第14話



 炎に心を焼き尽くされて、僕はこの非道を止められると願った。しかし、一度は収まった衝動は、くすぶった火が枯れ枝の中でまた勢いを増していくように、いつの間にか再び僕を支配していた。

 その日の夕方。僕の懊悩も、死んでいった猫や犬の苦しみもまるで無かったかのように街路樹の木漏れ日は柔らかく道を照らし、人々はささやかな幸せを楽しむように町を歩いていた。僕もその中に混ざり、常のように目的もなく無闇に足を運ばせていた。誰も僕を見ることはなかった。

 ふと気づくと、歩道の向こうからタブレット端末をいじりながら下を向いて歩いてくる若い女が居た。端末の操作に夢中で僕の存在には気づいていない。

 このまま歩けば、この女と正面衝突する。そう察して、僕は避けようとした。

 でも、なぜ避けなければならないのか?

 前方確認を怠ったほうに非があるのは明らかで、ぶつかるそのときに僕が足を止めていれば、結果として自分からぶつかりに行った女が全面的に悪くなる。じゃあ、わざわざ避ける労力を割く必要も無いのではないか。

 そんな荒んだ気持ちで、僕はわざとカバンを探るふりをして体を横にし、じっとしながら女の接近を待った。

 案の定、女は直前で僕に気づいたものの、避けきれずに僕の肘に肩をぶつけ、予め衝撃を覚悟していた僕とは違って、よろめいて尻餅をつき、カバンを落とした。その無様な姿をニヤニヤしながら見る僕に、女は眉間に皺をよせながら罵声を浴びせた。

「邪魔。死ね!」

 そして女はカバンを拾って立ち上がり、コツコツとわざとらしく靴のヒールの部分を響かせながら足早に去っていこうとした。

 それを聞き、また納得のいかない気持ちが僕の中に沸き起こった。ぶつかられた僕だってある意味被害者なのであり、罵声を浴びせられたなら、ますます被害者だ。このまま捨て置く事があっていいものか。世界が平等なら、この女に対して何らかの手痛いしっぺ返しがあっていいものだけど。

「そう、世界は平等なんだよ」

 聞き覚えのある声が頭に響いた。湿った黄土色を連想させるあの声。

「世界は偏りを許さないはずだ。もし偏りがあれば、それこそが不義の象徴だ。だとすれば、俺達一人ひとりが世界の意志となり、それを是正しなければならない。不義を滅ぼすのは、正義だけだ」

 僕の足は、去っていく女をゆっくりと追い始めた。


 女を攫うのはわけのないことだった。

 特に、夜に出歩く習慣のある連中には警戒心という概念が無い。無警戒の後頭部に思いっきり拳を振るえば、人としての尊厳は消え、ただ声も出せずに痛みに震えるだけの有機体に成り下がる。

 それを引きずって車に乗せ、2時間後の僕の家のリビング、猿轡を噛まされて頭と口から血を流しながら恐怖の目を向けるそれを見ながら、僕は雪晶の身に思いを馳せた。

(今頃、あの人は実家で過ごしているのかな)

 芋虫のように縛られてなお、必死に玄関に向かって体を動かすそれの頭を僕は勢い良く上下左右に揺さぶり、ぐったりとおとなしくさせた。

(僕にとって、彼女とは何だったのだろう)

 全身に止めどなく汗をにじませるそれの動物的な臭いとともに、微かな香水の匂いが鼻についた。雪晶が使っていたものと同じだ。僕はなぜだかひどく不愉快な気分なった。

(確かに彼女の飾らない雰囲気や、人を疑わない素直で開かれた心が、僕は好きだった。でも、それだけじゃない)

「本当は誰も傷つけたくなんて無いんだけどなあ」

 思わず僕がそう漏らすと、それは理解できない怪奇を見るような目で僕を見た。無理もない。自分を攫って縛り上げ、監禁している張本人が言うにはあまりに場違いな言葉だからだ。

(彼女の持つ、あの輝くほどの清廉な心の柱に僕は憧れた。彼女の、人に対して心を開くことができるその根源そのものにこそ、僕は強く惹かれたのだ。それは、叔母の固執的な荒涼たる信念や、相沢の独りよがりな湿った情熱とは違う。ましてや信念というものを疑い、心の柱を持てない空っぽの僕などとはまるで違う。彼女は美しく、僕達は醜い。世界は平等ではない、世界は平等ではない)

 もはや抵抗するのにも疲れ果て、ただ恐怖に震えるそれの前にぼんやりと立ち、僕は独り言のように続けた。

「年取った猫を壁に叩きつけたとき、どれだけ僕の心が痛んだか。茶色い犬のあの鉛色の目。僕はそれを思い出すたびに心臓を焼かれるような気持ちになる。でも、これを続けてしまうんだ。何かに背中を押されるようにね」

 トラロープの一端を玄関のドアノブに固定し、ロープをピンと引っ張って伸ばしながら僕はリビングに戻った。そして、弱々しく微笑を浮かべた。

「醜悪なモノは見たくは無いからね」

 それの引きつる顔が最高潮に歪んだ。

 力の限りに暴れるそれの頭を再び思いっきり揺さぶっておとなしくさせ、僕はそれの首にロープを二重に回した。

 僕はそれの体をカーペットの上に横たえ、左足でそれの下腹部を踏み、ロープを引っ張りながら、それの頭から三十センチほどのところを力強く握った。

「君を殺したら」

 それはもう僕を見てはいなかった。ただ空虚な目で、ソファの上の、僕が捨てられなかった雪晶の残した赤いクッションをじっと見つめていた。

 あの香水の香りが再び鼻につく。

「僕は、どれだけの罪の意識に苛まれるんだろうな」

 そして、満身の力でロープを引っ張った。


 また一つ自分に嘘をついた。

 あのときに聞いた声。女に罵声を浴びせられた直後、頭に響いた相沢の声。僕を女の誘拐に突き動かしたものの正体は、決してあの声ではない。

 自らの行動原理を歪めて正視させないために、僕は相沢の価値観を利用した。わざと相沢が言うであろう考えを想起し、それに同調したふりをして奴に自分を重ね合わせ、仮初の正義実行を面目として女を殺害したのだ。

 もし、自らの行動理由を正視すれば……。正視してしまったら、もう僕には破滅しか無いのだから。

 でも、もうごまかせない。ロープを握ったこの手には、女の最期の痙攣の鼓動が刻み込まれてしまった。ロープを離した今もこの手に残るそれは、僕に課せられた破滅の鼓動に他ならない。


 深夜になった。

 僕は幽鬼のようにゆらりと立ち上がり、外に誰も居ないことを警戒しながら女を背負ってアパートの廊下に出て、エレベーターで降り、駐車場に続く通用口の扉を静かに開け、車の後部座席に女を乗せた。そして、部屋に戻ってキャビネットから財布と車の鍵だけを取り、家を出て車を発進させた。

 これからどこに行くのか、何をすればいいのかだけは、不思議とはっきり分かっていた。

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