エピローグ

 馬の声と新緑の香りが混じる朝の空気は、市場とよく似あっていると感じていた。

 市場の朝は早い。日の出と共に店先に果実が並べられ、子供が学校を行く時間を過ぎれば買い物籠を持った主婦たちが挙って野菜を品定めしていた。

 そんな市場からも離れた場所。馬小屋の隣に、それはあった。

 広げられていたのは茣蓙であった。そして十字架。キラキラと太陽の光を反射するそれは、美しいことこの上ない。

 そしてそれを挟み、対峙するのが二人の男――

「頼むよナーナス! この間売ってもらったペンダント、火事の一件で割れて駄目になってしまったんだ!」

 真っ白なローブが汚れることなど気にもせず、地べたに直接座り込み五体投地をしているのは金髪の青年であった。

「そんなこと言ってもなぁ。お前、この間俺が貸した金だってまだ返してくれてないだろ」

 対するのは、子供と思い違えるほどに小柄な男。潔癖とも言えるような白で身を包んだ青年とは対照的に、いつ洗ったのかわからないような薄汚れた灰色のマントで全身を覆い、フードまですっぽりかぶっている。手のほかに唯一露出しているのが尖ったしわくちゃの鼻の先という、奇妙な特徴を持っていた。

 青年はばすばすと地面に額を叩き付けるかのように土下座を繰り返すと、

「頼む! なんとかしてくれ! この間の金は必ず返すから!」

「でも、たった1500モールも払えないとか相当貧困してねぇか?」

「この間の火事の原因は僕が儀式で使った蝋燭の火の不始末が原因だって! 賠償金を払わないといけないんだ!」

「神学校も卒業してないようなやつが独学だけでエクソシスト名乗るのって、やっぱり限界があるんじゃないのか?」

「途中までいいところに行ってたんだ! それをあいつが――あのエクソシストが邪魔するから――」

「そのエクソシストって黒髪にサングラスを掛けた男か?」

「そう! あいつが邪魔するから――えっ?」

 地べたに擦り付けていた頭を上げ振り向くと、そこにいたのは黒髪にサングラスを掛けた男だった。そしてオリヴィア。買い物籠を持ち、苦虫を噛み潰したような表情でこちらを見ていた。

 思わぬ人間の登場に声を失っているシャルルのことなど気にもせず、ウィルはずかずかと歩幅広めで彼の隣までやってきた。ひょい、と腰を屈め、茣蓙の上にある十字架のペンダントを見定める。うちの一つを手に取り、ひっくり返して呟いた。

「……『土産屋本店』……これ、本社はホークウッドにあるんだな。初めて知ったわ、俺」

「は……はは……」

 サングラス越しに半眼で見つめられ、乾いた笑いを漏らす、シャルル。

 摘まんだ十字架を見せつけるかのように揺らし、ぺちぺちとシャルルの頬に当てる。それからそれを茣蓙に戻し、小男――ナーナスに声を掛けた。

「おい」

「なんだ」

「お前も懲りないやつだなぁ。商店街が駄目になったから、今度は市場でやり始めたんだろ」

「うるさい。これでも、隣町では結構売れてたんだぞ。お前のせいで商売上がったりだ、クソ坊主」

 体が小さいだけで、不機嫌な表情で腕を組み足をトントンと鳴らす仕草は完全に中年男性のそれだ。

 ウィルはナーナスのそんな仕草をひどく冷めた表情で眺めると、ぱっと立ち上がり明後日の方向を向いて、叫んだ。

「みなさーん。ここにいる小さいおっさんは、ただの玩具を本物の十字架だと偽って高額で売りつけようとしている詐欺師なので気をつけてくださいー」

「お前!」

 早朝の静かな町の一角だ、ウィルの声などあっという間に響き渡る。登校中の学生、ゴミ出し中の主婦、散歩中の老人たち。彼らは一斉に顔を顰め、小声で口々にしゃべりだした。

「いやぁね、詐欺師だって」

「こわいわー」

「ばあさんに気を付けるように言っておかないとのう」

「きもちわるっ」

 目を合わせることは決してなくけれどちらちらとこちらを見ながら足早に去っていく人々。ナーナスとシャルルは彼らの背中が見えなくなるまで見送って、叫んだ。

「このクソエクソシストが!」

「僕の借金払いやがれグラサン野郎!」

 両手の拳を握りしめ地面を殴るシャルルの肩に触れる、誰かの感触。振り返るとそこにいたのは、満面の笑みを浮かべたオリヴィアだった。

「オリヴィアさんっ……」

「シャルルさん、火事の賠償金一千万モール、頑張って働いて返してくださいね」

 途端真っ白になるシャルルにもう一度にこりと笑みを返し、オリヴィアはさっとスカートを翻した。

 風に揺れる栗色の三つ編みが行きついたのはウィルの隣。新鮮なリンゴを手に取りあれやこれやと悩む彼に、オリヴィアは言った。

「少し言い過ぎたかしら?」

「んなことねぇだろ。あいつが呪文間違えていたせいでウコバクなんつう下級悪魔呼び出しちまったんだから。少しくらいお灸据えておいたほうがいいだろ?……おばさん、リンゴとバナナ、あと玉ねぎを2個ずつ」

「どういうこと?」

 全部で600モールね! という豪快な声に財布から小銭を取り出すオリヴィアに、ウィルは小さく首を傾げた。

「あいつが言ってたのはな、降霊呪文でもなんでもなく、悪魔を呼び出すときに使う召喚呪文なんだよ」

 それに激高したのがオリヴィアである。差し出された釣銭をまともに受け取ることもせず、声を張らす。

「なにそれ!」

「怒るなよ。ウコバクについては元々家についていたものだ――まぁそれが表面化したのはシャルルの儀式によるものが大きいかもしれないけどな」

 ウコバクは元々ベルゼブブの配下にある下級悪魔だ。

 本来は地獄の釜の火が絶えぬよう油を注ぎ続けることを命じられているはずなのだが、何の因果か、悪魔狩り時代に魔術師ヘクターに呼び出された。本来はそれほど大きな力はないはずなのだが、人々の悲しみや憎しみ、魂を喰い続け、あれほどの大きさになってしまっただろう。

 その見解に、オリヴィアは一時固まったあと財布を握りしめたままわなわなと両手を戦慄かせた。

「……一千万モールじゃ全然少なかったわ。一億モールくらい請求してもよかったわね」

「お前のそういうとこ、本当に商才あると思うぜ」

「お褒めに預かり光栄だわ」

 釣銭と共に新鮮な果実を受け取って、買い物籠に詰めていく。

「それにしてもルマンドもドジだよなぁ。今日仕入れ業者が休みだっていうのに材料足りなくなるなんて」

「仕方がないでしょう。昨日の夜、急な宴会が入っちゃったんだから」

「業者休みだってわかってんだったら、前日余計に仕入れとけっつーんだよ。大体、俺まで一緒に来ないと行けないんだよ」

「どうせ暇なんだからいいでしょう。はいこれ、籠持ってね」

 どん、と大量の野菜が入った籠を押し付けられ、困惑する。

 対するオリヴィアはふんふんと機嫌よく鼻歌を歌いながら買い物メモを眺めている。そんな彼女の横顔を見て、ウィルは言った。

「お前、いいのかよ」

「買い物は嫌いじゃないの」

「違うよ。エマリエル家の令嬢がこんなところで野菜買ってていいのかって、そういう話」

 その問いかけに、オリヴィアは、ああ、と頷いた。

「いいの。家が壊れちゃったから父さんもポーレットもクラブトゥールにある別荘にいるわ」

「別荘があるのか……」

「クラブトゥールはいいところだけど、ずっと住めるようなところではないわ。長いお休みに観光で行くからいいところなの」

「だからお前は、こんなド田舎にあるレストランの二階テナント部分なんかに住み始めたのか」

「この街に住む人はみんなとてもいい人達よ。ホークウッドはとても都会的だったけど、密な付き合いは決してなかったもの。お母さん、お米を五キロお願いします」

 ズン、と肩に伸し掛かった米袋の重みを噛みしめるかのように、ウィルはひどくげっそりとした表情を作った。

「難儀なもんだな、金持ちも」

「そうかしら。でも、いいものよ」

「こんな、高いビルのない田舎町がか?」

「あなた口が悪すぎるわ……一人で暮らすということよ。私、ずっと実家で父や姉と、ポーレットとか、使用人の誰かがいる家で育ってきたから」

「よく許可してくれたな、あの過保護な父親と乳母が」

「子供はいつか離れていくものなのよ……あとは小麦粉を二十五キロ買って、それで終わりよ」

「重いものばかりじゃねぇか……」

「早く帰りましょう。今日、プリンセス・トルタにプリンを作ってあげる約束をしているの」

「あいつぬいぐるみだろ」

「ぬいぐるみでも食べれるのよ。知らなかったの?」

 さも驚いたように瞳孔を開くオリヴィアに、ウィルは黙って首を振った。

 八つ当たりするかのように籠を大きく揺らしながら、ウィルはゆっくりと空を見上げた。雲の一つもない青い空は果てしなく美しく、どこまでもどこまでも広がっていた。その壮大さを噛みしめるべく目を閉じれば、どしんと肩に乗せられた小麦粉で現実に引き戻された。気が付けばオリヴィアもまたパンパンに膨れた紙袋を抱えていて、いつの間にやらそんなに大量に買い込んだのか思わず頭を抱えてしまう。

「そうだ。ねぇ、わたし、ひとつ言い忘れていたんだけど」

「あぁ?」

「わたし、あなたと暮らすというのも、そんなに悪くはないと思っているのよ」

 そういってにんまりと微笑む彼女は、まるで悪戯な子供のようにも見えた。

 サングラスが半分ずれたウィルが呆けているうちに、微笑んだままのオリヴィアはさっさと先に行ってしまう。

 ウィルは小麦粉と米袋を抱え直すと、小走りでオリヴィアを追いかけた。

「おい、待てよ」

「いやよ」

「待てって」

「待たないわ」

「待てよ」

「だってわたし、まだ朝ご飯食べていないんだもの」

「俺だって食ってねぇよ」

 オリヴィアに追いついて数メートル先を見ると、見慣れた店の看板が見えた。「レストラングアマンド」と書かれた立て看板の裏、窓の向こう、店の中から、真っ白でふわふわとした長い耳が覗いている。心配でずっと待っていたのだろう。オリヴィアの姿を見た瞬間、萎れていたものがぴんと立って嬉しそうにゆらゆら揺れ始めたのだから、本当にわかりやすいものだ。

 隣を歩くオリヴィアはひどく機嫌がよさそうで、呑気に鼻歌なんてものを歌っている。まるで天使の歌声だ――もしくは悪魔の囁きだった。いや、もしかして、自分が考えすぎているのかもしれないが。などと思っているうちに店との距離はどんどん縮み、もう目と鼻の先まで近づいていた。

 窓の向こうに見える白い耳がぴょんぴょんと落ち着きなく動いている。もしかして、扉を開けた瞬間に白いウサギのぬいぐるみが鳩尾を狙って飛んでくるかもしれない。

 そんな予想をしつつまた対策を取るために、ウィルは大きく息を吸い、店の扉に手を掛けた。




 


fin.




2016.8.15 完結






参考URL


キャラ名とかハンドルネームとか考えるのに参考になりそうなサイト (http://name-site.net/)

みんなで作るネーミング辞典(http://naming-dic.com/)

悪魔辞典(https://matome.naver.jp/odai/2133491299797615501)

古典ラテン語(http://incunabula.sonnabakana.com/ratinapage.html)

ウィキペディア(https://ja.wikipedia.org/wiki/ウコバク)

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