第7話



「まずはしっかり血抜きだ」

 僕達は、相沢の家の庭に一本だけ立っている柿の木の太い枝にロープを回し、獲物を吊り下げ再び氷水の中に入れた。

「…そうか」

 相沢の不可思議な行為にようやく解を見出して、僕は嘆息して、眉間に力を入れて相沢を睨んだ。

「相沢お前、こいつを食ってやろうというわけか」

 笄蛭の眼をきょとんと大きく開け、相沢は僕をまじまじと見た。

「おいおい、今更かよ!」

「え?」

「鈍いなあ、古河君。最初から言ってるじゃん。調理するんだって」

 こいつ、最初からずっと本気で猫の肉を喰らう気だったのか。

 どんなに予想しても、相沢の蛮行はどこまでも野蛮で、僕の想定のレールからするりと抜けやがる。理解不可能な対象を人は怪物として畏怖する。僕にとって、相沢はこれまでも、この先もずっと怪物で有り続けるのかもしれないと僕は思った。

「しかし、なかなか抜けないもんだね、血というのは。溺れさせる前に動脈を切っといたから、ちょっとはマシかと思っていたんだけど」

 洗っても洗ってもすぐに濁る水を、庭の隅っこから伸ばした給水ホースで何度も入れ替えながら、相沢は感心したように言った。

「誤算だね。こんなに時間がかかるとは思わなかった」

 空を見上げると、昼下がりの晩夏の雲が僕達を柔らかく包み込んでいた。

 そして、僕はゆっくりと呟いた。

「命だからだろう」

「は?」相沢は再び虚を突かれたように短く返した。

「どんな生き物でも、そんなに簡単な体の仕組みをしてはいない。それが命の重みということなんだろう」

しばしの沈黙。静寂の後、相沢も呟いた。

「うん、そうかもね。でも、俺の正義実行とは何の関係もないことだ。関係がないのだ」


 血抜きが終わると、相沢はバケツから獲物を取り出してロープを外し、青色のビニールシートの上に置いた。

 そばには上蓋の外された鈍色の一斗缶と、調理器具と思われる銀色のボウルが用意してある。

「ここからが大変だ」

 どうやらここで、獲物の解体をするという様子だった。

「猪の解体には立ち会ったことがあるんだよ。親父の知り合いに猟師がいたからさ。でもこいつ、猪と違って可食部が少ないからなァ」

 忙しそうに動き回る相沢を傍目に、僕は空の青さをどこまでも眺め続けた。


 パチ。

 獲物の首に当てられたパイプカッターが、首の骨を切断する音が鳴る。

「頭を落としたらそのまま体を開いて内蔵を取るんだ。そして、できるだけ食べられる肉の部分を削ぎ落としていく。肉を集めたら、そのまま凍らせてからミンチにする」

(なぜ、僕は相沢と親しくなったんだろう)


 ぽと。

 獲物の首を相沢が金属缶に投げ込んだ。

 苛性ソーダ飽和水溶液で満たされた金属缶の中で、獲物の首はゆっくりと、かつて一つの命であった証拠を失っていく。

「俺さ、古河君と友達になれて良かったよ。古河君以外の野郎は俺の正義実行についていけない奴ばっかりだったからなあ。勝手なことを言うようだけど、俺達相性いいんだな」

(相沢は近々必ず破滅する。そうでなければ、世界が報われない。幾度の試練を乗り越え、平和と自由を希求し続けたこの世界が、奴一人の専横に敗北し続けることなどあってはならない)


 ジョリ。

 相沢が獲物の下腹を器用に切り裂いていく。裂け目から見える獲物の体内は、春の草原の草花のように若々しい淡桃色をしていた。

「今まで何度も正義を実行してきけど、哀しいことに、一番憤りを感じている人間に対して、俺はまだ正義を通せていないんだよね。それって俺の母親のことなんだけどさ」

(でも、僕は相沢の破滅を見たいのではない。相沢が窮地に陥るのをみて溜飲を下げたとしても、僕自身には何も起こらないだろう。人の窮状を見て愉快な気分になれるほど、畜生道に陥ることなど僕にはできない)


 ボチャ。

 肝臓だろうか、心臓だろうか。白みを帯びた鳶色の生体器官を相沢が指でつまみ、金属缶に投げ入れた。

 何とも言えない頽廃的な生臭さが鼻腔を突いた。

「ああ、臭え。生き物の中身ってのは酷い臭いだ。なあ?どんなにカワイイカワイイ言われていても、本当の姿はこんなもんだよ。《本来》っていうのはこういうことだよ。それをあの爺どもも思い知れば良いんだ」

(僕は、奴が信念に敗北するところを見たかった。善悪はともかくとしても並外れて頑強な信念を持つ相沢が、己の信念に振り回された挙句にそれを信じられなくなり、捨て去るところをつぶさに観察したかった)


 ぬちゃ。

 粘り気のある肉と、なま白い脂肪が、キッチンバサミで歯切れ悪く切り裂かれ、骨からボウルの中にこそぎ落とされた。

 それは、あの人懐こい小さな猫のあざみが、スーパーで売られる安っぽいパックの豚肉と同等の存在に成り果てたことを意味する。

「母親――邑美って言うんだけど――は、とてつもない浪費家だった。俺と妹を猫可愛がりする裏で、ブランド品や投資にハマりまくり、恐ろしいことにどちらも素人の付け焼き刃で話しにならなかった。当然邑美は毎回大火傷を追った。気の弱い俺の父親が夜中、俺達二人が寝静まったと見越した上で母親に訥々と彼女の浪費を問い詰めると、いつも彼女は激しく号泣し、悄然として許しを請い、私が間違っていた、二度としないと誓うのだ。俺はちゃんと起きてその様を聞いていたんだ。でも、それっておかしいだろう?もし心からブランド品を愛でたいのだったら、そう言えばいい。もし心から投資を楽しみたいのだったら、そうすればいい。泣いて謝るのが演技だったのか、本心だったのかは今でも分からない。しかし、浪費活動をすることが彼女の《本来》だったのなら、本来の姿を自分自身で認め、他者にも白状して認めてもらった上で、それからの生き方を決めれば良い。邑美は自分を騙し、家族を騙し続けた。俺はそれが憎くてたまらない」

(相沢は、必ず破滅する。そして、その前に奴自身が信念の敗北を思い知らなければならない。それは、信念という概念そのものの敗北となる。そう僕は信じているのだ)

「結局邑美は妹を連れて家を出た。そのときも彼女は、泣きじゃくりながら謝罪の言葉を次々と口に出した。父親は何も言わなかった。きっと心では、今一度邑美の不実を糾弾したくてたまらなかったろう。しかし、父は貝のように口をつぐんだ。子供の前で母親の醜い姿を晒すのがためらわれたからだろうか。でも、それっておかしいだろう?元々、父は気が弱いが、他人にははっきりと物を言う人間だったから、なおさら俺の心には違和感が降り積もった。もし心から母親を許せなかったのなら、俺達がいようと何の遠慮もしなくていい。だって、もし心から俺達の今後を思うのなら、父と母の本来の姿を隠さず明らかにする方が良いのだからな。邑美も父も、苦悶の末に自分を歪めて、本来の自己を貫けなかった。正義とは、自分の本来の感性に従い、自分の本来の考えに基づいて行動することだ。自分を曲げてしまうことは、正義の真逆だよ。それを実行できなかった彼らは今も心の何処かで苦しみ続けているのだろう。俺はそれが憎くて、哀れだ」

 どこか遠くでわらび餅の屋台の声が聞こえた。それは間延びして覇気が無く、悪臭にまみれた僕達とは別世界の、まるで悩みの無い声だった。

「だから、俺は、一生正義実行を貫くことに決めたんだよ」



 ボウルの肉を、僕達は小走りで薄暗く狭い台所に運び、鉛色の大きな冷凍庫に入れた。

 用意のいいことに、既にステンレスの台の上に器具や調味料などが並べられている。

「これで、一体何を?」

 調味料の小瓶を一つ一つ掴んで、眺めてはまた置いて、僕は相沢に尋ねた。ナツメグ、クミン、黒胡椒、唐辛子など様々な種類があるが、どれも長年使っていないらしく、底の方で固着したり、黒々と変色したりしていた。

「イッツァ、ミートボール」

 相沢がおどけながら言った。

「昔好きだった料理さ。邑美がよく作ってくれたからな」


 十分後、少し凍って固くなった肉を、相沢はミキサーに掛けて粉砕し、溶かしたラードを加えて挽肉を作った。豚の挽肉よりねっちょりといくらか強く粘り、海産物のような微かな海の匂いがした。

 ボウルに肉を入れ、相沢は秩序も順序も無く塩と各種調味料を次々とぶち込み、両手でかき回した。肉の量に対して明らかに過剰なスパイスの量は、相沢が料理などあまりしたことが無いことを如実に表していた。

 野菜を切ってくれと頼まれ、僕も包丁を振るって玉ねぎを切り刻んだ。

 不慣れな包丁の動きから、不揃いな野菜クズの山ができ上がった。出来の悪さに自分でもはぁと溜息を吐いた。

「へ、上手いじゃないか」

 心にもないであろう事を言いながら、相沢は玉ねぎのみじん切りの入ったプラスチック容器を受取り、その中身と小麦粉をボウルに入れて両手で更にかき回した。でき上がった白みを帯びた赤い塊は、さっき一斗缶に放り込まれた猫の内臓によく似ていた。

「団子の歌というのがある」

 唐突に相沢は言った。

「タネからスプーン一杯分の肉をとって団子の形にこねながら、団子、団子とひたすら歌うんだ。昔邑美が歌っていた」

 聞いたことがあった。昔の流行り歌の替え歌だったと思う。

 替え歌のほうが有名になって残り、元の歌というのは忘れ去られたのだから皮肉なものだ。

「団子、団子、団子」

 相沢の横で肉を丸めながら、自然と僕の口からその歌が発せられた。

 相沢は僕が知っていたことに驚いたようにこちらを見たが、すぐにククッと笑い、「団子、団子」と僕に続いた。

「団子、団子、団子、団子」

「団子、団子、団子、団子、団子」

「団子、団子、団子、団子、団子、団子」

「団子、団子、団子、団子、団子、団子、団子…」

 薄暗い部屋の中、男二人で、殺した猫の肉をこねながら歌う団子の歌は、物悲しさとやるせなさに満ち、僕は心で泣いた。

 この先何があろうとも、僕はこのやるせない気持ちを忘れることは決して無いだろうという確信があった。


 鍋の油が肉を焦がす香ばしい香りが台所に漂うころ、辺りはすっかり夜の暗さに包まれていた。

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