あいのしるし

 ウィルはキスが好きである。

 駅の別れの一件以来、部屋の前で、朝のあいさつ代わりに唇を交わすことを好む。おはよう、またあとで、おやすみなさい。それらの言葉代わりに触れるだけの口づけを交わし、離れる。ただそれだけ。愛の言葉もなにもない。それどころか挨拶すらしないことも少なくはない。

 そう、決して、少なくは、なかったのだ。

「よくないと思うわ」

 力強いオリヴィアの言い分に、ウィルはスプーンを持つ手を止めた。

 いつも通りのレストランだ。彼の目の前に置かれているのは、店主特性のオムライス。黄金に輝く卵は金貨かもしくは宝石か、その上に描かれたケチャップはまるでルビーのようにも見えた。

 その、誰をも唸らせる逸品を前に、ウィルは眉を寄せ、首を傾げた。それからスプーンで黄金の山を崩し、ゆっくりと口を開いた。

「何が」

「何がって――そんなの決まっているでしょう」

 つん、と唇を尖らせるオリヴィアは、まるで拗ねた子供のようだ。

 そのようなことを思いながら、ウィルはゆっくりと咀嚼し、飲み込んだ。そして、鈍く光るスプーンの切っ先を彼女に向け、言った。

「お前の悪い癖の一つだ。主語がねぇ」

 真っ向から返り討ちされ、オリヴィアはぐっ、と息を飲んだ。

 そのまま根負けしてしまいそうなところを踏ん張り、ぎりぎりで堪え、丸テーブルに両手をついて食いついた。

「き……す、の……ことよ」

 小声になってしまったのは仕方がない。ちなみに現時刻は14時過ぎ。一般人の昼食時刻を少しばかりすぎてしまったレストランには、厨房の奥で更を磨く店主しか見当たらなかった。

 オムライスを頬張ったまま、ウィルはああ、というようにして首を小さく上下させた。

「ああ」

「やめたほうがいいと思うわ」

「なんで」

「なんで、って、当たり前でしょう」

 胸を張りされる当然の主張に、ウィルはいかにも不可解であるというようにして首を傾げた。

 思わず目眩を起こしてしまったのは仕方のないことだろう。オリヴィアはそのままへなへなと座り込み、ウィルの前に置かれていた水を勝手に飲み干すと、小さな子供に言い聞かせるような口調で述べた。

「あなたはわからないのかもしれないけれど、キスっていうのは本来そう簡単にするものではないの」

「だろうな」

「家族もしくは恋人同士がお互いの愛を伝え合うためにするものなの。握手感覚でホイホイするようなものではないの」

「だろうな」

 オリヴィアの解説も虚しく、ウィルの意識は黄金の山を崩すことだけに向けられている。彼女の言葉も、一体どれほど彼に届いているのかわからない。もしくは、全く届いていないのかもしれないが。

 黒光りするサングラスを眺めながら、オリヴィアは問いかけた。

「ねぇ」

「あぁ?」

「あなたは、どういうつもりなの?」

 どういうつもり?

 それは非常に曖昧な質問であった。『主語がないのは悪い癖だ』と言われたのはつい先ほどだ。けれどそれに主語を付けるには、少しばかり羞恥心がありすぎたのだ。

 ウィルは空白の時間を埋めるかのようにオムライスを口に運び、答えた。

「気分」

「は?」

「だから気分。そういう気分だから、してる」

 言葉も出ない、というのは、まさにこの状況を言うのだろう。

 決して自惚れているわけではなかった。けれど、愛や恋ではなくとも、それに近い、好意のようなものがあるのだろうとは期待していた。まさかそれが、ただの気分だったとは。

「……呆れたわ」

「そーかよ」

「あなたって本当に適当ね。フォローしきれないわ」

「そりゃあどうも」

「もっときちんとした考えを持っていると思ったけど、とんだ検討違いだったみたい。絶望したわ」

「残念だったなそりゃあ」

 がっかりした、絶望した、そしてそれ以上に恥ずかしい。何よりも自分自身に。

 それらの気持ちを隠すようにして蹲り、両手で顔を覆った。ぱくぱくという咀嚼音をBGMに自分自身に反省と叱咤をする。

「納得したか」

「……嫌というほど」

「そりゃあよかった」

 カラン、という金属音で、ウィルがオムライスを食べ終わったことを知る。彼には、空になった皿に、スプーンを放り投げる癖がある。

「……疲れた。先に部屋に戻って休むわ」

「生理か?」

「本当に死んで」

 それは心の奥底からの願いであった。

 ずきずきと痛む頭を押さえ、ふらふらとおぼつかない足取りで店内を抜け、二階へ続く階段に足を掛けた。

 その一段目、聞きなれた低音に名を呼ばれ、一歩踏み出した状態で止まる。肩越しに振り向くと、コップを持ったウィルが壁に凭れ掛かった状態でこちらを見ていた。コップの水はオリヴィアが飲み干したはずなので、わざわざ注ぎ直したのだろう。それでちびちびと喉を潤しながら、ひどく緩慢な様子で口を開いた。

「キスっていうのは、家族や恋人がお互いの愛を伝えるためにする行為らしいな」

「……ええ、そうよ。そう言ったでしょう」

「じゃあそうなればいいんじゃねぇ?」

「……え?」

 背後からゆっくりと伸ばされた指先が頬に触れる。彼女が返答するよりも先に感じた唇からは、冷えた氷の味がした。



 ウィルはキスが好きだ。

 朝起きぬけに、出かける時別れ際に、もしくは寝る時挨拶代わりに唇を交わす。

 キスとは、愛情を伝えるための行為である。

 もう一度言おう。ウィルはキスが好きである。

 キスとは、恋人同士がお互いの愛を伝え合うための行為である。




fin.


2016.12.23 執筆

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メメント シメサバ @sabamiso616

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