その8 女神のお父さま
「えー? じゃあ、サユリさんじゃないってこと?」
奇声とタバコの煙を同時に放出するナース。
「声が大きいよ。あ、いま患者さまをファーストネームで呼んだね。リエも同じじゃないか」
「それはしょうがないでしょ、あんたに合わせてるんだから」
口をとがらすアヒル。
ウサギになったり、トリになったり、忙しいなあこの美少女は。
「サユリさんが胆嚢を吊すのは不可能だよ。遠い耳鼻科外来まで行くには、ひとがたくさんいる場所を何回も通過する必要がある。それに、あの晩は彼女、部屋から離れてもすぐに戻っているんだ。夜勤のナースが確認してる」
「アリバイ成立ね」
「そうはいっても、たしかに分娩室の肝臓は彼女があやしい。個室を出てすぐ横の外階段を使えば、下の分娩室裏口までストレートに行けちゃうんだ。この経路なら、誰にも見られない」
「あれは、やっぱり彼女のしわざ?」
「その線が強い。でも、次の耳鼻科外来はサユリさんじゃないよ」
「だれかにやらせた、とか?」
肝胆膵センターに強く反対する人たちが結託しているのだろうか。
そこにサユリさんが関わっている?
「彼女の交友関係を調べるには、さすがに警察の手を借りなきゃいけないよ」
「病院はそんなつもりないわよ。他言無用ってお達しが出てるんだから」
だが、考えてみれば。
院内を臓物で騒がせたくらいで、センター建設が中止になるものだろうか。
「ぼくは、グループによる組織的犯行とは思えないんだよね」
「はあ、なんか難しいわね。あんたの頭脳で、ちゃっちゃと解いちゃってよ」
「解けない。鍋に入れたコラーゲン玉のようには」
ああ、モツがどんどん遠のく。
「早く食べたいわ〜、澄んだスープの絶品モツ煮込み」
でも口調はどこか明るく楽しげだ。なぜ?
「ところでさあ、あたしの話は聞きたくなぁ〜い? 大学で収穫あったわよ」
頼りになる相棒は、タバコを指にはさみつつ、妖しい目つきをした。次の瞬間、白ウサギはとんでもない事実を明かした。
「亡くなった膵臓ガンの患者さまは、渋谷ヒカル先生のお父さまだったわ」
ぼくは、それに反応しない。
「あんた、聞いてんの?」
いや、ちゃんと聞こえてる。
「もっかい、いうよ。あんたの女神さまの、お父さまだった」
何か認めたくないことがあるとき、人は誰かを責めるものなのだと、そのときぼくは身をもって知った。
「なんでそれを早くいわないんだよ」
「あら、ごめんなさーい。いうと、あんた超特急でどっか行っちゃう気がして」
どっかへ行くのは、その通り。
でも、超特急なんかじゃない。燃料の切れかけたディーゼル車だ。
「ぼく、ちょっと、休憩してくる」
「はあ? ここ、休憩する場所なんだけど」
立ち上がったぼくは、ふらふらと喫煙室を出た。
さあ、どこへ行こうか。
このまま喫茶店で沈んでいようか。
いや、沈む前に、おさらいだ。こんな時こそ頭を使え。
深夜の分娩室に忍び込んで牛レバーを置いてくるのは。
サユリさんには十分に可能。
強い香水は、個室に隠していた臓物の臭いをカモフラージュしていたのだ。
次の胆嚢。
耳鼻科外来に吊したのはサユリさんじゃない。
彼女にはアリバイがある。
一方、渋谷先生は?
最初の事件の時、先生は大学の西分院に当直だった。
犯行は不可能じゃないけど、実際はかなり困難。
けれど耳鼻科の胆嚢の前夜は、このスエヒロ病院に当直していた。実行は容易。
産科はサユリさん。
耳鼻科は渋谷先生。
ふたりが示し合わせてやった?
ほんとうに?
とにかく。
渋谷先生のお父様が膵臓ガンで亡くなった。
これが鍵だろう。
あ。
膵臓。
いつだろう。
どこに現れるだろう。
もう終わりってことはないだろう。
そのさらに先に待っているものは。
やっぱり悲しい結末?
それとも?
奇妙だったのは。
何かを心待ちにしているぼくがいたんだ。
あこがれの女神を追いつめようとしながら、何かを期待していた。
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