番外編

aspire to Heaven

――ぱちり。

 天使に導かれるようにして、オリヴィアは目を開けた。

 冬に入ったばかりの朝。昇ったばかりの太陽が窓から入り込み、白いシーツに反射して、光る。その眩しさに目を細め、顔を顰めた。ひどく寒い――体温を奪っていく魔物から身を守るため、むき出しの素肌をシーツで覆った。

 ベッドの半分が空いている。体温のある場所を求めて身を捩り、瞼を閉じる。聞こえてきた水温に、彼の居場所を知った。暫しの間その温かさに体を預けていたのだが、冬の使者は残酷であった。彼女の思いとは裏腹に、彼の痕跡をいとも簡単に奪ってしまう。

 温かさと引き換えに残された冷感に眉を寄せ、白い素足を床に伸ばした。足の底から伝わってくる温度はまるで氷の拷問だった。いくつもある彼の部屋における欠点の一つに、床がフローリングであることとカーペットが敷かれていないということが挙げられた。これは直ちに改善するべきであるとオリヴィアは常々感じていた。素肌にシーツを纏ったままつま先立ちで衣服を探す。アルコールの入った状態で脱ぎ捨てたブラウスの在処はあやふやだった。それよりも先に目についたのは椅子に掛けられたメンズサイズのTシャツで、好奇心で手に取ればシーツよりもより濃く彼の残り香が鼻孔を擽る。気まぐれで袖を通し、その大きさに驚いた。

(……随分とサイズが違うのね)

 当たり前だ、というもう一人の自分の呟きに苦笑する。

 指先まで届いた袖口。太ももまで届いた裾はまるでスカートのようにも見えた。ゴムの伸びきった首回りは肩を隠すことなくずり落ちて、白い二の腕まで露わにした。項まで伝わる冬の空気に体を震わせ、肩を隠そうと努力をするが、結局それは無駄な労力となってしまい途方に暮れた。そのままの状態でベッドに腰を掛け意味もなく足をふらつかせていると、後ろから声をかけられた。

「何してるんだよお前」

 風呂上がりの彼はいつもに増してだらしがないとオリヴィアは感じていた。

 タオルを被っただけの、ろくに拭くこともしない髪の毛からはぽたぽたと水滴が流れ落ち、フローリングに模様を作る。いつから着ているのかわからないズボンの裾は踏みつけられて擦り切れていた。申し訳程度に羽織ったシャツの隙間から見える素肌はほんのり赤く染まっていた。

「寒そうだわ」

「あちーんだよ」

「一人でシャワーを浴びてきたから?」

「ああ、誰かさんはすやすやおねむだったからな」

 意地悪い笑みを浮かべる彼に腹を立て枕を投げつけるが、起きて数分の彼女には、それほど力が出なかったらしい。皺だらけの枕はよろよろと宙を飛び、いとも簡単に彼の腕の中に着地した。それが悔しくて情けなくて、拗ねるようにしてそのままベッドに倒れこんだ。

「おい」

「……なぁに」

「何勝手に拗ねてんだよ」

「拗ねてないわ」

「嘘だ」

「本当よ」

「お前は嘘がへたくそだ」

 背中に感じた暖かさで、彼が隣に座ったことを知る。が、オリヴィアは振り向かない。ただ単に悔しかったのだ――嘘を見破られたことが。自分が拗ねていると気づかれてしまったことが。

「……とても寒かったわ。起きたら誰もいなくて――とても冷たくて、寒かったの」

「だから俺のシャツなんか着てるのかよ」

 その言葉を否定するようにして、冷えたシーツに顔を埋めた。空っぽの両手が寂しくて意味もなく指遊びをしていたら、含み笑いと共に枕を差し出された。

「全然似合ってねぇ。俺のシャツなんてでかいし、ボロボロだし、間違えても社長令嬢が着るようなもんじゃねぇな」

 ガサガサというのはタオルで頭を拭く音だろう――前髪の間から覗くとそこにあったのは、悪戯な光を讃えた赤い瞳。

「……知っているわそのくらい」

 頬に触れる指先に不快感を覚え、顔を動かして軽く払う。が、所詮は子猫の身じろぎだ――くすくすという笑い声が鬱陶しくて、抗議しようと顔を上げた。が、開きかけた唇は言葉を発するまもなく塞がれる。酸素を求めるようにして幾度となく唇を合わせ、酸欠になる直前で漸くの事解放された。

「……はぁっ」

 浅く呼吸を繰り返しながら視線の動きだけで物申すも、今にも零れ落ちそうな光を保つ赤い瞳に口を噤んだ。胸元に輝く逆十字が音を立て、彼女に罪の意識を与える。今、この瞬間を神に監視されているということに気が付いて、冷えた両足をシーツで隠した。

 彼の瞳は時として暴力的だ。炎のように熱く、激しく、感情的で、すべてを焼き尽くしてしまうかのような残虐性を持ちながらも、また、それとは裏腹に夕焼けのように美しく、一日の終わりを感じさせるかのような寂しさと儚さがある。

 その瞳に自分の姿が映っていることが嬉しくて、けれど次の瞬間、自分の姿がライターに移り変わったことが悔しくて、彼の右足を蹴り上げた。

「いてっ!」

 煙草に火をつける直前で感じた衝撃に悲鳴を上げる彼の姿に、オリヴィアはシーツに顔を埋めたまま笑った。それから、ちりりと灯される炎に身を焦がし、呟いた。

「……好きじゃないわ。あなたの瞳」

 すべてを燃やし尽くすかのような赤い瞳。それはまるで炎のように身を焦がす。心も体も骨の髄から血の一滴も残すことなく、まるで煉獄の焔のように。

(私を映すあなたの瞳も、私を映さないあなたの瞳も)

 灼熱の焔は逃げることを許さない。触れた場所から一気に広がり、燃やし尽くす。それこそ、すべてを食い尽くすかのようにして。

「ほんとうに、好きじゃないわ」

 その言葉がウィルにどう届いたのかはわからない。火の灯った煙草を咥え、離した。ゆっくりと放たれた白い煙は宙を舞い、オリヴィアの元まで届いた。同じ香りだ。シーツと、シャツと、同じ香りだ。

 ウィルはその煙が消えてなくなるまで眺めて、待ち、赤の瞳をゆっくりと細めた。

「うん、知ってる」

 そっと伸ばされた彼の指先は、その粗暴な性格を現すかのようにささくれている。血が滲んでいるのは乾燥した空気のせいだけではないだろう。それがオリヴィアの顔の輪部をなぞる様にしてゆっくりと伝い、未だまどろみから抜け出すことのできない彼女に暖かな安らぎを与えた。

「……ねぇ、知ってる?」

「あ?」

「オペラ座の怪人、て」

 オリヴィアの思い付きに、ウィルはああ、と頷いた。

「知ってるよ。有名な歌劇だ――仮面の怪人が、歌姫に恋をするんだろう」

 世にもおぞましい醜悪な顔と天使の歌声を持った怪人は若い歌姫に恋をして、自身の住むオペラ座の地下に連れ去ってしまう。

「鼻も唇もない爛れた皮膚の怪物は、クリスティーヌと出会ったことにより初めて与えられることを知ったの。それは恋ではなかったのかもしれないけれど――同情だったのかもしれないけれど――彼は憧れていたのよ――人に愛されることに」

 未だ緩やかにオリヴィアの頬を撫で続ける彼の指。そこに自身の指を絡め、視線を上げた。

「ねぇ、あなたもそうなの?」

 その問いかけに、ウィルは少しばかり瞳孔を見開いた。それからゆっくりと視線を下げ、半分も減った煙草を灰皿に押し付け、口角を上げた。

「さぁな」

 煙草の味は好きではないと言ったはずだ。彼女の記憶が正しければ、ほんの数分前、つい先ほど。それを甘んじて受け入れてしまうのは結局のところ、惚れた弱みというやつだろう。

 触れるだけの口づけを繰り返しながら思い出す。天使と悪魔。天使の歌声を持った恐ろしい怪人は、地獄の業火に焼かれながら、それでも天国に憧れる。

 ウィルの瞳に映る自分の姿。それはまるで、実際に炎に焼かれているようにも見えた。すべての罪を償うように、神に許しを請うかのように。

「――ねぇ、あなたは悪魔なの――? それとも――」

 オリヴィアの問いかけはウィルにあっさりと封じられた。かさついた唇からは想像もできないくらいに優しい愛撫に、暫しの間夢中になる。冬の寒さと反比例するかのように熱を持ち始めた脳内で、どこか冷静に考える。

(例えもし、行きつく先が天国でないとしても)

 触れてしまったのなら離れられない。

 すべて焼き尽くされるしか、道はないのだ。









fin.


2016.12.03 執筆

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