第11話
平穏な日々が続いていた、ある寒い冬の日のことだった。
工場での昼の休憩時間、休憩室で熱い缶コーヒーをちびちび喉に流す僕のそばに、田山がやって来た。
「前話してくれた古河くんの友達の子、相沢ってゆうたっけ?」
「ええ?そうですけど?」
唐突に相沢の話題を出す田山の意図が分からずに、僕は不審そうに尋ね返した。
「その子がこの間、古河くんを訪ねてここにきたで」
僕は警戒心で身が引き締まるのを感じた。相沢が?なぜ今になって僕を?
「この前って、いつですか!」
僕は田山に食い下がった。
「なんやえらい剣幕やな。ええと、確か、2日くらい前だった気ぃするわ」
田山は呆れたようにそう言うと、そそくさと外に煙草を吸いに出ていった。
ここ数年、町では相沢の噂は聞かなくなっていた。もしかしたら僕自身が無意識の内に情報をシャットアウトしていたのかもしれない。しかし、高校に入ってから、奴が大人しくしていたことは確かだろう。
それなのに、今更僕を訪ねてくることに強い違和感を覚えた。
奴の身に何かあったのか。
午後の作業中、僕は気もそぞろでミスを繰り返し、終業と同時に駆け足で帰宅した。虫の予感というものがあった。
僕の住むアパートのエントランス。そこに、果たして相沢の姿があった。
「オートロックなんだな、ここって」
白シャツと学生ズボンを着た相沢は、中学時代より随分たくましくなっていた。ピンと伸びた背筋も、手足も胸板も平均以上に屈強な印象を受けた。何かスポーツか武道に熱心に打ち込んでいる人間の体だった。
しかし、全身を迸るような湿った情熱は、かつての奴そのままだった。
「お久しぶり」
僕はわざと他人行儀に挨拶をした。突然訪ねてきた相沢の意図を測りかねたのだ。
「まあ、まあまあ。積もる話は中でしようぜ、古河君」
まるで自分が家主のような図々しさで上を指差してそう言う相沢に、警戒心を持ちながらも僕は思わずふふと笑ってしまった。
狭いけれども白く清潔感のある内装の僕の家を踏み歩き、相沢はじろじろと遠慮なく塗りつぶすように見渡した。テーブルの隅の女性向けの雑誌やソファの上のハート型の赤いクッションを見つけ、奴はニヤッと微笑んで僕を見た。
「これもしかして彼女の?一緒に暮らしてんの?」
僕はああと素っ気なく短く答えた。相沢には奇妙な友情や数年来の懐かしさも感じてはいたものの、雪晶は奴とは関わらせたくなかったのだ。
「なんだ、寝耳に水だな。連絡してくれれば良かったのに」
相沢はそう言って雪晶のことを細かく訪ねようとしたが、僕は強引に話題を変えることにした。
「ところで、なんで突然僕の家に?」
その質問には答えずして、相沢はベッドのそばのサイドテーブルの上にあるラジオに手をかけた。
「点けていい?」
僕が了解すると、相沢はスイッチを押し、選曲つまみをでたらめに回したり戻したりした。様々な種類の音が、無節操に代わる代わる流れた。
「お、モーツァルトだ」
ラジオから流れる管弦楽の響きに、嬉しそうに相沢が応じた。
「これはイ長調のピアノ協奏曲だな。よく単独で演奏されるのは物悲しく静かな二楽章だけど、俺はこの一楽章が好きだ。すべての凝り固まった思いを洗い流すようなシンプルなピアノの旋律が、円熟した管弦楽法に支えられて森の奥の小川を思わせる」
相沢にはあまり似つかわしくないような清廉な音が、ラジオから飛び出して部屋に反響した。
「これ、邑美が好きでよく聞いてたんだ。だから俺も覚えてるってわけ」
あの日、団子の歌を歌ったときも奴はそうだった。憎んでも哀れんでも、なおその影響からは離れられない。相沢の母親への複雑な心境の一面がそこにはあった。
誰しもがまっさらな心で生きているのではない。相沢が母親に対して屈折しているのと同じように、僕も叔母に対して割り切れない感情を抱き続けた。
「そうそう邑美と言えば、この前、手紙が届いた」
そう言って母親からの手紙の内容を詳らかに説明する相沢に、単刀直入だったかつての奴の平生とは違うものを感じた。
こいつは本題を言い出しかねている。だからラジオを点けたり、手紙の話をしたりしてはぐらかしているのだ。
「高校生活はどう?」
このまま奴に話させるだけでは埒が明かないので、僕の方から話題を誘導することにした。
「どうだ、と言うよりもはや『どうだった』だな。もうすぐ俺は卒業するんだし」
相沢はククッと特徴的に笑った。
「いや、楽しかったよ。柔道部で心身ともに鍛えるのに精を出した。だからなのかは知らないが、学校の中では正義実行をする気持ちは起こらなかった。そのおかげで、中学のときより人間関係はうまくいったな」
目から鱗の思いだった。毎日の適度な激情の発散があれば、相沢は正義実行などしなくて済むのだ。うまく激情を受け流すコツを知った相沢は、これからの人生をもっと真っ当に充実させることができるだろう。
「でもやっぱり、柔道をしてても何をしてても義憤と鬱憤の気持ちは溜まるんだ。普通の人には受け流せるような些細な事かもしれないけどさ、俺には無理。でも、なまじ人間関係がうまくいっているだろう?だから発散できずにどんどん溜まっていく。溜まって溜まって、どうしようもなくなったら、どこかでそれを抜かなければならない」
先刻の合点が脆くも崩れ去った。そして、一つの大きな危惧が心に浮上した。
「まさか、今日お前がここに来たのは、そのガス抜きに僕に付き合えってことじゃないだろうな」
「察しが良くて助かるよ」
相沢はククッと笑った。笄蛭の眼から媚びた視線が飛んできた。
「近日中に、俺は一つどでかいことをする。古河君に、それを見届けてもらいたい。なに、今までと同じだよ。古河君に危険が及ぶような下手な真似はしないさ、もちろん、俺にもだけど」
とっさに雪晶の顔が頭に浮かんだ。彼女を悲しませるような真似は絶対にできない。
「冗談じゃない!」
僕は声を荒げた。相沢はまるで予期していなかったかのようで、ただ戸惑って僕を見た。
「危険が及ばないって言っても、それはお前の主観だろう。行動を起こす以上、一定のリスクがあることは当然だ。だいたい何で僕なんだよ。他に誰かを連れていけばいいだろう」
「でも、中学の時は良く付き合ってくれたじゃないか。もちろん、俺が一人でやるときもあったけどさ」
相沢は不満そうに口を尖らせた。それが僕を苛立たせた。
「中学の時とは状況が違うね。お互い、失いたくないものを積み上げてしまったはずだ。もはや正義実行なんてくだらない。お前、他にもっとうまいガス抜きの方法を考えろよ」
「俺には無理だ」
相沢はすねたように頑なに言った。
「じゃあ、一人でやれ」
今回は僕も頑として譲らなかった。中学のときのやる気の無く生ぬるい僕とは違っていた。
「古河君がそう言うなら……そうするよ。でもやっぱり、寂しいんだなぁ」
いつになく弱気な弁を口にする相沢に、僕はちょっとたじろいだ。奴の思わぬ言葉に動揺したのだ。
「俺が一人で正義を実行してもさ、結局、世間はそれを認識しないわけじゃん。それは、バレたらまずいような行動をするときは、俺自身がバレないように巧妙に計画を立てるからなんだけどさ。それでも、やっぱり寂しいわけよ」
悪いことをした子供が叱られるような仕草で、相沢は顔を伏せた。
「……正義を行う自分を、誰かに認識してほしいって気持ちはあるね」
初めて奴に心中を打ち明けられ、僕の心は揺らいだ。
しかし、雪晶への思いが打ち勝ってしまった。奴の奴がこれから何をするのかなんて、全く関係ない。そういう非情とも言える思いが、揺らぐ心を静めた。
「そうか。寂しいなら、僕以外の誰かを連れて行けよ。はっきり言って、今俺はそっちに興味は無い」
突き放すようにそう言われ、相沢は苦し紛れの微笑を浮かべ、目をそらした。
「…ところで、俺があげたあの拳銃はどうしてる?」
僕は黙っていた。実は、僕はあれを結局捨てることもできなくて、茶色のリュックサックに入れて初めて買った車のトランクスペースの片隅に転がしてあった。でも、今こいつにそれを言う必要は無い。
「捨ててないんだな?じゃあ、いつか困ったときに使ってくれよ。俺が味方すると思ってさ……」
それだけ言うと、相沢はそそくさと家を去っていった。得も言われぬ疚しい気持ちと、少しの満足感が心を満たしていった。
その三日後、工場に出勤すると、田山がこわばった顔で僕に新聞を差し出した。
「これ見てみぃ」
何事かと思い一面を注視すると、そこに相沢の名前があった。
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