第4話


 どんなに一緒に行動することを重ねても、相沢の行いはいつも僕を驚かせた。


 初めて訪れた相沢の家。父親との二人暮らしだそうで、家はそれ相応に適度な荒れ方をしていた。

 家の中は木材の湿った香りと僅かな埃の匂いが混合されて漂い、僕の鼻腔を刺激した。それは雨の日の山小屋を思わせた。

 

 相沢の部屋は、その人物像を的確に表すかのように無秩序なものだった。

 コンクリ打ちっぱなし風の壁にはアメフト選手のポスターとモーツァルトの肖像画が並列し、更紗の派手すぎる赤いカーペットは無機質な壁の様子と調和していない。部屋の隅に追いやられた週刊漫画雑誌の山の中に科学雑誌とグラビアが顔を見せ、かと言って本棚には本は無く、代わりに水晶と木彫りの人形が並べられていた。人形はどれも精巧で素人目でも技術力を感じさせるものであったが、人が作ったにしては意匠が細やかすぎる上に、そのモチーフが悪霊のようなものも有り、不安な気分にさせられた。鮫の顔をした蜥蜴や、足が六本、腕が四本の幾何的な顔の人間と否でも応でも毎日目を合わせているであろう相沢が僕には理解できなかった。

「数学は悪くなかったんだけどなぁ…」

 そんな部屋の中でも、僕と相沢は中学生らしい他愛無い会話を始めた。定期試験も終わり、二年生である僕達の中にも試験の点数を気にしすぎて塞ぎ込む手合いが出始めていた。僕はと言うと、叔母との相談の上で中学を卒業後就職することが決まっており、試験に執着することもなく気楽に過ごしていた。一方進学する相沢は、僕以上には気にしている様子だが、それでも正義実行のほうが大事らしかった。

「国語なんて頑張ってもアホみたいだ。ちっとも点数は伸びやしない。その人の気持ちを答えよなんて言われても答えようが無いじゃないか」

「勉強法が間違っているんだろ?教科書を読んで、漢字を覚え、板書の内容を理解する。それだけだよ」

「板書の内容なんて理解できんよ。古河君はできても、俺には無理だ。それに、人の気持ちなんて、実際に同じ立場に立たされなきゃ分からん。XがY、ゆえにZみたいな明確な論理の無い学問は学問と言えないんじゃないか?俺はあれを学問とは思いたくない」

 深いところで他人の気持ちが分からないんだろうな、と相沢の弁を聞き僕は思った。しかし、かと言って僕に他人の気持ちをどれだけ分かっているかと言われれば、自信は無かった。国語で問われるのは、ケースバイケースな人の気持ちそのものではなく、倫理的な共通認識、つまり、《お約束》としての人の心の応答なのだから、それを突き詰めるのは学問の一種ではあるだろうと僕は一人で結論づけた。

「今度、また国語や英語を教えてくれよ、古河君」

 驚くほど純粋な笑顔で相沢は僕を見つめた。

 正義実行に関わらないところでは、他人に対しては素直な面も見せる。では、なぜ正義実行と称して自分勝手な価値観で他人を傷つけるような真似をしてしまうのか。付き合えば付き合うほど、僕には相沢という一人の人間のことがよく分からなくなっていた。


「これ、何だと思う?」

 少し会話に疲れ、間が空いた後。擦り切れたリュックサックから白い何かを取り出し、ごろんとカーペットに横になって漫画雑誌を読む僕に向かって相沢は誇らしげな表情を作った。

 樹脂製のそれは水鉄砲のように見えたが、本棚の木彫りの人形と同じように細部まで作り込まれていて、おもちゃというよりもっと精密なものであることが伺えた。

「使えるんだ。これ」

「使える?」

 僕は怪訝な目で相沢の口元を見上げた。

「うん。ピストルだよ。しかも、オーダーメイド」

 相沢は引き金の部分に人指し指を入れ、クルクルと回した。

 僕は思わず飛び退いてベッドに背をぶつけた。

「危ねえよ、本物なんだろ?」

 もし他の少年だったのなら、まさかそれを本物とは思わなかっただろう。しかし相手が相沢なら予断は許されない。

「古河君、大丈夫。弾を入れてない」

 ククッといたずらっぽく相沢は笑った。

「弾は貰っていないからさ」

 話に聞くと、奴の父親の知り合いの、精密な立体プリンターを扱える町職人に密かに依頼をしたという。頼む方も頼む方だが、作る方も作る方だ。《使える》そうなのだから、銃刀法違反は間違いない。

 しかし、弾が無いなら使えるかどうかもわからないんじゃないのか?もしかしたら、弾は既に入っているんじゃないか?腕のある職人なら、銃が作れて、弾が作れない理屈があるか?

 相沢に渡してもらった銃を、僕はまじまじと眺めた。材質の割に質量感があり、銃など扱ったことも無い僕でも、その攻撃力の高さを想像させられるほどの説得力があった。

「もし弾が手に入ったら、これを正義実行に使うつもりなのか?」

 僕は相沢の真意が知りたかった。もしこれで正義を実行するなんて抜かすのなら、絶交するつもりだった。

「いやいや」

 相沢は慌ててかぶりを振った。

「あり得ない。俺の望む正義実行は、もっとねちっこく、もっと執拗で、もっと持続的なものじゃないと駄目なんだ。銃で撃ってハイ終わり、なんていうのは裁きの方法として下の下だよ。古河君」

「じゃあお前さ、なんで僕にこんな物を見せたんだ?これを見たせいで、いつかお前に撃たれるんじゃないかと、僕は怯えなきゃならんのだけど」

「それはね、君にあげようと思ったんだ」

 相沢はククッと笑った。

「冗談じゃない!」

 僕は思わずベッドの上に銃を放り投げた。そして、怒りを装って相沢に食って掛かった。

「こんな物を持っていたら、身の破滅だ!」

 しかし心の中は、その演技ほど怒りに燃えているわけではなかった。人を簡単に殺せる道具を前に、不思議なほどに恐怖や義侠心にかられないのは、彼女ならそうするであろうという叔母に対する反発心のせいだろうか?

 相沢はひょいとベッドに飛び乗り、大事そうに銃を拾い上げた。ベッドのスプリングがギィと微かな鈍い音を上げた。

「せっかく知り合ったんだから、受け取ってくれてもいいだろう?なに、今すぐ誰かに使えってことじゃないし、誰にも見せずに机の引き出しの奥にでも仕舞っておいてくれて構わない。でも」

 銃身を持ち、奴はグリップ部分を眼前にスッと差し出してきた。

「人生でどうにもならなくなった時、これが君の助けになることを祈るよ」

 祈り。相沢の祈りは教会での叔母や信者達の祈りとはまるで違う、悪魔の誘いに他ならなかった。事実、僕は魔力に惹きつけられたように、グリップから目をそらすことができなかった。

 そのときなぜか、「銃に弾が入っていない」という相沢の弁が、まるっきり嘘であることが感じられた。根拠ない感覚であったが、銃を間近に見たとき、そう思わざるを得ない威圧感が僕を支配したのだ。

 奴の信念と価値観が、為す術もなく僕の身を巻き込み、飲み込むのを感じた。

 かつて僕は、奴が自分には到底持ち得ないような強固な信念を持っていることを憎んだ。

 そして今、人を容易に殺傷する凶器を目の前にしながら、燃え上がるような、こみ上げるような感情になんら支配されない、生ぬるい僕の心をも憎んだ。

 僕は、相沢から拳銃を受け取った。


 その夜遅くに家に帰ると、叔母がダイニングテーブルで筆を走らせていた。

「…遅かったですね」

 世間の荒波に疲れたような声で僕にそう呼びかけると、叔母は冷蔵庫にある夕飯の在り処を案内した後、再び顔を下げて執筆に向かった。Aでの仲間の葬儀でスピーチをするのだという。

 生真面目な彼女には行きあたりばったりのスピーチなど許されないのだろう。原稿にはいくつもの赤筋が走らせてあった。

 その葬祭で、彼女のスピーチに耳を傾ける人間がどれほどいるのだろう。もしかしたら、同じように出席したAの信者の中でも親しい友人以外は誰も聞いていないのかもしれない。それでも彼女は稿を練り直す。何度も何度も練り直す。そういう愚直さに、僕は言い様のない嫌悪感を覚えた。

 相沢に底知れぬエゴイズムの怪物が潜んでいるのと同じように、叔母の愚直さと杓子定規な献身にも、僕に理解できないものが潜んでいるのだろう。それはAの神が与えたものだろうか。それとも、Aの教えと彼女の資質が混じり合って昇華した末にでき上がったものか。それは誰にもわからない。

 叔母に潜むその何かは、彼女の人生を決して幸福な方向には引っ張ってくれなかったであろうことは、山辺や祖父母がかつて僕に教えてくれた彼女のエピソードから想像できる。叔母は、その信念のあまり、人と衝突をしたり、孤立することを余儀なくされたことも多かったという。ただでさえAは日本人には馴染みの薄い宗教だ。融通を効かせず、そのAの教理を頑固に通そうというのなら、他者との衝突は免れない。

 もし心の柱が、その人に試練や苦難ばかりを与えるのならば、人はそれから距離を置き、自分を見つめ直すことが必要なのではないのか。

 信念というのは、本当に人を幸せにするものなのだろうか。

 ふと、彼女に今、相沢の家での顛末を聞かせたならば、どういう反応をするのだろうかという問いが頭に浮かんだ。それは非常に簡単な問いだった。きっと彼女は、杓子定規に僕達を怒り、杓子定規にAの教えを復唱することで説得しようとするのだろう。そして僕は、彼女に抱いている矛盾を暴露することもせず、意思のない笑みを浮かべながら話に頷き、次の日には説教の内容をことごとく忘れてしまうのだろう。

 僕の頬に皮肉な笑みが浮かんだことに、原稿に顔を向ける叔母は気づかない。

 僕がAの教理を信じなくなったことに、叔母は決して気づいてくれない。

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