その4 耳鼻科外来の惨劇
分娩室で謎が生まれてから数日後、また事件が起きた。
スエヒロ記念病院に勤務して30年以上。
昨年、総副婦長に就任。
非常に優秀。
髪はいつもアップにしてまとめている。
持病、
副婦長なのに、いまだに耳鼻科外来に出て主任をしている。
今朝も彼女は早かった。診療開始の1時間前から用意を始める。予定を確認し、器具や薬剤をそろえ、整理整頓をする。
そうして先生が来るのを悠々と待つ。
若い看護師から
医療の神は、細部に宿る。
すべては患者さまのため。
それが彼女の信念。細やかな部分をいい加減にせず、奉仕の倫理で動く。
「あらまあ、機械台がハミ出ているわ。きのうの片づけ、誰だったのかしら」
手術スペースの配置がちょっとだけ乱れているのを、葛城主任は見すごさなかった。ライトをつけないまま、暗い奥へ小走りに進んだ。
ぴちゃ。
走り抜ける彼女の額に何かが触れた。
それは冷たくて柔らかかった。
オデコに右手を当てる。
左手でそばの壁を探る。
スイッチを押して灯りをつける。
手のひらを見た。赤く濡れていた。
あたりに異臭が漂っていた。
手術台の横に何かが揺れている。
宙にぶら下がっているようだ。
それにぶつかったのだ。
こぶし大のものが、
目をこらす。
黄色くもあり、白くもあり、紫でもある。
肉のかたまりだった。
「ひえっ」
耳鼻科外来主任は、のけぞった。
この時点で、彼女の腰椎付近の筋と筋膜は深刻なダメージを負った。
あるいは、椎間板が押されて軟骨随核がはみ出してしまったのかもしれない。
とにかく彼女は、「ぎっくり」してしまった。
しかし本当に重大だったのは、次だった。
大きな動揺と激しい痛みにより、主任の両下肢は体重を支えられなくなった。
身体は後方へ傾いた。
両腕のサポートが全くないまま、豊かなヒップが床に落ちていった。
つまり、彼女は激しく尻もちをついた。
ぐしゃ。
腰椎が圧迫骨折する音を、意識が薄れる直前に、彼女は聴いたに違いない。
整形外科病棟へ搬送。最低1ヶ月の入院。
脊髄に異常がなかったのは幸いだった。
だが彼女にとっても、忙しい耳鼻科外来にとっても、非常に痛いケガだった。
「というわけで、耳鼻科に駆り出されてるのよ、あたし」
喫煙室で、クジラのシオのように煙を吐き出す美少女。
まだ3年目だというのに、リエは経験豊富でデキる看護師だ。なんでもソツなくこなし、ミスがない。いろんな場所からひっぱりダコだ。
「リエはスゴイね、どこ行ってもバッチリ仕事する。凄腕のフリー看護師って感じだね。スーパーナース
「あんた、バカにしてんの?」
「カチンときた?」
「きた。ラーメンおごりなさい。
「あそこ、ひとりずつ仕切ってあって、しゃべれないよ。つまんないよ」
「いっかい行ってみたいのよ。今日はどう? 早番?」
早番は早番なんだけど。
退院するサユリさんに誘われているのだ、ぼくは。
どうしようかな。
友情をとるか、人生の新たな可能性を選ぶか。
そりゃあ、新たなほうがいいに決まってるよなあ。
「なによその顔。なんかムカつく」
白ウサギのような頬をふくらますリエ。
「わかったわ。ラーメンじゃなくて焼き肉にさせてもらう。いや、鍋でもいい。モツ鍋。もうすぐ春なのに、最近とっても寒いから。そうだ、あんたバレンタインのお返し、3年分バックレてるでしょ!」
「ちゃんとお礼あげたと思うけど」
「ちゃんとしたお礼はもらってない。ああ、無性にモツが食べたくなってきた」
「耳鼻科外来の話のあとに、
「あたし摘出臓器の横でも、問題なく食事できるわよ」
「耳鼻科につるされてたモノも、胎盤だったの? それとも、まさか」
「赤ちゃんだったら、凄まじいわよね。そうじゃなかったから、あたしもホッとした。耳鼻科のアレは、ウシの
「胆嚢?」
「そう。んで、分娩室で見つかったヤツは、じつはウシの肝臓だったって」
なんと。
3日前、不思議な胎盤にみんなが動揺した。
けれど、それは違ったのだ
肝臓。
次は胆嚢。
ああ、そうだね。
これは、次があるね。
「あら、もう行っちゃうの? 一服しなさいよ、あげるから」
立ち上がるぼくに、リエはケミカルフリーの健康タバコを差し出した。
「煙はじゅうぶん吸ったよ。モツ鍋は、意外なところで食べれるかもね」
「はあ?」
リエの視線を背に浴びつつ、ぼくは喫煙室を飛び出た。
甘い香りの個室まで、ほんのちょっとの距離。
なのに、ずいぶん遠く感じるよ。
いつのまにか走っている。
胸の鼓動が高まる。
予期せぬ方向に、新たな可能性があった。
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