第8話
「一つ大きな問題がある」
蛍光灯の無機質な青白い光に照らされながら、相沢は悩ましい顔をして腕組みをした。
「と、言うと?」
「正直、調理に関しては予想以上にうまく行った。上出来だよ。市販のそれと比べても遜色ないと言っても過言ではないな」
テーブルの上の、不揃いな色と大きさで調味料も過剰なミートボールらしきものを前に、相沢は自信たっぷりに大口を叩いた。
「しかし、問題はどうやってこれを爺に食わせるかということだ」
「は?爺さんに?」
僕は驚いて声を上げた。
「なぜ?愛猫を調理した時点で、お前の正義実行は終わったんだろ?」
「ククッ、古河君、甘いよ。甘すぎる」
相沢は少し上目遣いにして不敵な笑みを作った。奴の口の中の上下の歯がかち合い、キチッという音が聞こえた。
「ただ愛猫の命を奪うだけで、それ以前の爺の暴挙すべてがペイオフされ得るか?否、俺はそんなことは許さない。もっと言えば、猫を殺すことで達成される正義というのは、猫個人(?)に対する復讐ではあっても、その管理者に対しては復讐と言うにはあまりにか弱い。なぜなら――」
「なぜなら?」
「爺自身が被害者となるだけで、罪を背負わないからだ。俺は奴に、人生における最大の罪を犯させてやりたい」
「最大の罪?それはなんだ?」
「あくまで俺の考えだが、ある人間にとって最大の罪とは、己の最も大切なものを犯すという不義を為すことだ。しかも、無意識の内にな」
「最後の言葉の意味がよく分からない。自分の行為を意識しなければ、罪を罪だと自覚できない。それじゃあ、何の復讐にもならんじゃないか」
「ひひひ、違うね。古河君。俺の考えは違う」
追及されても、相沢は不敵な笑みを崩さない。奴が興奮して喋るたびに歯がかち合うキチッキチッという音が、二人しか居ない狭い台所に微かに響いた。
「意識をしていないから、一層救いが無い。罪悪感というのは、それを感じることでそいつにとってある種の救いにもなり得る。ああ、俺はこんなにも罪の意識を抱いているんだ。ああ、俺はまともな人間だったんだ、と。俺は爺にそんな救いは絶対に許さない!」
ダン!と鈍い音がした。相沢が興奮して拳を握り、それをテーブルに叩きつけた。
「だから奴は、何も知らずに己の子を喰らい、子を己の血肉とした穢れた体で子の姿を探し求め続けるのだ。これほど罪深いことがあるか!?」
己の激情に振り回される相沢を横目に、僕は一人冷静に考えた。
(でも、誰があの老人に肉を?)
その問いを発しようとして、僕は口をつぐんだ。
笄蛭の目が、いつの間にか激情を収め、媚びるように僕を見つめていることに気がついたからだ。
「これからの計画についてだけど……。確か河君のおばさんって、Aの信者だったよな……?」
それでも、僕は相沢に打ち勝つことができない。いや、元々そんな可能性など全く無いのだ。
僕にはあの老人を庇う理由も無いし、僕がやることはただ叔母にこの黄金色の肉の塊を渡すだけだ。そして、叔母は僕の言う通りに教会のみんなにそれを振る舞い、あの老人もまたそれを口にするだろう。ただそれだけだ。なら、なぜ躊躇う理由がある。どこに恐怖する理由がある。
僕は、かつて相沢の家で、奴から白い拳銃を受け取ったのと同じように、ただ素っ気なく肉を受け取り、その後は何も言葉を交わすこと無く帰路に就いた。
冷たい夜風が僕に、秋の訪れを予感させた。
「どうだった?」
日曜の昼、Aの集いから帰宅した叔母に僕は思わず声をかけた。
なんてことはない、大したことはない。そう自分に言い聞かせながらも、叔母にあれを渡してから、僕の心にはそのことがずっとぶら下がっていた。
「ああ、お料理、教会のみなさんでいただきました。みなさん喜んでいましたよ」
なんてことはないように叔母は答えた。冷たく諦めに満ちたその口元に、珍しく微笑まで浮かべて。
そして、僕に料理が趣味の友人がいることなど知らなかったなどと言って、彼女は自室に入っていった。
たったそれだけだった。
窓の外では、相沢の激情も、僕の不安も、老人の罪もまるで無かったかのように秋めいた風は街路樹を揺らし、人々はささやかな幸せを楽しむように町を歩いている。
なんてことをしてしまったのだ。
僕は己の行いの罪深さに今更ながら震えが止まらなくなった。そして同時に、なぜだか、心の片隅で何かが満たされたような充足感があった。奇妙なことだが、その気持ちは決して嘘ではなかった。
……相沢の企みが成功したかどうかなんて分からない。老人は、もしかしたらあの子猫のことなどすぐに忘れて、老人らしい前向きさで地域猫に餌をやり続けるかもしれない。もしそうだとしたら、相沢の言う老人の《罪》など、どれほどの重みを持つのだろうか。
そして、僕の持つ激しい罪悪感も、奇妙なこの満足感も……どれほどの意味を持つのだろうか?
この日以降、中学を卒業するまで相沢は正義実行をすることは無かった。
そして、僕と相沢は袂を分かった。奴は高校に進学し、僕は就職して町の自動車メーカー下請け工場で汗を流す日々となった。
だが、この日に感じた恐怖と逡巡は、これから僕を蝕む狂気と呻吟のほんの前触れでしか無かったことを、僕は思い知るようになる。
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