第12話

 あれから一週間が経った。

 部屋には倦怠的な空気が漂っていた。ベッドに大の字になって体を任せ、頭だけを窓側のテレビの方に向けて僕は半ば放心状態で画面を眺めていた。何をするのも億劫だった。

 画面には奇怪な風体の白髪の男が小児の体をちぎっては喰らっている。ゴヤの有名な絵画を、専門学生がアニメーションに仕立てたものらしいが、その構図のグロテスクさよりも、運命によってそうせざるを得ない男の慟哭が激しく伝わってくる。

 我が子を殺して喰らう男は本当に気が狂っていたのか。抑えようもない衝動とともに、測りようもないほどの罪悪感が男を支配していたのではないのか。

「罪悪感と言うのは、時には救いになる」

 かつて相沢が言ったその言葉が思い出された。だが、たとえそれがいくばくかの救いを男にもたらしたとしても、男はもう以前の男には戻れない。背負ってしまったものを一生背負い続けるのだ。


 冬の夕方は短く、まだ六時過ぎだと言うのに太陽はすっかり姿を隠して町を闇が覆っている。

 僕は、最後まで相沢に勝てなかった。

 新聞の記述によると、奴は駅前で演説中だった政党の有力な国会議員の胸をナイフで刺した後、その場で自らの首を掻き切って病院に搬送された。刺された議員は即死。脳の酸欠状態が長すぎた相沢は、一命はとりとめたものの東京の病院の一室で安らかに眠り続けている。医者は奴を遷延性意識障害と診断した。

「………私、相沢実綱は、△△基地の訴訟問題と某国との貿易協定に関する〇〇議員の暴言と民主主義に対する不遜な態度を目の当たりにし、この男に国政を任ずることについての激しい憤怒の念に耐え難く、斬奸の思いとともに今日正義実行をせんとする者である。本来、国政というのは――………」

 インターネットのSNSに相沢のページがあり、奴はそこに、犯行の直前に犯行声明文を投稿した。ページはすぐに削除されたが、声明文のスクリーンショットは瞬く間にネットの各所に広まり、僕はそれを食い入るように見た。確かに、相沢ならそういう結論に至ってもおかしくはないという考えの一方で、今まで姑息にバレないように行動をしてきた相沢が、ここに来てこんな暴挙を犯したのはどういうわけだろうか、という問いがあった。

 やはり、僕がついていかなかったせいなのだろうか。それとも、高校生活の間に奴が溜めてしまった鬱憤が、これほどの行いをしてしまうまでに大きくなってしまったせいなのか。どちらにせよ、なんとかして奴を止められなかったのかと僕は今更になって激しく後悔した。

 しかしその後悔は、奴の凶行による被害や、奴自身の未来が潰れてしまったことを思っての後悔などではない。

 奴は最後まで自分の信念を貫き通し、それが僕を激しく苛立たせた。僕は、奴の心の柱がポッキリと折れる瞬間を見る必要があったのに。信念の敗北を愉しむ必要があったのに。その機会は一生失われてしまった。

 強く精気に満ちた人間が強固な心の柱を築く一方で、弱くあやふやな人間は何を拠り所にすれば良いのか。もし生まれたときの形質で信念の強さが決まるのならば、弱い人間は相沢のような強い人間を一生羨望の目で眺め続けることになる。

 それではあまりに辛く、救いが無い。

 テレビの番組はいつの間にか変わり、ニュースでマンションの火災で数名が亡くなったと報道されていた。

 情報化社会の時代では全国、全世界のあらゆるニュースがどんな僻地にも飛び込んでくる。マンションの火災事故が相沢の凶行を掻き消し、芸能人の醜聞がその火災事故を掻き消し、中東での紛争情勢がその醜聞を掻き消していく。そうして、個人の信念の行動も時代に忘れ去られ、所詮意味のないものと成り果てる。そう思うしかなかった。

「ただいま~」

 レストランのアルバイトを終えた雪晶が帰り、返事もせずに無気力に横たわる僕を横目で睨みつけた。ここ一週間ほどずっとこの調子なのだから、睨みつけられても無理はないと僕はぼんやりと考えた。

 しかしそれは、僕達の間の絆が無惨にほつれ断たれていく予兆であった。


 あの新聞記事を見た日から、僕はたびたび無断で工場を休んだ。働こうとしても、そのたびに説明できない無気力感と敗北感が胸にのしかかり、体が動くことを拒んだ。そして、次の出勤日に班長からどきつく叱られて、僕はますますやる気を削がれていった。

「お前、最近大丈夫か?」

「彼女とうまくいってないんちゃうか?」

 加巳と田山はそんな僕を心配し、休憩時間に相談に乗ってくれようとしたが、愚かにも僕はそれを拒んだ。加巳や田山では僕の悩みも苦しみもかけらほども理解してくれないだろうと勝手に思い込み、僕は孤立していった。


「信人、もしかしたら鬱病かもよ?」

 仕事に行かずに心は虚ろに雑誌を読むふりをしている僕に雪晶が不安そうに声を掛けた。

 雪晶の提案も一理あると思い、重い足を奮い立たせて僕は電車に乗り、三駅先の繁華街の小さなビルの二階にある小さな心療医院を訪れた。僕の町の近所には、そこしか専門的な医院が無かったからだった。しかし、そこで処方された薬を飲んでも症状は全く改善されず、むしろ何をしても楽しくないという気持ちが促進されたかのように思えた。その上、まるでその提案をした雪晶が悪いかのように僕は彼女を責め、些細な事で苛ついて彼女を詰り、彼女との関係は急速に冷えていった。


「まずい」

 その日、雪晶の作ってくれたシチューを食べても何も感動が起こらず、僕はイライラして彼女に食って掛かった。彼女も負けじと言葉を応酬させ、口論の末、初めて僕は彼女を殴った。

 柔らかいものが凹む嫌な感触が拳に残り、僕は自分の行いにしばし呆然として突っ立った。

 彼女は立ち上がり、無言で僕を見つめ、無言のまま、とるものもとりあえず家を出ていってしまった。

 僕は彼女に電話して必死に戻るように説得しようとしたが、何度彼女にかけても繋がらなかった。その後、代わりに、一通のメールが届いた。

「信人と付き合っていく自信が無くなったの」

 彼女らしい、素直な感情を直接的に表した切り出し方だった。心臓の鼓動が激しく脈打った。

「あたしも、信人の今の状況を助けようと必死に頑張ってきた。けど、いつも裏目を引いてしまっていたように感じる。それはたまたまそうだったのかな?それとも、あたしとあなたとの相性が良くなかったのかも知れないね」

 僕の目からゆっくりと涙がこぼれた。

「今そこにあたしが居ることで、信人を苦しめる原因になっているのかも。そんなこと、あたしには耐えられない。信人のことは今でも好き。でも、これ以上はもう無理」

 体の奥底が徐々に熱くなっていくのを感じた。

「そっちにあるあたしの私物は、もう処分してくれてもいいよ」

 僕は幼児のように声を上げて号泣した。

 初めて出来た、小さな心の柱が、ポキッと弱々しく折れる音を僕は確かに聞いた。

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