第23話
姉の部屋は殆ど炎に包まれていた。
煙に巻かれ自身もいつ火達磨になるかわからない中で、想像以上の光景に呆然とする。
その部屋の中心に、彼はいた。
「ウィリアムっ……」
悪魔と退治をする彼は、今にも炎に焼けそうになっているオリヴィアに気づかない。口元にうっすらと笑みを浮かべ、悪魔のことを見つめていた。
「なぁ、そろそろ教えてくれてもいいだろ? もう、みんな、屋敷の外に出て行ったぜ?」
『ここは俺の場所だ。とある人間に呼び出され、住み着いた』
「そいつは死んだ。もう、百年も昔のことだ」
『百年など星の瞬きに等しい。折角新しい体を見つけたところを邪魔しおって……お前も、あの小熊も……全くもって忌々しい』
「残念だな。生憎、お前みたいな毛むくじゃらな男はタイプじゃないみたいだぜ。あいつも、あいつの姉貴もな」
ひょいと肩を竦めた彼の体の真後ろに、天井がばらばらと落下した。もう数センチずれていたら、彼は火達磨になっていただろう。悪魔の怒りが偶然か――炎の中に存在する悪魔の背中が、ごわっ――と大きく盛り上がった。
『……口の減らない人間が……なら……お前の魂ごと喰うまでよ!』
ぶちぶちと引きちぎれるような音を立てながら血管が膨張する。ずるん――と皮膚が破れ、体液と共に触手のようなものが飛び出てきた。裂けた皮膚が集まり再生し、模様を作る。いや、違う。模様ではない――あれは人だ。悪魔に魅入られ、理性を失い食い尽くされた、人であることをやめてしまった苦悶に満ちた魂だ。
『ここはとても居心地がいい! 妬み! 憎しみ! 悲しみ! 苦しみ! その感情のなんとも甘美なことよ! もう少しであの娘の魂が喰えたというのに邪魔しおって! お前を喰う! お前も、あいつも、逃げ出したやつらも一人残らず食い尽くしてやる! 祓魔師だろうが、なんだろうが関係ない! 肉も骨も、髪の毛一本残さず食い尽くし、我の一部にしてくれよう!』
あまりにも残酷な光景に、オリヴィアは両手で口を覆った。悪魔とは、なんとも醜いものだろう! 自分は、姉は、この家は、かつてこの家に住んでいたはずの住人は、こんなにも恐ろしい魔物に魅入られてしまっていたのか!
『我は魔王だ! 煉獄より遣わされた地獄の王! もうお前に先はない! 我に食われ、消化され、我と一つの肉体になる!』
ぬるりという体液を帯びた触手が四方八方動き回り、部屋を破壊する――壁が壊れ、窓ガラスが粉々に砕け散り、役目を失くす。突き破られた天井は雹のように降り注いだ。まるで世界の終わりのようであるとさえ感じた。
「きゃあっ!」
突然の爆発に吹き飛ばされたオリヴィアが行きついたのは、ウィルのブーツの踵であった。恐らく炎がガスか何かに引火をしたのだろう――頭を上げた先にあったのは、呆れたようなウィルの顔。ウィルはひどく何かを言いたそうにしていたのだが、それは地獄の呼び声によって拒まれた。
『我の血となり肉となる幸福なお前に、我の名前を教えてやろう! 我はウコバク! 煉獄の王ウコバクなる!』
ウコバクから飛び出た触手が一つになり、巨大な塊となる。炎を纏いつつこちらに飛んでくるそれは純粋なる凶器だ。まさに煉獄の王に相応しい――混乱をしているのにどこか頭の一部は冷静で、そんな場違いなことを思う余裕すら存在していた。待ち受けるのは間違いのない死であった。オリヴィアは、今日幾度目かの死を覚悟した。
が、それはあっけなく覆される。
ウコバクの触手がウィルの体を貫くよりも早く、二人の体を“黒い何か”が包み込んだ。オリヴィアにはまるで羽のようにも見えた――羽ではないとわかったのは、数秒ばかりすぎてからだ。ウィルの足元から伸びる影がウコバクの触手を跳ね返したのだ。
『なっ……!?』
ここで漸く、ウコバクが狼狽えるかのような動きを見せた。跳ね返されたことにより集合体となっていた触手がばらけ、舞った。
「……昔々、あるところに一人の少年がいました」
ウィルの足元に伸びる影。炎の広がりと共に大きくなり、形を変える。角が生え翼が出来き、膨張し、ウィルの身長の二倍ほどの大きさになったその影は床を離れ、彼の背中にぴったりと寄り添った。
「その少年には大切な大切な願い事がありました。けれどその願いを叶えるには、少年はあまりにも無力でした。それと同時に無知ですらあった少年は、とある悪魔に魂を売ってしまうのです」
サングラスを外したウィルの瞳。赤い炎の中真っ赤に焼けて、それこそまるで、地獄の業火そのものだ――灼熱の舞台の中心にいる彼の唇から漏れる言葉は、まごうことなき物語であり、迷える魂たちに向けられた鎮魂歌ですらあった。
「魂の半分を悪魔に喰われてしまった少年は気が付きます。自分の体に何かしら変化が起こっていること。もう一人の自分が、ひどい空腹を訴えているということを」
その影は二本の角を持ち、黒いマントを羽織っていた。背中からは光沢のある闇色の翼が生え、巨大な鎌を構えている。その、凍えるほどに美しい刃がウィルの首元にそっと触れ、痕を付けた。
「暴食王ベルゼブブ――」
「どれほどの空腹でどれほどの食事を摂っても、一向に腹が膨れることはありません――そりゃあ当たり前でしょう。空腹なのは、少年ではないのですから。そして彼は知るのです。 “喰わせればいい”ということに。悪魔に喰われ、悪魔を喰い生き続ける少年のことを人々はこう呼んだのです。“悪魔喰い”と」
銀の刃先がウコバクの尾を切り裂いたのは一瞬だった。それと同時に起こる、悲鳴――刹那、ウィルの肩に寄り添うようにしていた黒い影が膨張し、破裂するかのように飛散した。
「俺は今、腹減ってるんだよ」
無数の霧のように形を変えたその影は――霧ではない――小さな虫の集団であった――まるで巨大な津波のようにウコバクに覆いかぶさった。
『ギャアアァアァ!』
いくつも重なり合ったような断末魔の悲鳴は、今までウコバクに食い荒らされてきた者たちのものだったのだろうか。
触手に尻尾、爪の先の隅々まで虫の集団に覆われたウコバクの体から、メキャ、ゴキッ、ずるりという、普通に生きていたら絶対に聞くことのないであろう音が聞こえている。骨を砕くような血を啜るような、肉を割り食うような、不穏な音だ。それは暫しの間、逃げ場を探すようにしてもぞもぞと動いていたのだけれど、突如生命活動を停止した。
怯えるオリヴィアを背中に張り付けたまま、ウィルはひどく冷めた表情でそれを見下ろしていたのだが、かつて悪魔であったその塊が全く動かなくなったことで興味を失くしたらしい。
「……所詮は地獄の釜の管理人のくせに……油ほっぽっといてこんなとこにいるからこうなるんだよ、アホか……」
はぁ、とため息を一つ吐き、右手に持っていたサングラスを掛け直した。そして、未だ背中に張り付いているオリヴィアに声をかける。
「おい、行くぞ……このままじゃ俺たちも焼け死ぬ」
「ええ……あっ、ちょっと待って」
「あぁ?」
迫りくる炎の中、ぱたぱたとオリヴィアが駆けだした方向を見やる。倒れた椅子と机の影。そこに、ウサギの耳のようなものがぴょんと飛び出している。
オリヴィアはプリンセス・トルタを抱き上げ、ぺたぺたと頬を叩いた。
「プリンセス・トルタ。大丈夫?」
オリヴィアの声に、黒ずんだ白兎が目を開けた。
「オリヴィア……」
「よかった。無事だったのね。ごめんなさい、気が付かなくて」
「いいの……ねぇ、これ」
そっ、とプリンセス・トルタが差し出したのは、ラミントンの頭部であった。胴は引き裂かれ手足が捥がれ、五体ばらばらになってしまったラミントン。
「ごめんなさい。どうしても頭だけしか守れなかったの」
今にも泣きそうな形相で耳を垂らすラミントンを、オリヴィアはぎゅうと抱きしめた。
「おい! 早くしろ! 死にたいのか!」
ウィルの叱咤に、オリヴィアは慌てて立ち上がった。二つのぬいぐるみを抱えたまま、部屋を出た。瞬間、背後から聞こえた爆発音に背中が震えた。前が見えない――四方八方、全てをすべて炎に囲まれ煙に撒かれ、身動き一つままならない。
ウサギとクマを抱えウィルのジャケットを掴んだまま、勘を頼りに階段を下りる。屋敷の広さを苦痛に思ったことは初めてだ――もっと狭かったのならば、こんな苦労せずにあっという間に家の外に出ることができただろうに。
「くそっ! ここで立ち往生かよ!」
ウィルが出した苦し紛れの咆哮。オリヴィアは口元でハンカチを押えて、彼のジャケットを握る手を強めた。
終わりなのか。ここで、こんなところで。姉に救ってもらった命を、守ってもらったはずの命を、こんなところで失くしてしまうのか。
体が熱い。煙が肺の奥まで入り込んでいる。喉が痛い。涙が出てきた。辛い。苦しい。熱い。死ぬのか? 嫌だ、死にたくない。まだ、こんなところでは死にたくない。
死にたくなんてないんだ――
≪……諦めないで≫
不意にどこからか声が聞こえ――
オリヴィアは目を開いた。
≪……こっちに道があるわ……≫
突然頭を上げて明後日の方向を凝視し始めたオリヴィアに、涙目のウィルが訝しげな表情を向ける。彼が何か言っている。けれど、家が焼ける音に掻き消され、それ以上に自分の名前を呼ぶ声が気になって仕方がなかった。
誰かに腕を引っ張られたように後ろを振り向いた。瞬間、二人を招くかのようにして炎が避け、道ができる。口を開いたまま金魚のような表情で固まっているウィルのジャケットを引きながら、声の方向へ歩いていく。
≪大丈夫……あなたは死なないわ……≫
今にも焼け落ちてしまいそうな一角に、穴を見つけた。階段である。ウィルがこの家に来た日の夜、偶然見つけた地下室へ続く階段が、ここにある。
≪私の力もあまり持たない……お願い、頑張って……≫
「ウィル! ここから外に出れるわ!」
「でかしたぞオリヴィア!」
階段を下りた刹那、二人がいた場所を真っ赤な炎が包み込んだ。室内に充満する『かつて人間だった者達』の無念に耐えながら、先を行くウィルのジャケットと右手に触れる石の壁を頼りに外を目指す。
≪生きてオリヴィア……私の分も……あなたは私、私はあなた。ずっと一緒だったんですもの。昔も、今も、これからも――忘れないで……あなたは一人ではないということを……私がいたということを……≫
どこが前か後かわからぬかのような暗闇の中、現れた白い点。それは徐々に大きくなり、まるで手を差し伸べるかのように導いた。
≪愛してるわ。幸せになって――≫
扉を開けた先、走り寄ってくるフリッツとポーレットが見えた。乱暴に力任せに引っ張られ、外に出る。彼女はそこで、自分が到着した場所が外に設置されたダストシュートだったということに気が付いた。
意識が落ちる瞬間に見ていたのは星空だった。煌く星。天に昇る黒い煙。崩れる家。その中にただ一人佇む彼女を見たのは、恐らくオリヴィアだけだっただろう。
(……お姉ちゃん……)
崩れ落ちる屋敷の中、炎の中心で、シルヴィアは立っていた。ピンク色のブラウスと青いロングスカートは彼女のお気に入りだった。柔らかな笑みも美しい髪もそのままにして。
家が崩れていく。百年以上の時を刻んでいた屋敷が、忌まわしい過去と、沢山の思い出を抱え、人の憎しみや悲しみを浄化し、燃えていく。
自分を抱きしめる父親の腕の中、彼女は見た。歴史が終る瞬間を。彼女は知った。すべてが本当に、終わってしまったということを。
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