その5 渋谷ヒカル先生

 イジワルをする前の高揚のような。

 あるいは怖いもの見たさのような。

 そんな気持ちがぼくをせかす。

 個室の前に駆けつけた。

 ドアをあけた。

 いいにおいがした。


 いいにおいがしたけれど、サユリさんはもういなかった。

 荷物もなく、空っぽ。

 あらら、出てっちゃったか。

 仕事が終わるの待っててくれるはずだったのに、デートだったのに。

 フラれてしまったか。

 モツ鍋食べるのも、ちょっと先になったかなあ。


「つい、さっき」


 背中に声。

 ふり返ると、そこには、ぼくの……。

 

「退院したわ、あなたのサユリさん」

 

 もう少しで肩に届く、栗色の髪。

 背が高く見えるのは、小ぶりな顔のせいだ。

 だから黒ブチのメガネが大きく見える。

 ぼくは知っている。

 メガネを外した時、けだるい瞳が大きくきらめくことを。


「渋谷先生」


 渋谷ヒカル先生。

 女性。

 去年専門医になったから、年齢はギリ20代。

 独身。

 形成外科うちには医者は渋谷先生しかいない。

 いわゆる、ひとり医長。

 オペの時だけ、彼女はストレートの髪をうしろにまとめる。

 まとめると、人が変わる。

 手術の鬼、完璧主義者。

 彼女はぼくの……。


 ぼくの女神。


「残念だったね、ミツルくん」


「い、いえ、その……」


「メッセージを預かってるわ」


 小さなものを、ぼくに差し出す。

 滑らかな白い頬をわずかに盛り上げて、彼女は笑みを作る。

 メガネの奥の瞳は、深い湖のよう。

 湖は、たくさんの秘密で満ちて水面を光らせる。

 いつか誰かが解き明かすのだろうか。

 そんな大それたこと、いつの日か、ぼくに出来るだろうか。


 力仕事も平然とこなす美しく細い指から、ぼくは紙切れを受け取ると、そそくさと退散することとなった。

 ああ、なんて間が悪いんだろう。





 メッセージの内容は……


『用事ができちゃったのぉ(>_<) 近日中に連絡しまぁす! あたしのメアドは↓』


 萌えのあふれる手書き文字をにらむぼくは、男子トイレにいた。

 ほそ長くて白い便器の前。

 チャックはあけないまんま、仁王立ち。


「イチモツ出さずに、なにやってんの?」


 となりに来た人物が、ぼくの便器をのぞき込んでいる。


「わっ、横芝よこしば先生」


 横芝サトル先生。

 男。

 30代とっくに突入。

 彼女いない歴、たぶん1年以上。

 皮膚科の医者にはめずらしく、手術が大好き。

 で、渋谷先生にいろいろ教えてもらっている。

 横芝先生の本命は、ぼくの女神。

 この男は、ぼくの恋のライバル。


「はやく出して見せてよ、意外に大っきいんだろ? ミツルくんの」


 この人は女の子にモテない、珍しい医者だ。

 デリカシーが欠如していることと、ヒゲ面がダサいことに早く気づくべきだが、教えてあげるつもりはない。


「大っきくないです、おそまつです」


「またまたぁ〜、てか、タマタマぁ〜」


 ギャグのセンスも救いようがない。


「いや〜しかしさあ、目障りだよな、これ」


 ジッパーを下げながら、横芝先生がアゴをしゃくる。

 ぼくらの目の前に、ポスターが貼ってある。


 そこには、

《スエヒロ記念病院に、肝胆膵センター建設計画中》

 という大きな文字。

 写真もある。

 ひとりの医者の浅黒く、りりしい顔。


あさひ先生って、好きじゃねえんだよな、おれ」


 名医50選にも載る、東和大学の助教授、旭ツグトシ。40代なかばと若いのに、肝臓、胆嚢、膵臓に関する手術のエキスパートだ。

 そんな先生がエグゼクティブ・マネージャーに就任するという「肝胆膵の総合センター」を、この病院に大々的に設置するという。


 たいへん良いことのようだが、じつは反対の意見が多い。

 高度な治療に注力すると、地域に根ざした一般の診療が手薄になる、という声。

 または、大学でやった手術の術後の管理だけうちの病院でやるのは損だ、という声。

 あるいは、センターができたかわりに切られる部署や従業員はどうすればいいのか、とか。

 はては、もしも病院に残れてもぜったい仕事が増えるからイヤだよ、とか。

 最後のは、ぼくの心の声なのだけれど。


形成外科おまえんとこは、真っ先になくなっちまうだろ」


「入院患者さん、少ないですからね、リストラ必死です」


「美容整形をもっとハデにやりゃあいいのに。美人のボスは、なんでも出来るじゃねえか」


「混合診療には制限があって、実質、できません」


 保険でする診療と自費の診療を、同じ施設ですることを混合診療と呼ぶ。

 あの当時はほぼ不可能だった。

 渋谷先生は自費の美容領域でもピカイチのウデだった。

 みんなインチキ美容外科になど行かないで、先生にしてもらったほうがいいに決まっていたが。

 

「病院もバカだよな、旭先生と大学が笑うだけなのに」


 顔をひずませる横芝先生。

 ぼくは、こういってみる。


「患者さんのためになるでしょう、肝胆膵のエキスパートが診てくれるんですから。とくにガンの患者さんたちには朗報でしょう」


「ほんとにそう思うか?」


 先生の目は憎悪と怒りの色に染まった。

 この人は、根っから正直なのだ。

 ぼくの唇をうばったヒゲ男。

 イケメンとは正反対。

 性格も、超ガサツ。

 しかも恋敵。


 先生の便器には、勢いよく液体が流れる。

 ぼくはこのまっすぐな先生が、嫌いではなかった。

 




 

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