第6話


 かつて叔母に連れて行ってもらった教会での記憶。


 Aの教会の神父は、シーンと張り詰めた空気の中でゆっくりと口を動かした。

「あのお方は、全ての病める者のために祈り、全ての苦しむ者を慰めた」

 神父はそこで間を置いた。こちらの反応を楽しむかのように。

 彼の意図通り、聴衆のどこそこからか今の言葉を復唱するいくつもの声が生まれた。

 全ての病める者のために…、全ての苦しむ者を…。

 薄暗い照明の中、うすぼんやりとその復唱を聴きながら、僕はその神の子の気持ちについて考えた。

 その人が病人の世話に追われたときは、その人自身にも同じ病気であるかのような痛みが合ったはずだ。その人が苦しむ者達を慰めたとき、その人自身も同じ苦しみに胸を貫かれたはずだ。

 苦しみや痛みを伴う行為には、それを続けるだけの見返りが無ければならない。人間の生存本能が、少しでも安楽な方向に生きるように人を導いていくからだ。それはどんな人間でも同じ、遺伝子に組み込まれた意思であるはず。抗うことのできない絶対的な意思であるはず。

 その人は何を思い、何を見ていたのだろう。その人の心の柱とは、一体いかなるものであったのか。

 ふと、僕は考えた。

 もし…。

 もし、理由が無かったら?

 もし、何も求めずに他人に善意を施し、何も貰わずに他人に祈ることができたなら…。

 身震いした。もしそうなら、そいつは怪物だ。

 自分が理解できない対象を、人は怪物として畏怖する。では、その畏怖すべき怪物を崇め奉るAというのは一体何なのだ。

 全ての病める者のために…、全ての苦しむ者を…。

 復唱はまだ聞こえている。

 やめてくれ!僕はそんなふうにはなれない。

 僕にはAの説く信念なんてものは分からない。その男の行いに尊い信念など見出すことができない。

 僕はみんなみたいに教えを復唱するなんてことはとてもできない。

 なぜなら彼は、僕にとって怪物だから。


 叔母がハンカチを差し出してくれたとき、僕は全身にびっしょり汗をかいていることに初めて気がついた。

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