第9話



 就職してからしばらくは、僕は何もかもを忘れて働いた。刺激や変化の少ない工場でのルーティンワークは僕の適正にあっているように思えた。

 時折、あの子猫の茶色い瞳や、海のような青い瞳が頭に浮かんで平穏な心に影を落とすこともあったが、多忙な日常生活の波の中に不穏な影は霧のように散っていった。あの笄蛭の瞳ですら、例外では無かった。


 奴のことを久々に思い出したのは、入って一年目の会社の忘年会での他愛無い会話の中だった。

 未成年である僕がウーロン茶をちびちび飲んでいるそばで、他の人々は一年の疲れを吹き飛ばすように飲んで食べ、僕も一緒になって盛り上がりながらも、心の中ではぼんやりとその様子を羨ましそうに気後れして見ていた。それは、僕の体にアルコールが入っていないというただそのことだけのためだったのだろうか。

「古河の友達に、そんな凶悪な男が居るとはなあ…」

 宴もたけなわとなり、座敷のテーブルの人角で、加巳、田山という仲の良い先輩二人と飲み交わしていた。

 学校時代に知り合った人間のエピソードを肴にしていると、ふと僕は相沢のことを二人に話す気になった。

 他人に言い広めるような思い出ではないので、相沢のことは会社の人々には話すまいと決めていたのだが、酒が僕の警戒心を緩めたのだろうか。

「でもちょっと分かるわ~、その子の気持ち」

 酒でほてった首元を暑そうに手でパタパタ仰ぎながら、田山が言った。

「え?田山お前、分かるのか?」

 加巳は不思議そうに田山を見た。

「普通の人間なら、いくらムカついたからって、路駐車にゴミ投げつけたり野良猫をいじめたりなんかしないだろう」

 加巳と田山に奴のエピソードを話すとき、僕はそれらを若干オブラートに包まれた表現に変えていた。猫を殺したなんて言ったら場が静まり返ることは間違いがなかったからだ。

「そりゃー、世間の目があるし、みんな自分のことがいっちゃん大事やからね。相手が憎くても危ない橋は渡らないよ」

「でも、田山さん。あいつには橋なんか関係ないんです。橋を無視して橋脚の間を猪突猛進するようで、それでいて危険な行動であればあるほど綿密な計画を練って繊細に復讐をするんです。そういう計算高いところが、なんだか不気味でした」

「猪突猛進するのに、繊細なのか?ハハ、よく分からんな」

 加巳は陽気快活な男で、人に恨まれても人を恨んでも三日後には忘れているような人だった。そういう人には、相沢のような湿った激情を持つ男の心理などまるで理解できないだろう。

「加巳は、例えばやけど、自分の家のバイクが近所の中学生にいたずらされたら、どうするん?」

 やや太った田山の香水混じりの体臭を、僕の鼻が捉えた。場の空気で判断力を失った僕は、それを天上の芳香かと感じた。

「どうするも何も、見つけ出して落とし前をつける。悪いことをしたら罰を受ける。当然のことだ!」

「もし、何日も見つからなかったら?」

「そんときは諦めるさ。たまたま現場に遭ったときは、容赦はしないがな」

「そこや」

 田山は力強く加巳を指差した。そして僕ら二人の顔を、その雌ライオンのような目で見た。

「加巳は諦める。その子は諦めへん。それだけの違いやん。もしその子が同じことをされたなら、その子は、またいたずらされるまで、陰でこっそり何時間も待ち続けるんちゃうか」

「陰湿だなあ」

 加巳が呆れたように言った。

「理解できないね。多分タイプが違うんだろうな、田山達とは」

「《達》って、一緒にせんといてくれる!?わたしがその子の気持ちをちょっと分かるって言ったのは、つまり、誰しもがそんな負の一面を持っているってことや。ただ、それが抑えきれずに真っ当じゃない行動に走っちゃうちゅうのは、大問題やな」

「だから、あいつについて行けるのは僕しか居なかったんです」

 僕はうんうんと頷きながら田山に言った。

 しかし心の中は違った。田山の分析に半ば同意しながらも、そうではない、それだけではないというもどかしい気持ちを僕は抱いていた。

 相沢がただ単に自分の被害に敏感な復讐鬼なだけだったら、僕は奴について行くことなど無かった。

 相沢は、自分の被害でも、知り合いの被害でも、全く他人の被害でも、誰も被害に遭ってない場合でさえ、己が不義不実であると見做したものに対して憤り燃え上がった。

 もちろん奴のしたことはどれも軽蔑すべきことに違いない。けど、そういう奴の激情に接して、僕が落ち着かない気分にさせられなかったことは無い。きっとそこに、ただ軽蔑して済ますことのできない何かを見出したのだろう。

「ほんなら、わたし達は、古河くんがおんなじように道を誤らないよう、教育してあげなあかんな」

「よく言うよ、自分が一番シンパシーを感じていたくせに」

 そう言うと、田山と加巳は二人してケラケラ笑った。それに釣られて僕もヘヘヘと笑った。

 二人には良くしてもらっていたが、僕の中に、どこか心を開けない面があることを自覚していた。二人が親しく接してくれるほど、僕の心は痛んだ。


 10日ほど経った日、加巳からメールで遊びの誘いがあった。

 曰く、お前はサボらないし要領もいいが、たまに覇気が感じられない。女の子とでも遊んで鬱憤を晴らせ、とのことだった。

 僕が加巳のアパートに着いた頃には、既に加巳の知り合いの女性2人が椅子に座り、テーブルのポットからジャスミン茶をカップに入れて飲んでいた。

「ヤスウラユキラです」

 ここで、僕は雪晶と出会った。

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