちろん、モツ鍋のお店もあります!
病院の近くだったら「モツ鍋
澄んだスープがおいしいの!
ほんとは恵比寿のお店が一番おいしいんだけど!
でもどこでもいいわ! ミツルくんと一緒なら!
都合のいい日をお知らせいただければ幸いです。
サユリ♡
PS:たくさんお話ししたいです。
びっくりマークがやけに多いよね。
いろいろしてくれたって、ちょっとヘンだよ。
七天皇塚って、なんか伝説っぽくて怖い名前だなあ。
でも、モツ鍋に澄んだスープっていうのが、めちゃウマそう。
そう。
病院で起きた事件のことは、書いていない。
けれど、サユリさんはうち明けるつもりだ。
PSはそういう意味だろう。
動機も教えてくれるだろう。
これで、スエヒロ病院の怪事件は一件落着。
落着?
まさか。
すっきりしないよ。
まだ何かある気がするんだ。
旭先生がどんな人物か、知りたい。
ここは肝胆膵の名医に会いに行かなくちゃ。
シッポがつながる時代遅れのマウスをクリックする。
安アパートの一室に灯る蛍光灯は、50Hzで点滅している。
そのまわりを、ちいさな羽根を持つ虫が何度も輪を描いて飛んでいた。
スエヒロ記念病院の形成外科病棟に、ひとりのおばさんが入院していた。農作業中に長いクギを腕に刺して、化膿させてしまった。赤く腫れあがった前腕は、渋谷先生の最小限の切開と連日の適切な洗浄、投薬で速やかに軽快した。明日は、もう退院だ。
農家のおばさんは、10年前に胆嚢の石を体外超音波で破砕したことがあるそうだ。現在までに新たな胆石は出現していない。
けれど、彼女はいうのだ。
「お腹が痛いような気がするんだよねえ。なんかあるような気がするんだよねえ」
画像診断では何も見当たらない。痛いんだよね? ときいても、
「そんな気がするだけなんだ」
という。
まあ、何もないだろうな。
けど、こういうのを見過ごしてガンだったりすると困るので、かかりつけとは別の専門医に見てもらうことを、ぼくはオススメしていた。
この症例を、ぼくは利用した。
スエヒロ病院の看護師のコスチュームは、東和大学病院のそれと全く同じ。
すっとぼけて、ぼくは大学病院に潜入した。
何科の者ともつかない看護師が、偶然を装い、助教授に接触した。東和大学病院外科病棟のナースステーション。回診から戻った直後の空隙を突いて、ぼくは旭先生に話しかけた。
「先生、お忙しいところ、ちょっといいですか。胆石破砕後10年になる患者さまが、腹部に違和感があるとおっしゃっていて……」
名医がふり向いた。浅黒い肌と、20代といっても通用しそうな精悍な雰囲気は、ぼくが知っているそのままだった。けれど、ニガ虫を嚙みつぶして味わっているような頬の引きつれ、はるか上から視線を降らせるような目。
ポスター写真のさわやかな表情は、どこにも見つけることはできなかった。
気にせず、ぼくはいう。
「画像では石は確認できませんが、胆石後の悪性腫瘍はよくあるときいたもので。なんでも、胆石患者の60%が、胆嚢ガンを併発するとか——」
「なにをいってる」
りりしく浅黒い顔が、エサに食いついた。
「それは、胆嚢ガンの手術をした患者の60%に胆石が見つかっている、という話だろ、間抜け。見ない顔だな、どこの科の者だ? お前みたいなゴミがのさばっているから、東和大学は一流になれないんだよ」
怒りとも蔑みとも、あるいは小さな虫を踏みつぶす快感ともとれる色を瞳に宿し、名医がにらむ。
ぼくは愛想笑いで頬を盛り上げる。
「勉強不足で失礼しました。
「うちは忙しくてだめだ。紹介状を持って西分院に行け。三流病院はヒマだから。あと、エコーより造影CTだ、バカ」
たしかにこの医者は、凡庸な人間にはない切れ者の貫禄を発散している。
しっかりとした考えを持ち、手術もうまそうに感じる。
それに、20才若く見えるイケメンだ。
けれど、こんなヤツより横芝先生のほうが100倍尊敬できると、ぼくは思った。
彼が去ってからも、ムシャクシャしたものが腹から消えそうになかった。自分でも意外だった。その時のぼくは、シッポを丸めつつもキバを見せている野良犬のようだったろう。よほど哀れに思ったのか、ひとりの看護師が小さく声をかけてくれた。
「いちいち気にしてたらソンよ」
「先生、いつもあんななの?」
「みんな慣れてるわ」
「でも、かっこいいからモテるでしょ」
「美人には態度が全然違うの」
「遊び人?」
「ん〜、わたしの口からはいえないわ、ははは」
「泣かされた女のひとは数知れず?」
「ん〜、ノーコメント、ははは」
「60才以上はオペしないの?」
「ん〜、はははは」
だいたい分かった。
ぼくの隠密調査は、一定の成果を終えて終了した。
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