その6 名医のすばらしい業績
「ガンに侵された患者さんたちにとって、あのお医者さまは救世主だと思うか?」
あえて誰も口にしない問いを、横芝先生が発した。
ぼくは当然のように返す。
「旭先生、スゴい業績なんでしょう? 手術件数も5年生存率も、日本有数とか」
「なんも、わかっちゃいねえな」
とたんに先生は反応した。迫ってきた暑苦しい顔は、信頼できる医者特有のオーラを発散させている。あんまり身体を寄せるので、彼の下半身はおろそかだ。
「先生、的から外れちゃいますよ」
「おっと、いけね」
両手をモゾモゾさせて、彼は放水する先を正した。
そのあと話す内容は、うすうすぼくも察していたことだった。
「あのひとは患者を選別してる。難しそうだったり、ちょっとでもダメそうなガンはオペしねえ。60才以上は無条件で相手にしねえ。患者のことなんて、ちっとも考えちゃいねえ」
顔だけこっちへ向けて、先生はいい放った。
「肝胆膵手術の名手だなんて、ウソっぱちだ」
一般の人々にとっては、旭先生は名医だ。
だが、本当の事情を知る関係者は少なくない。
そう。
すばらしい業績というものは、額面通りに受け取ってはならないのだ。
「あたしも聞いたことある。大学病院で手術を待たされたあげく、手遅れになった患者さまがいるって。けっこう前の話らしいけど」
喫煙室で、リエが煙を吹く。
「ごく初期の膵頭部ガンが見つかった患者さまがいてさ。まだ小さいし、転移もない。これは不幸中の幸いだ、手術で治る。ってことで、内科も検査部も大喜びで旭先生に紹介したんだって」
膵臓ガンは、こんなふうに初期で発見されることは珍しい。症状に乏しいから、ガンだと分かった時点でかなり進行している。まわりの組織まで広がっていたり、遠いところに転位していたり。
ということは、初期の膵臓ガンは、手術がうまくいくという点でレアで喜ばしい症例のはずだ。
「そしたら患者さん、また別なとこに検査入院を1ヶ月させられたあげく、戻ってきたら、予定が込んでて半年も待たされたらしいのよ。もう内科と検査部、泣いて怒ったってさ」
「おかしいね、いくらなんでも半年待たされるというのは」
「でしょう? 大学の検査部にいる元カレがいってた。患者さまが65才だったから、手術したくなかったんだろうって。高齢な患者は術後リスクがあるからって」
「それは80才くらいの話だよね、手術の負担で逆に寿命が縮まっちゃうのは」
「旭先生は60才以上はオペしないってさ。若くて元気な人だけ診るんだって」
「それなら、どこか他の病院に紹介すればいいと思うけど」
「そんなことしたら、広まっちゃうから。意気地なしって、バレちゃうから」
名医の正体は、こんなものなのだった。
でも患者さんは自分の命がかかっている。まだまだ生きたいのに年齢制限をくらうなんて、たまったもんじゃない。
「待たされたその患者さん、かわいそうにね。なんで他に行かなかったのかなあ」
「旭先生の信奉者だったみたい。待ってる間に進行しちゃって、そこでやっと転院して抗がん剤と放射線始めたって。じつは進行ガンだったんですって旭先生からいわれても、それを信じたんだって。罪を着せられた内科と検査部は、もう訴える寸前だったらしいわよ」
その怒りは、至極もっともだ。
いち早く見つかった、性根の悪いガン。幸運にもほぼ確実に治る。
なのにそんな結果に。
とても悲しい症例。
これが、いまスエヒロ病院を騒がしている事件に関係あるだろうか?
身内の誰かの恨みだろうか?
それは、サユリさんとどうつながるのだろうか?
「モツ鍋、食べたいね、リエ」
唐突にいう、ぼく。
「うんうん! とびきりウマい店で!」
食欲満点の笑顔。
「じゃあ、ちょっと頼まれてくれる? 大学行って、亡くなった膵臓ガンの患者さんのこと、調べてくれるかな。近いひとのこととか」
「あら。あんた、ムシが目覚めた?」
彼女はニヤリと口角を上げた。食べ物ではない何かを期待している。
ヘビースモーカーのこのナースは、へっぽこ探偵の助手としても優秀だ。
「いいわよ。あたしも思った。分娩室には肝臓、耳鼻科外来には胆嚢、ときて、次は膵臓だなって」
「久我山サユリさんの家は、飲食店をたくさん経営してる。臓物を使う料理店があることは分かってる。あとはアリバイを調べなきゃ」
さあ、一体どうなるか。
サユリさんとは、どんなデートになるかなあ。
モツ鍋、美味しいといいな。
あ、その時はリエもいっしょだ。
うーん。
まあ、いっか。
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