第2話

ラズベリームーン。

人生で愛するのは一度きりでいい。




地上に降り人間の姿をした

神の補佐役・ガイル。

愛の色に月を染めるために。


風には精霊が宿り鳥と共にガイルにとってのガイドである。

木や草も同じように。


風に導かれガイルは都市の煌びやかさと喧騒の裏側にちょうど位置した古びたアパルトマンを見つけた。

蔦が年月をかけて黄土色の壁に

飾りのように下がる。緑色の葉は

時折、光を帯びて。

鳥は飛び交い、ガイルにこの

アパルトマンに月を染める愛の色

を持つ存在がいる、とさえずりで

合図する。


ガイルは一階の窓辺を除き込んだ。

カーテンを開け陽の輝きをいっぱい

に取り込んだその部屋のベッドの

上で赤いセーターを着た小さな犬がまるくなって眠っていた。

茶色い小さな犬。その穏やかな寝息、

そして見守るように青いベールを纏った聖母マリアの絵画とりんごと松ぼっくりとてっぺんに金色の星で飾った

クリスマスツリーが見える。

この部屋の主の、ささやかな心が

見えるようでガイルは静かに微笑んだ。

すると、声がした。


「覗かないでちょうだい。」

それはベッドの上で眠る小さな犬だった。

彼女は眠ったふりをして横目で

ガイルを見ている。


「これはこれは、失礼を。」


ガイルは言った。


「私を迎えに来たの?」


小さな犬はとても年老いていた。


ガイルは優しく笑った。

「近くに寄っても?」


ガイルの言葉に小さな犬は

白内障で濁った瞳をいっぱいに

見開き、頷いた。


「補佐役さん、私こそ

失礼な言い方をして。」


ガイルは感じた、

この小さな犬は淑女である、と。

ガイルは部屋に入りベッドに静かに座った。

小さな犬はガイルを見上げたが

もう目にはほぼ映らなかった。


「あなたを迎えに来たのでは

ないよ。あなたにはまだ、

やらなければならないことが

あるようだね。私が良ければ

手を貸したい。」


小さな犬は一瞬、目を反らし考えて

それからもう殆ど映らない瞳で

ガイルを見た。

「ママを幸せにしなきゃ。

私が召されたらママはひとりだから。」


ガイルは静かに目を閉じた。

出口を探す孤独という幻想が

絡まるようにして悲しみをもたらす。

しかし、その悲しみはやがて

孤独という幻想の美しい花を咲かす。


「ママはね。詩人なの。

私はこの部屋でね、ママが

目の奥の遠い深い世界を想い

ながら言葉を紡ぐ姿が大好き。

みんなに自慢したいの、私のママ

素敵でしょ、って。」


ガイルは小さな犬の主への愛を

柔らかく温かいエネルギーを

感じた。


「素敵なママだね。」


ガイルの慈悲深さに小さな犬は

泣きそうになった。


「素敵なひとはしあわせになる

権利があるのよね?そうでしょ、

補佐役さん。」


「そうだよ。

素敵なひとはね。みんな、

素敵だからみんなに平等に愛を

受け取る権利があり、そして

愛を与えることが出来る。」


「そうよ。補佐役さんの言う

通りなのに。ママは受け取らないの。自分には資格がないって。お金もないし若くもない家族もいない。しがない売れない詩人の自分なんか、って思ってる。」


小さな犬は一生懸命に愛する主人の

ことを語る。ガイルはその姿が

切なくて、たまらなかった。


「あなたは少し眠った方がいい。」

ガイルは小さな犬の頭を撫でた。

柔らかい毛から陽だまりの匂いが

する。


「そうね、私、すぐ疲れちゃうから。

補佐役さん、眠りながら私を連れて

行かないでね、もう少し、まだ‥」


小さな犬は暖かいベッドの上で

いつものように眠りについた。

愛する主人を待ちながら。

いつものように。


ガイルが小さな犬の痩せた体を

撫でていると、彼女の最愛の主、

詩人が帰ってきた。


ドアを開け静かな部屋の中を

見るなり


「ルカ、ルカ。」

としずかな声で小さな犬の名前を

呼んだ。

しかし小さな犬は耳が聞こえず、

体も言うことをきかない。

眠る時間が日に日に長くなる。


「ルカ。」


詩人は小さな犬の薄い脾を

撫でながら、涙をこぼした。

あまり残された時間がないことをお互い察してお互いを想い合う。


涙を拭うと詩人は辺りを見回し

深呼吸をした。

感覚に敏感な詩人はガイルの気配

を感じていた。



「きっといらっしゃるのね。

天使さま?

これまで幾度となく私とルカを

慈しんで下さりありがとうございます。」


詩人のイノセントな瞳が

澄んだ泉のように美しい

光を放つ。


ガイルは胸に手を当て、

軽くお辞儀をした。


どういたしまして。

ガイルは詩人に囁いた。

詩人はそれを感じ安心したように

ささやかに微笑んだ。


それから詩人は窓の外を見ると

呟いた。



「お会いしたい。

ずっと会っていないもの。

もう、何も求めない。

ただ、あなたに会えたら。

私にとっては優しいぬくもりを

あなたから浴びて。ただ、

それだけでいい。」


詩人の頬が唇が赤々として

かつて見た、野いちごに口づける

少女のように揺らめきと煌めきが

色を織り、それは秘めたる情熱の

色であることをガイルは知っていた。














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