第13話



 僕は仕事を辞めた。僕にはもう働く動機が全く無くなった。

 加巳や田山から電話・メールが山ほど来たが、すべてを無視した。

 家に閉じこもり、一日の大半を本を読むかテレビを見るかゲームをやって過ごし、ほとんど夜しか外出をしなくなった。精神の腐敗は、不精な僕の性質をますます膨張させ、埃だらけの家は次第に雨の日の山小屋のように湿った雰囲気をまとうようになった。


 夜、駅前の商店街を理由もなくぶらぶら歩いていると、ガラス戸に映る自分の姿が目についた。

 薄茶色のコートを着て、植物のような目をしたそれは、何の哲学もなく、信念もなく、ただ死にたくないから生きている醜い生物だった。

 もし貯蓄が尽きて食うのに困るようになったら、この生物は軽犯罪を犯して捕まり、飯にありつくことを選ぶだろう。こいつが人としての尊厳すら持たない理由は、そもそもこの生物に尊厳を持つべき根拠となる中身が空っぽだからだ。

 ふらつきながら町を歩き、ぶらりとスーパーやコンビニに立ち寄っては食料を買い溜めて家に帰る。そんな日々が何ヶ月続いたかはわからない。


 路地裏に一匹の野良猫が居た。通りがかりにそれを見つけた僕は、気まぐれからそれに近寄った。コンビニで買った唐揚げをつまんだ手をそれに向かって差し出すと、最初はじっと見たまま身じろぎもしなかったが、やがて食欲に負けたかのように恐る恐る足を動かし、無我夢中で唐揚げに噛み付いた。

 自らの生命を維持し、いつか交配することにのみ全神経を注いで日々を過ごす。それが野生動物の心の柱なのだとしたら、空っぽの僕にはそれすらも羨ましく、妬ましかった。現代日本では餓死するなど極稀だ。独居老人や精神障害者が疾患のせいで連絡が取れずに孤独死することはあっても、健康な人間が餓死することはほぼ無い。金が無くなって食うのに困ったら、生活保護を受けるか、刑務所に入れば良いのだから。

 生きるという信念に基づいて行動をする彼らは、それを持つというただ一点のみで僕よりも上の存在になり得るのだ。そう思うと、急にこの猫に対する嫉妬心と憎しみが泉のように湧き出てきた。

 餌に夢中になっている猫を、僕は履いていた作業靴の先で思いっきり蹴っ飛ばした。

 猫は餌を頬張るそのままの姿勢で隣のビルの壁に体を強く打ち付け、しかし器用に反転して着地し、一目散に逃げていった。

 気の毒なことをしたという罪悪感が体を支配し、だがその一方で、何か満たされたような快感が湧き起こった。そして、雪晶という心の柱を失った僕にとって、その快感のみが人生を満足させる唯一の関心事になるのにそう時間はかからなかった。


 次の日、またその次の日も、僕は唐揚げを持って路地裏に走った。そこに野良猫が居る日もあれば、居ない日もあった。しかし、僕は毎日のように餌を手にぶら下げては路地裏に向かった。

 猫に餌をやりながら、隙を見ては蹴飛ばし、殴り、掴んで叩きつけ、逃げ去る姿に体と心を震わせた。そしてある日、年老いて弱った猫を僕は殺した。

 視力が弱った老猫は、目の前の唐揚げ以外は目に入らない様子であった。僕はその胴体を掴んで振り回し、ボール球のように何度も壁に叩きつけた。老猫は抵抗することもできずにされるがままだったが、数回の後、突然胴を震わせんばかりに激しく鳴いた。今思えばあれが断末魔の叫びであり、最後の一絞りの体力の発現だったのだろう。通りの人々にその声を不審がられることを恐れた僕は、黙らせようと力の限り思いっきりそれを壁に叩きつけた。

 どしゃ。

 鈍い音とともに猫の体は壁から剥がれ、吸い込まれるように汚れた地面に落ちた。もはやそれは身じろぎひとつせず、僕は生命の炎の完全なる鎮火を確信した。

 殺戮の瞬間、僕はかつて無いほどの充足感に包まれ、獣のように叫びながら路地裏を出て夜道を走り回った。通りの商店街のシャッターに石を投げてガンガンと鳴らし、電柱を蹴飛ばし、植え込みに小便をした。そして家に帰り、ベッドに横たわりながらブルブルと震え続けた。


 しかし、罪悪に伴う衝撃とはまるで麻薬のようで、僕は野良猫ではもう満足できなくなった。

 次に、僕は犬を殺した。

 某国の犬泥棒の手口に習って、深夜、住宅街の一軒の家の犬小屋で飼われている大型犬に睡眠薬をふりかけた餌を食べさせ、おとなしくなったのを見計らって首輪を切断し、眠ったままのそれを檻に入れ、車に乗せて誘拐した。

 そのまま河川の上流にあるキャンプ場に行き、檻に入った犬を檻ごと草地に運んだ。そして、そいつの目が覚めるまで待った。荒涼たる冬のキャンプ場には一つの動物の影もなく、闇だけが僕と犬の存在を知っていた。

 目が覚めた犬は突然の状況に怯え混乱し、僕に向かってウォンウォンバウバウと威嚇を繰り返した。しかし檻は狭く、強固で、到底逃げようもないと感づいたのか、そいつは弱々しく動揺した鳴き声を漏らすばかりになった。

「ごめんな」

 車から灯油の入った一斗缶を取り出し、僕は詫びながらそれを犬にぶちまけた。油の揮発蒸気のなんとも化学的な臭いで犬はゲボゲボと咳き込み、僕も思わず鼻をつまんだ。

「お前、なんでこんな目に合うんだろうな」

 それは犬に言った言葉でもあり、自分に投げた言葉でもあった。しかし、自分の手を止める術を僕は持たない。

 それ以上何も言わずに、僕は無言で川の方を眺めた。黒々とした川の流れに、僕はどうしようもなく行き詰った自分の行き先を見た。

 沈黙のまま数分後、僕は犬の方に向き直り、マッチを擦って火を灯した。

 辺り一面闇一色の中、ペンライトに照らされた犬はもはや何も鳴かず、ただその鉛色の目だけが、僕の非道を責めていた。

「さよなら」

 僕はスナップを効かせて、火の付いたマッチ棒を檻に向かって投げ込んだ。

 マッチの火が灯油蒸気に引火し、その茶色い肢体を一瞬で紅に包んでいった。犬は激しく動揺して暴れ、ウォンウォンバウバウと吠え、喚いた。しかし、その声帯が焼かれ、くすんだ鳴き声しか出せなくなるのは思ったよりも早かった。

 ゴフッ、ゴフッ…。

 臨終の際、犬は仰向けになって四肢を投げ出し、体を炎に任せたように見えた。そこには、尊い生命が失われる際にだけ現れるある種の神性じみた厳かさがあった。

 哀しみ、自己嫌悪、そして快楽の炎が、僕の心もまた焼き尽くした。

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