第5話



「正義実行せねばならん」

 昼食後、戦国武将のような口振りでそう放つ相沢に、僕は滑稽さを感じながらも、期待半分恐ろしさ半分の目を向けた。

 今年で中学生生活も最後となり、来年はお互い新しい環境で手探りに四苦八苦しているであろう身にもかかわらず、相沢には全く落ち着きもなく、不義を見つけては私的制裁を続けている。さすがに頭のネジが外れているとしか思えなかった。

 しかし僕は、奴の正義実行の現場までは立ち会っていたものの、それに何ら手を貸すことはせず、危なくなったらとっとと逃げ出していた。それもこれも、ただの暇つぶしにすぎなかった。

 相沢の他に僕が親しくしていた級友は、みんな真面目に勉強して高校に進学する予定だった。僕は彼らと違って就職するので、持て余す時間はたっぷりある。それが、僕の人生におけるやる気の無さを加速させていった。

「今度はどこの誰に何をするんだ?またポイ捨て男の家の庭に、そいつが捨てたゴミを投げまくるのかい?」

「違う、今回はもっとオオモノだ」

 相沢はククッと微笑んだ。笄蛭のような黄土色の眼が危険な光を放った。

「残りの話は放課後に、な」


 いつもより早く学校が終わった放課後。僕と相沢は、あの湿った匂いの家に向かって歩いていた。田んぼ沿いの道にはトラクターが落とした乾いた土が点々と続き、用水路からの淀んだ水の匂いが僅かに漂ってきた。空はどこまでも青く、夏の終わりを感じたセミが、命の限りの大音声を上げていた。

「…で、オオモノとは?」

 相沢が自分の考えを話すのを焦らすことは今までに無かったので、僕はいつも以上に身構えて話しかけた。

「ごめんな」

 相沢はククッと笑った。

「今回は、教室で話すのはためらわれた。ターゲットの顔が広いんでね」

「誰?」

「猫屋敷の爺だ」

 頭の中にあの気難しそうな顔が浮かんだ。

 この町一帯で一番大きな家にすむ老人。同時に、篤いAの信者でもある彼は、叔母とかなり親しい関係にあった。

 しかし、ある一つの問題により、彼は一部の人々からあまりよく思われていなかった。

「あの人を?まずいぞ相沢」

「なんで?」

 僕の言葉に、相沢はヘラッとニヤけた。

「あの広い家にどれだけのお手伝いさんが住んでいるかは分かるだろう。迂闊に手を出そうものなら、すぐに誰かに見つかっちまう」

「その点は大丈夫だ、古河君。あの爺自身に俺がどうこうするというわけではないのだから」

 相沢の話から、奴の考えていることがおぼろげながら分かった。

 一瞬視界が歪んだ。目眩を起こしたのだ。僕は手で額を押さえて立ち止まった。

「古河君?」

 相沢が心配そうに覗き込んだ。僕はかぶりを振り、相沢に自分の無事を伝えた。

 ひょっとしたら、今日、僕は一線を超えてしまうかもしれない。

「……まあ、詳しい計画は俺の家に着いてからだ」


 相変わらず、山小屋のような雰囲気の家。その隣に、半分くらいの大きさの、青く塗られたトタン波板の小屋があり、奴の父親が資材置場としている。

 その奥の壁に繋がれて、相沢が捕らえたという小さな獣がいた。

「こいつを調理する」

 相沢は何の躊躇も無く言い放った。いつ用意したのか、右手には何やら穏やかでない金属工具などを持っている。その冷たい光沢に、僕は思わず唾を飲み込んだ。

 小さな獣。全身は闇のように真っ黒で、海のような青い瞳をしている。首にはピンク色のチープな首輪が付けられ、そこに名前が彫られている。黒猫だった。

 体格は子供と大人の中間くらいか。首輪からは鉄製の細い鎖が伸び、小屋の壁につながれている。自らの置かれた状況を飲み込めないように戸惑ってこちらを眺めているが、威嚇する様子はない。相当人間慣れしているようだった。

「結構苦労したんだ。こいつを捕まえるの。三日三晩罠を張り続けて、ようやくってもんだ」

「なぜ?」

 僕は思わず、相沢に向かって、いや、自分に対してもそう投げかけた。数多くの意味を含む《なぜ》であった。

「なぜって言われてもな……。古河君、俺の家はこいつに散々荒らされたんだ。庭に糞はするわ、資材は傷つけるわ、屋根にできたツバメの巣は荒らすわ……」

「でも、お前よく見ろよ。首輪をしているってことは野良じゃない。飼い猫だぞ」

 小さな獣は、まるで自分がそうすることで人に己の愛らしさをアピールできると知っているかのごとく、小首を傾げて僕を見た。

 かわいそうに。お前は今、救いようもなく頭のイカれた人間に捕まり、どうしようもなくエゴむき出しの人間に裁きにかけられようとしている。でも、僕はお前をどうすることもできないだろう。お前を救おうとする心の動きすら、僕の中には起こらないからだ。なぜだろう。

「そう、野良じゃない。でも、こいつは個人の飼い猫でもない。だからこそ問題なんだよ。この町にうろつく、殆どの猫が同じデザインの首輪を付けている。そして、適切な管理もされずに、いろんな人の家を荒らしに荒らしているのだ」

「話が分かった。その飼い主があの爺さんなんだろう?それで、相沢はこの子に何かをして送り返し、爺さんに放し飼いさせたことを後悔させようという魂胆だ」

「古河君、ちょっと違う」

 相沢は例のようにククッと笑い、工具を地面に下ろし、小さな獣を威迫するかのように指をポキポキ鳴らせた。

「俺は、あの爺に後悔させてやろうなんて思っているんじゃあない。そんなことでは収まらないほど、俺の心は龍の如く猛りに猛っているのだ」

「たかが糞をされただけなのにか?」

「ふん、たかがじゃねえよ」

 相沢はチンパンジーのように歯をむき出した。

「確かに俺一人の被害は些細なものだ。でもな、同じような被害はこの町の至る所で発見されている。でも、俺達被害者の苦情は封殺されざるを得ない。なぜだか分かるか?」

「爺さんが聞く耳を持たないからだろ」

 僕は相沢の激情に辟易し、あらぬ方向を見ながら後ろ髪を弄った。

「あの人はずっと前からそうらしい。とは言っても爺さんの老い先短い酔狂だよ。大目に見てやらないと。寛容になれよ」

「違う。放し飼いするのが爺一人だけの行動なら話は早い。被害者が結託して、法的なアクションを起こせば良いからだ。でも、爺は狡猾だった。猫好きの同士を集め、先立って行動し、公認の活動としてしまったからだ。《地域猫》だって?馬鹿な話だ。地域の総意のごとく言いやがる!この地域の何%の人間があの活動を認めていることか。全住民に深く関わることなのに、住民投票も経ずに事が進んでしまったのは、あの爺が市議達に太いパイプを持っていることも大きいだろうが、それだけじゃない。古河君、見ろよ」

 相沢は携帯の画面を僕に突き出した。わざわざ見るのも億劫だった。僕はあらぬ方向を向き続けた。相沢は構わず続けた。

「ネットにホームページまで作ってやがる。周知活動と周到な根回しを絶え間なく繰り返すことで、たった数年で既成事実としてふんぞり返って放し飼いができるようになっちまった。もちろん、猫が嫌いだとか猫の被害に迷惑を感じる人を連中は見てはいない。曰く、猫は元々野生動物なのだから、被害は大目に見るべきなのだと、むしろ地域猫活動によって個体数を調整しているのだと。詭弁だ!人間から餌をたらふく貰って、何が野生動物だ。日々の糧に時間を割かなくても良くなった猫どもは、いたずらや糞尿の生成に精を出すようになっちまう。そもそも、個体数の調整をお題目に掲げるなら、何も餌やりをやる必要はない。去勢してただ野に解き放てばいいだけだ。それでも餌をやりたいという意思、これがなんともおぞましいね。糞尿その他育成に関わる責任も取らずに猫を愛したいのか。餌をやって得られる僅かな刹那的快楽のみをむさぼり、後に生まれる迷惑に想像を及ばせることができないのか。個体数の調整。これが眉唾だ。仮に見かける猫を手当たり次第に去勢していったとしても、餌をやり続ける限り、他の地域から新たな猫を呼び寄せる原因となるだろう。未去勢の猫同士が繁殖行為を行い、さらに猫の生息密度が上がっていく。本来なら、食いっぱぐれた個体から死滅し、自動的に数が減っていくはずが、人間が餌をやるためにそれが起こらない。明らかに前よりも増えている猫の数を爺達は見て見ぬふりをしている。毎日餌をやっているのに、気づいていないはずがないからな。俺は一度、公園で餌をやっている一人のオバサンに文句を言ったことがあるが、まるで話しにならなかった。ほとんど爺やその仲間の私物じゃないかと突っ込んだら、本来は猫というのは放し飼いが当たり前だのと、話題のベクトルをまるっきり変換されてしまった。《本来》ってなんだ?本来、人類は服など着てはいなかった。本来の姿では気候の変化に対応が難しいからこそ、服を着るようになったんじゃないか。法律も、自動車も、携帯電話も、どれも本来は無かったものばっかりだ。《本来》が無条件に良いのではなく、今現在の状況で、何が良くて何が悪いかを逐一考え続けることが重要なんじゃないのか。ふん。そのオバサンに正義実行することは容易かった。さっき古河君が言ったようなこと、つまり、猫に細工をして、そいつの家に放り込んでやったのさ。オバサンの一家は慌てて引っ越していったよ。ハハ」

 マシンガンのような相沢の怒りの言葉を僕は殆ど聞いていなかった。全く別のことが頭を支配していたからだ。

(なぜ、僕は相沢と親しくなったんだろう)

 客観的に考えて、正義実行をするときの相沢は胸糞悪くなるような人間だ。こんなことを続けて、じきにこいつが破滅に至ることも確実だ。

 なのに、なぜ?

「……話は長くなったけど、そんなわけで俺はこいつを調理する。爺が取り分け気に入っているという噂のこの黒猫だからこそ、大きな意味があるのさ」

 小さな獣は、マアだかナアだか鳴いて相沢の言葉に呼応した。「調理」という言葉が、今目の前の微笑ましいとも言える光景に対してなんともちぐはぐな雰囲気を醸し出した。

「あざみ」

「え?」

 相沢は不意を突かれ、大きな目を更に大きくして僕を見た。

「首輪に名前が彫ってあった。あざみって言うんだ。その子」

「ああ、知ってるよ。俺も見たもん。でも、いきなりなんだよ?」

 意図を汲むことができずに、相沢は不満そうに僕を見た。僕もまた、相沢を見ながら沈黙を守り続けた。沈黙は、数十分も続いたかのように思えたが、実際は二、三分かそこらだったのだろう。相沢が再び口を開いた。

「ところで古河君。轢死、焼死、縊死、溺死、感電死、いろいろあるけれど、君はどれが良い?」

 気だるい僕の人生で、まさかこんな質問に答える時が訪れるとは僕は思わなかった。

「溺死」

 醜悪なモノは見たくはなかった。

「正解だ!」

 相沢は尊大に言った。

「俺もそうしようと思っていたんだ。後々のことを考えて、ね…」


 業務用の青いバケツになみなみと入れられた水。人間の幼児くらいなら容易く入るほどの大きさである。

 水はどこまでも青く澄んでいて、無垢で、人の罪などとは全く無関係のものであるように感じられた。

 小さな獣は、今度は僕の方をじっと見つめている。僕も近寄り、それをじっと眺め返した。

「古河くぅん、そいつの首輪を外してこっちに持ってきてくれ」

 ウキウキと心ときめいた様子の相沢の声がこちらに投げかけられた。振り向くと、バケツの中に、別のバケツから氷を放り込んでいる奴の姿が見える。

「……ああ」

 ゆっくりと、僕はハサミを持つ手を小さな獣に伸ばした。

 鈍い金属光沢に、あざみは一瞬びくりと体を震わせたが、すぐに全てを委ねる表情で視線を落とした。

 僕は獣の首輪を切り、無機質にそいつの首を掴んだ。柔らかい手触りと、生命の尊い鼓動が伝わってきた。

 しかし、そこには何の抵抗もなかった。

 相沢が要求し、僕がそれを応諾したことで、すべての抵抗は終わったのだ。

 相沢が正義実行を直接僕に手伝わせたことは今まで一度も無かった。奴がそれを意識してかしないでかは分からないが、僕はいつまでも傍観者で居るつもりだった。いつまでも奴の罪とは無関係であり続けるはずだった。しかし今日、その一線を容易く超えさせてしまったのは、相沢の持つ狂気の伝染によるものだったのか。それとも…?

「暴れる?」

 不自然なくらい優しく相沢が尋ねた。

「いや、全然。むしろびっくりするくらいに大人しい」

「去勢されてるからな。去勢されると、やる気や集中力が根こそぎ奪われるそうだ。残酷なもんだよ。人の身勝手というものは」

「でも、生き物の姿や行動を変質させて管理することは、ずっと昔から人間の手でおこなわれてきたじゃないか。畜産然り、農業然り、製薬然り」

「その通り。残酷だからと言って、それは人の世の繁栄には欠かせないものだったことは間違いない。人は、人の利益になることならばどんなことでもやるべきだよ」

「そこには他の生き物の利益が入る余地は無いと?」

「うん。人は人同士の利益折衝で手一杯なんだよ。近所付き合い等のミクロなレベルから国家間のレベルまで、人が満足に利益を分け合うことはどんなに難しいことか。そこに他生物の福祉というファクターを加えたらどうなる?その分配は膨大な煩雑さを産むことになる。事態の収拾をつけることは不可能と言っていいだろう。そもそも、何を以て他生物の弁を代表するのか。人間に他の生き物の何が分かるのか」

「人間には他の生物の意思をつかむことは出来ない。人間が良かれと思ってやることが、他の生き物の利となるとは限らないってことか」

「うん。だから自分勝手な生物で良いんだ、人間は」

 そんな会話を交わす間に、とうとう僕はバケツの前まで来てしまった。


「ほい」

 まるでテーブルの上で食卓塩を渡してもらうかのように、相沢はのんびりと僕に手を伸ばした。

 ここで、僕が相沢に獣を引き渡すまでにどれほどのためらいがあったのか、僕ははっきりと覚えていない。それは一瞬のようにも思えるし、わずかなためらいの時間があったのかもしれない。

 例えば、この生き物を持って小屋を出て、川の土手にでも連れて行って逃がすという選択肢は十分に実現できた。だが、結局僕は奴に無垢の獣を渡した。《あざみ》をこの手で引き渡した。

 鮮烈な罪悪感が体を支配した。

 そして、その罪悪感に伴う、何か満たされたような気持ちが、確かに僕の中に存在した。

 あの日、公園で子猫を地面に叩きつけて殺したときと同じように……。

 相沢は左手であざみを受取り、そのまま青いゴム手袋をした右手で獣の首を掴んで左手を離した。

 小さな獣はマアだかナアだか鳴いた。

「さあ」

 相沢はククッと笑った。

「正義実行だ」

 言うと同時に相沢は左手にナイフを持ち、小さな獣を地面に押さえ、その頸動脈の辺りにナイフをシュッと素早く走らせた。みるみるうちに猫を押さえた地面が紅に染まっていく。あざみが弦楽器のような奇妙な声を上げた。

 そして相沢は、間髪入れずに獣をバケツの水の中に掴み入れた。

 バチャッと水しぶきの上がる音がした。

 僕はただ呆然と、相沢が暴れる獣を必死に押さえつけるのを眺めることしかできなかった。

 氷の入った冷たい水は、獣のわずかの体力を瞬く間に奪っていった。それでも、弱々しい抵抗は何時間も続いたように僕には感じられた…。


「…終わったよ、古河君。覗いてご覧」

 おそる、おそる、バケツの縁に近づき、中を見た。

 黒っぽい物体が、赤黒い水の中をゆっくりと浮き沈みしていた。

 四肢を力なく投げ出して水底に顔を向けた獣は、なぜか、十字架に磔にされている人のような姿に見えた。これでもう、あざみはあざみでは無くなったのだ。

「さささ、これからが忙しくなるゾオオオ」

 口笛でも吹かんばかりに、相沢は喜びの鬨の声をあげた

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