第24話
幼いころから体だけは人一倍丈夫だったせいだろう、病院のベッドで目覚めるのは初めてだった。
腕につけられている点滴も、包帯も、絆創膏も火傷の跡も、自分はいつだってベッドの横から心配そうに見ているだけの係だった。
視線だけ動かせば、サイドデスクの上に焦げた白ウサギと頭だけになった小熊が座っているのが見えた。そしてウィル。自分と同じよう、様々なところに包帯やら絆創膏やらを張り付けたウィルが椅子に座り、こっくりこっくりと船を漕いでいる。元々来ていたジャケットが焼けたからだろうか、病院の寝間着を着ているのだが、これが恐ろしく似合っていない。
「……ねぇ、起きているんでしょう?」
オリヴィアの問いかけに、ウィルがゆっくりと片目を開けた。
「気が付いてたのか」
「わかるわよ。……ねぇ、サングラス取ったら?」
「なんで」
「寝間着にサングラスなんておかしいわ」
「無理やり着せられたんだよ。いいっつうのに、検査入院だって言われて……」
あからさまに嫌そうにして自分の恰好を見下ろすウィルに、オリヴィアは目じりを下げた。
「他のみんなは?」
「面会時間は過ぎたからな。みんな帰った」
「今何時?」
「21時」
「夕ご飯は?」
「もう食った。腹減ったか?」
「いいえ。まだ平気」
「そうか」
「ええ」
余分なもののない、真っ白な部屋。胸元から伸びる心電図が音を立てている。それが心臓のリズムと一つになり、溶けた。
「ねぇ」
「あ?」
「……どうして、あそこでこれたの?」
枕に後頭部をつけたまま顔の動きだけで横を見て、問いかける。ウィルはなんとも居心地悪そうに足を組み、口を開いた。
「契約だよ」
「契約?」
「そう。この間、駅で別れるときにしただろ。あれが契約」
彼は意味もなくサングラスを外し目を擦り、顔を顰めた。
「俺は悪魔憑きだからな。俺とお前が契約したことにより、お前は俺を一時的に呼び出せるようになってたんだ」
「で、でもなんであのときだけ都合よく」
「名前呼べって言っただろ。召喚の儀っていうのは降霊とは違うから、ちゃんと名前を呼ばないと出てこれねぇんだよ。そんで」
ウィルは、サイドデスクの上で心地よさそうに目を閉じていたプリンセス・トルタの耳をひっ掴んだ。
「みゃっ!」
「こいつとラミントンが媒介。双子っていうのは二人で一つだからな。これがあるのとないのじゃ、召喚の成功レベルが全然ちげぇんだよ」
「やめてよ!」
焦げて燃えカス塗れになったウサギの耳を散々引っ張りねじり遊んだあと、乱暴に小熊の隣に戻した。ラミントン。首だけになってしまった、哀れな小熊。
オリヴィアは天井を向いたまま目を閉じて、思い出した。恐ろしく巨大な悪魔の姿。焼けて、崩れ落ちる家。そして声。
「……お姉ちゃんの声を聞いたの」
ゆっくりと目を開けて、確信する。
「あの時、火に囲まれて……もう無理、死んじゃう、って思ったときに……お姉ちゃんが来てくれたの。こっちに来て、諦めないでって。ちゃんと生きて、幸せになって、って……私を守ってくれていたの。確証はできないけど――そうよ、きっと、そうなの。だってあの時、私を守ってくれたのは……間違いなくお姉ちゃんで、この子だったんだもの」
サイドデスクにて、プリンセス・トルタと並んで置かれているラミントンは動かない。手も足も胴さえもない。首だけだ。恐らくはもう、動くことはないだろう。きっと、永遠に。
「……お姉ちゃんは、悪魔に食べられちゃったの……?」
絶望を確信するかのような問いかけに、ウィルは軽く睫毛を伏せた。
「……喰われてはいねえだろうな。恐らく――寸でのところでこいつが助けてくれたんだよ」
絆創膏と包帯に塗れたウィルの右手が、涙目のプリンセス・トルタに抱えられているラミントンの頭を撫でた。
「人形っていうのは元々、【身代わり】の意味で作られてるものなんだよ。悪霊を防いだりとか、もしくは死んだ子供の身代わりだったりとか……お前らが生まれたときに購入されたものならつまり――」
ウィルはそこで息を飲み、そして続けた。
「……ラミントンは、ウコバクに喰われる代わりにお前の姉ちゃんを守ったんだ。それこそ、自分の体を身代わりにしてな」
ウィルは、頭だけになってしまった小熊を手に取り、ボール遊びでもするかのように手中で投げた。それを数回繰り返し、オリヴィアの隣に、ぽん、と沈めた。
「エドガーのところに持って行って清めてもらえよ。下手なエクソシストに頼むより、ずっといいだろ」
“下手なエクソシスト”――その中に、自分も入っているということなのだろうか。皮肉の効いた提案に、思わずオリヴィアは噴出した。それから、ゆっくりと頬ずりをし、瞳を閉じた。
「ええ、そうするわ」
昔から感じていたことだが、病室というものはいつだって潔癖なほどに美しく、白く、余計なものが存在しない。正しく時を刻む壁掛け時計も心電図も、点滴のリズムでさえも、すべてがすべて、計算しつくされた美しさのような気がしていた。
「ねぇ」
「あ?」
「悪魔喰い、って……」
今思い出したというような口調のオリヴィアに、ウィルは小さく息を吐いた。
「俺は悪魔憑きだ。悪魔に憑かれた人間は、憑かれて数か月以内に大体死ぬ。残りは精神病棟行きだ。寿命まで生きた記録は殆どない――その、殆どない一例が、俺だ」
「……」
「奇跡的に生還をした俺は、魂の半分を悪魔に喰われた状態になっている。悪魔憑きは悪魔を喰わねば生きていけない。悪魔に喰われ、悪魔を喰わねば生きていくことのできない俺は神の意思に反している」
アルビオンから追放された――否、入門することすら許されない、異端のエクソシスト。胸元に光る逆十字は贖罪の証だ。一生下ろすことのできない、重い罪。このサングラスの下、彼は永遠に背負い続けるのだ。死ぬまで、もしや、死んだとしても。
「軽蔑したか?」
諦めているかのような、疲れ切ったかのようなその微笑みに、オリヴィアは、はっ、と呼吸を止めた。あまりにも儚くて、寂しくて、可哀想で――まるで小さな子供にも見えた。
彼はもう、十何年も、ずっとそんな思いをしてきている。
「……そんなことないわ」
例え、誰がなんと言おうと。世界が敵に回ろうと。
「私は今、あなたのことがとても大切に思っているわ。見たこともないあなたのご両親より、ルマンドさんよりも――もしかして、コルネリウス先生にも負けない自信があるわ」
サングラスの下、彼がどのような表情をしているのかわからない。一瞬見せた儚さも寂しさも、もう、すべて隠れてしまった。
離れてしまった二人の間を、ちくたくという時計の音が通り過ぎていく。早くなることはなく、けれど決して遅くなることはなく、イライラするほど正確に、一定のリズムで。
時計の針が数週目を迎えるころ、ふいにウィルが立ち上がった。
「どうしたの?」
「煙草吸ってくる」
真顔で告げられたその言葉に、オリヴィアは思わず顔を顰めた。
「体に悪いわ」
「別にいいだろ。第一、もうすぐ看護師が来る」
まるで悪戯をしようとしているところを咎められた子供のような表情をするウィルに、神に背いている気配は感じられない。彼は一度外に踏み出、顔だけこちらに覗かせた。
「そういえばお前、どうするの?」
「どうするって、何が?」
それは素朴な質問だった。何を、どういう風に、どうやって。彼の問いかけには、主語がまったくなかったのだから。
「いや、だからさ」
彼はぽりぽりと意味もなく頬をかき、ひどく言いづらそうに続けた。
「お前んち燃えちゃっただろ。住む場所とか、どうするんだよ」
その問いかけに、オリヴィアはぱちぱちと瞬きをした。その動作だけで察したのだろう、彼は足を組み首を傾げると
「そんな焦ることはないだろ。金持ちなんだから色々方法はあるだろうし――ゆっくりと考えれば」
言うが早いか、彼は颯爽と踵を返すとひどく軽やかな動作で病室を出て行った。それこそ、何か後ろめたいことがあるのだろうかというくらい。彼が去ったあとに残されたものは足音と、小さな不安。心配そうにこちらを覗き込んでくるプリンセス・トルタの頬を撫で、布団の中に招き入れた。サイドデスクに輝く何かを見つけて、プリンセス・トルタに取ってくるように促した。
「……やだ」
置き去りにされた十字架は、あの炎の中を懸命に生きて鈍い光を放っていた。
「馬鹿ね……こんな大事なもの忘れて……失くしたらどうするのよ」
手に取り、まじまじと眺める。じっくりと見ないとわからないほど小さな傷。落としたような跡。螺子を力任せに引っこ抜いたような穴と、対極にある無理やりねじ込んだような跡に笑ってしまう。容易に想像がつく――それくらいのこと、彼は簡単にやりそうだ。
「……どうしようかしらね」
ベッドの中、白ウサギのぬくもりを感じながらそう呟く彼女には実のところ――
もう、大部分が決まっていた。
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