その9 総合受付の膵臓

 あれから1週間たたないうちに、そいつは姿を見せた。

 そいつとは。

 膵臓。

 肝、胆の次。

 病院の正面入り口を入ってすぐ、受付カウンターの上。


 巨大アメフラシのようなそれは、細長くノテっと横たわっていた。早朝から激しいニオイを放って、掃除のおばさんを驚愕させたとのこと。三つ編みのおばさん、今朝は気の毒だったね。


「やってくれるわね〜、お見事。犯人にはモツ鍋、おごってあげたい。あたしが食べたあとで」


 目を細めるリエ。親指と人差し指でタバコをつまむ姿はオヤジのようだ。


「スゴいもんだわね、深夜の病院に忍び込んだとしたら」


「そうじゃないと思うよ。正面でも裏口でも、電子錠を開けようとしてたら、夜が明ける。4階の外階段にアクロバットで侵入しても、分娩室には行けるけど、そこから先は人目につくし」


「じゃあ、今回もサユリさんじゃなくて、院内の者の仕業ってことね」


「うん」


「ということは、残念ながら、犯人は女神ね」


「いや、違うんだ」


「あんたも往生際わるいわね」


「そうじゃなくて、アリバイがあるんだ。渋谷先生は昨日の晩、また西分院で当直」


「あら。でも、こっそり抜け出してこっちに来たとか」


「それもない。切断指の再接合で朝まで忙しかったらしい」


 再接合とは、ボンドでくっつける作業ではない。切断されてしまった小さな指を、巨大な手術用顕微鏡を覗きながら、ていねいに縫合するマイクロ手術だ。

 骨を固定して、腱も皮膚も縫うし、神経も出来るだけつなぐけれど、血が通わないと壊死するから、なんといっても血管が最優先だ。

 術者が両手に持つ鑷子ピンセットは、とてつもなく細く尖っている。尖った先がかすかに持つものは、肉眼では見えないほど細いナイロン糸と、小人こびとのピアスのような針。0.3ミリ、あるいはそれ以下の径の血管を、根気強く縫う。


 指の患者さんは、若い女性だったらしい。人差し指と中指と薬指の3本を工場の裁断機で切り落としてしまった。

 渋谷先生は3本すべてを再接合した。

 おそらく6時間、いや8時間くらいかけたかもしれない。

 術後は5分おきに指先の血行を確認したことだろう。

 スエヒロ病院に朝から転院になったが、まだ予断を許さない。

 先生は今日、外来の合間に何度も病棟へ見に行っているはずだ。


 ぼくは知っている。先生が治療に全身全霊をささげることを。


「渋谷先生が犯行に及ぶには、昨晩じゃなくて、その前の晩が都合が良かった。スエヒロ病院の当直でもなかったし、西分院の当直でもなかった」


 あの夜は、彼女は仕事が終わったあと、いつものように医局の奥の図書室にこもったようだった。図書室のさらに奥には、病院正面入り口に通じるドアがある。受付カウンターだけじゃなく、あらゆる場所に膵臓を置くことが可能だったろう。

 あの晩ぼくは飲み会があって、先生を監視することができなかった。

 けれど、たとえ飲みを断ったとしても、その日は何もなかったのだろう。

 いや、それとも……。


「そーいえば」


 リエが煙といっしょに声をもらした。


「あんたがいう、その夜。渋谷先生がフリーだった晩だけど、横芝先生、ヘンだった」


 え?


「なんかねー、うろうろしてた」


「うろうろ?」


「図書室の裏口あたりに出没してた。かと思うと、医局の近くで何度も見かけたよ、あたし」


 リエは、なぜだかニヤッと頬を盛り上げる。


「あたしが思うに、ストーカーしてるんじゃない? 渋谷先生のこと。横芝先生のターゲット、あんたから女神に変わったんじゃない?」


「いや、もともと横芝先生の本命は渋谷先生だよ」


 でも、彼はストーキングするような人じゃない。

 あ。

 そうか。

 そういうことか。


「横芝先生は、昨日の晩は当直?」


「あたし、知らない」


「確認しよう」


 そう声をかけた時には、ぼくはもう喫煙室のドアノブに手をかけていた。



 


 










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