第10話
その日の夜、郊外のファミレスで会話を弾ませながら、僕は雪晶のいろいろなことを知った。
「○○市の短大に通っているんです」
彼女は加巳の友人の妹だという。僕より二つか三つほど歳が上だったが、そう思わせないような動物的な人懐っこさがあった。その日初めて会っただけで、僕は次第に彼女に惹かれていった。
帰りの車で運転席の加巳に、またこのメンバーで遊びましょうと呼びかけると、今日の僕がいつになくテンションが高かったことをニヤニヤしながら加巳に指摘をされ、僕は恥ずかしくてごまかすように苦笑をした。
最初は加巳を通して何度か会っていたが、メールを交わすうちに次第に二人だけで会うことが多くなり、数ヶ月後、どちらが言い出したわけでも無く、僕は雪晶と付き合っていた。
雪晶は感情が豊かな女性だった。
プレゼントを送れば人一倍喜び、何週間も会わなければ人一倍寂しがり、約束を破れば人一倍激しく怒った。
僕のようないつも心のどこかに疑いを抱いている生煮えの輩にとって、感情に身を任せ、色彩鮮やかな人生を生きる彼女が大いなる憧れの対象になったのは当然の道理だった。彼女は今まで会ったどんな人間よりも輝いていた。
「あのシーン、良かったねぇ」
何度目かのデートで、映画館の帰り。止めどなく映画の内容を語り出す雪晶に相槌を打ちながら、僕は幸せを感じていた。そこには、正義感や道徳的考えの欠片も無く、ただ彼女の感情の色彩が春の風景のように表現されていた。
それだけで良かった。
積年の疲れが癒やされるようだった。
彼女にとっての心の柱は、自分の感情を裏切らず、他人の感情を疑わず、何に対しても心を開いていることだったのだろう。それは簡単なことのように思えて、現代人にはとてつもない難題だ。
なろうとしても決してなれない、僕の憧れがそこにあった。
ある時は、自然を愛する彼女を喜ばせようと提案し、夕刻二人でバスに乗り、紅葉の綺麗な渓谷へと向かった。闇の中にライトアップされた紅葉が鮮やかに浮かび上がり、幻想的な雰囲気に僕達はしばし言葉を失ってボーッとそれを眺め続けた。
「紅葉を見ると綺麗に思うのって、不思議だよね」
雪晶の方が先に沈黙を破り、木々のつくる大パノラマから目をそらさずに、感慨深いといわんばかりの細い声で言った。
「確かに、植物にとってはただの葉の老化現象だしね。老いを忌まわしいと思う人間が、シワシワになっていく葉っぱを褒めそやすのも妙なもんだ」
「いやいや、そうじゃなくてさ!」
雪晶は無粋な僕をからかうように笑い、こちらを向いた。
「紅葉が終われば寒い冬が来るわけじゃん。冬は誰だって嫌なものでしょ?特に、昔の人にとっては作物が獲れない死活問題だったわけだし。それなのに、その苦難の前触れである紅葉を美しく感じるのは、苦しい生活の中でも日々のちょっとしたことに喜びを見出そうとする昔の人の知恵が、遺伝子に組み込まれてあたし達の中にあるというこのなのかな?もしそうなら、やっぱり自然って凄いと思う」
「そうかも知れないな…」
彼女の話を聞きながら、やっぱり僕は彼女と一緒に暮らしたいという思いがどんどん強くなっていった。それは、叔母に対して、一つの背信行為をしなければならないという確信と痛みを伴ったが、それでも僕はその思いを止めるなんていうことは決して考えなかった。考える気など毛頭無かったのだ。
そして、僕は叔母の元を離れることにした。
禁欲的なAの教えに忠実である叔母の目に晒された生活は、僕と雪晶にとって窮屈だった。だから、僕は叔母に雪晶と付き合っていることすら伝えなかった。
叔母には育ててくれた感謝もあったし、いつも真摯に僕のことを考えてくれた恩も感じていたが、それらは本当に叔母の内より湧き出た思いがさせたものなのか。それとも、Aの教理により外付けされた愛情がそうさせたのか。その疑う気持ちが結局僕のなかでぐるぐると彷徨い、むき出しの刃のように思うたびに僕を傷つけていったが、それでも、叔母の愛の行為を疑う自分の卑しさを噛み締めながらも、僕は彼女を信じることはできなかった。僕は、この僕の中の叔母に対するもどかしい気持ちをも打ち明けなければ、本当の意味で叔母の元を離れることなどできないと感じた。また、そうすることが、僕が叔母に対して誠実であるという証明にもなるのだと、臆する自分に言い聞かせた。
「……そうですか」
雪晶との関係と叔母に対する疑いの気持ちを初めて彼女に打ち明けると、彼女は短くそう言って俯き、表情を見せないようにした。
そして、続けて僕がこの家を出ると伝えたときにも、彼女はまだ顔を上げなかった。ひょっとしたら、叔母は静かに泣いていたのかもしれない。しかし、僕にはそれを確認する勇気がまるで湧き出なかった。
「あなたの心のままにしてください。わたしはこれからも、いつもあなたのことを思っていますから」
諦めに満ちたか細い声でそう言うと、叔母はふらつきながらすり足で自室に入っていった。
「ごめんなさい」
誰に向かっての何に対しての詫び言なのか、自分でも良くわからなかった。しかし、彼女が去って誰もいない空間に向かって、思わずそう口にしてしまう。それが、ぼくが示すことが出来る最大の誠意表現だったのだろう。
己に背信する者にたいして、あの神の子は決して侮蔑の言葉を投げかけなかった。男はただ、背信者に、「お前がするべきことをしなさい」と静かに言っただけだ。
「あなたの心のままにしてください」
叔母は、かつての神の子の言葉をなぞるようにそう言った。
男の行動を自らの行動に重ねることで、叔母は救われたのだろうか?
僕と雪晶は同棲を始めた。
叔母に本心を打ち明けたことは、僕の心に悶々たる思いを残した。毎日毎日、やりきれない思いを仕事にぶつけ、時には雪晶にもぶつけた。それでも雪晶は僕の痛みを受け止め、精一杯癒やしてくれた。
「おばさんは、信人のことを悪くは思っていないと思うよ」
雪晶は難しい理屈を並べるのは苦手だったが、それでも自分の思うままに話す素直な言葉が僕の慰めになった。
「あたしには宗教のことはよく分からないし、おばさんのことも詳しくは知らない。けど、自分が何年も育ててきた子供だもん。きっと、最後には巣立ちを見守るような気持ちでいたんだと思うよ」
「でも、たとえ自分の子供が相手でも、その言葉に悪意や不信を感じたのなら、憎しみや嫌悪を抱くのは自然な心の流れじゃないか?やっぱり僕は、取り返しのつかないことをしてしまったんじゃ…」
生暖かい初夏の深夜。ベッドの上の虚空の闇に顔を向けながら、無機質に装って僕は重い口を動かして言った。
「そうは思わないけどなあ…。まあ、あたしも信人も、子供を持ってみないと分からないか!」
鼠色のソファの上で、雪晶はそう言っていたずらっぽく笑った。シャワー上がりの濡れた髪から、石鹸のような柔らかい匂いが漂ってきた。
僕はこの日々が永遠に続けば良いと思った。
だが、そんなことはあり得ないことだった。
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