第3話


 叔母がAの信者となったのは、彼女がまだ幼いときだったと聞いた。しかし、その信仰心がいや増したのは、子供が産めないと判明したとき以来だという。

 叔母は毎日、太陽がまだ地平線に顔を出す前に目覚めると、あくせくと支度をして教会に訪れ、祈りを捧げた。

 けれども僕は、彼らAの教徒達には馴染むことができなかった。初めて彼らの週末の集いに参加したとき、僕にはその雰囲気が何か異様なものであるように感じられたのだ。また、意志の弱い僕にとって、自分を厳しく律する事を要求されるAの教義は、己に課すには重すぎたという理由もある。

 しかし、叔母は僕を週末の集いに欠かさず誘い、その誘いを断る動機も熱意も無かった僕は、度々一緒に、あの荘厳で、日本の町並みに対して異邦人的な建物へと向かうことになった。

 そんなわけで、僕はAの信者にはならず、そうかと言って、Aと全く無縁というわけではなく、なんとも煮え切らない態度を取り続けた。


「他人を愛しなさい、信じなさい」

 僕が初めて顔を出した彼らの集いで、神父は高らかに聴衆に説いた。

 聴衆を見渡すと、町内の知っている顔がちらほらと散見された。その中には家庭内暴力の噂のある神経質そうな眼鏡の男や、町内会で派閥を作り、睨みを効かせているご婦人の姿があった。

「他人を愛しなさい、信じなさい」

 大きな高い天井を持つきらびやかな内装の聖堂。椅子はあくまで規律正しく並び揃い、秩序の勝利と神への礼賛が表されている。その中で、大勢の信者たちが、神父の言葉を復唱したり、うん、うんと首肯したりしていた。場は一体感に包まれていた。各々の信者が、己の信仰の矜持を競い合っているかのようだった。

 それでも僕だけが不満だった。人に圧力を与えたり苦しめたりしている人間が、その言葉を聞いて感銘深そうに頷いている。今思えば傲慢な考えなのだが、そのときの僕は、バカバカしさに支配されてその場に居ることが恥ずかしくなった。

 叔母は連中の存在に気づいているのか。気づいているならば、黙って神父の教えを聴いているよりも、彼らに正しき道を歩むように諭すほうがAの信念として正しい行いなのではないのか。それとも叔母は、その連中が悪いことを何らしていないという自負(彼らは仲間内では謙虚に徹し、自身の噂を笑い飛ばして否定していた)を頭から信じているのか。もしそうだったら、それは愚かなだけだ。

「他人を愛しなさい、信じなさい」

 だが、叔母は僕のかすかな非難の視線に気づかずに、神父の言葉一つ一つに対してうん、うんと首肯してみせた。何も気づかずに、僕が不義であると心の内で非難する者達と肩を並べてAの神に祈りを捧げるのだった。



 だが、僕の持つ疑いと批判の目は、何も叔母や山辺だけでなく、僕自身の性質にも鋭く注がれた。

 生来、僕は何かに燃え上がるような心を持てない人間だった。友達と遊んでも、友人達が遊びに白熱している様子を尻目に、叔母の定めた帰宅の定時には間に合うように、別れを告げ一人帰った。長期休みを機に、何か一つのことを目標に立てて努力しようとすることはあったが、結局途中でそれを頑張ること自体を不毛に思い、諦めて達成できたことは一度もない。

 大人達からは冷静だの落ち着きがあるだの褒められることも多々有ったものの、必竟それはどうしようもなく生ぬるい僕の心の問題であり、だからこそ僕はAの信者達の(全員が全員、真に純粋であるとは言えないかもしれないが)篤い信仰心に尻込み、拒絶の意を抱かざるを得なかったのだ。しかし、僕が嫌悪を示したのは、むしろ自分自身の心境それ自体であったことに疑いはない。


 中学校に入り、僕は、自らの意志の弱さややる気の無さと決別したいとなおさら強く思うようになった。疑い、憐れみながらも、叔母の一貫した信念のある生き方に対して羨望を抱いていたのだ。

 しかし、そう都合よく転機が訪れるわけでもなく、ぼんやりとした生き方を続ける僕は、学年を上がったときのクラス替えで、相沢という男に出会った。

 相沢は、今まで会ったどんな人間よりも狂犬的で視野の狭い男のように思えた。

 特に体格的に優れているわけでもなく、成績が良いわけでもなかったが、相沢は自分の気に入らないものに対して何にでも噛み付いた。教師の長話が昂じて教科書の内容からかけ離れて居るようであれば、挙手をしてそれを指摘し、いじめを見れば加害者に食って掛かり、時には校長のスピーチの内容に不備があるとして、猛進して校長室に突入しかけたことがあった。

 そのような相沢の激しすぎる性格は大多数の人間には受け入れがたく、彼は常に一匹狼だった。しかし奴は、それを全く意に介さず、大股で堂々と廊下を歩くのだった。


 部活が終わり、夕闇の帰路に自転車を走らせていると、ふと僕は、誰かが目の前で路駐の車に何かをしているのを見かけた。相沢だった。僕はペダルを漕ぐ足を止めた。

「よう、古河君」

 ほとんど話したこともないのに、相沢は僕に気づくと幼年からの友人のように気さくに挨拶を投げかけてきた。それを聞き、僕はやっぱりどこか風変わりな奴だと警戒心を強めた。

「古河君の家も、こっちの方面なのか」

「そこで、何してんの」

 なるべく無感情によそよそしく、僕は言った。

「この車、邪魔だったんだ。前から」

 まるでおもちゃを扱うように、相沢は車のドアガラスを手の甲でコツコツと叩いた。

「通りが狭いのに、ずっと前から時々ここに止まっているんだよ。これじゃ、向かいから他の車が続けて来ているときに、人が通れない」

 ふと見ると、相沢のもう片方の手に、なにかビニールに入ったゴミのようなものを持っていた。

「それは?」

 僕はそのゴミを指差して言った。

「鳥餌だ」

 奴はにやりと片頬に皺を作った。奴の肉食獣のように大きな目は、笄蛭のような黄色く妖しい光を湛えていた。

「野鳥用のエサだよ」

「エサ?」

 僕は相沢の頓狂な答えに面食らった。

「正確には、鳥餌をゼラチンでゼリー状に固めたもの。こいつをこの車に塗りたくれば、翌朝…」

 相沢はククッと笑った。

「鳥糞のデコレーションができ上がる」

 なぜ相沢がそんな面倒な準備をしてまで車の持ち主に嫌がらせをしたがるのか、僕には理解できなかった。車が邪魔ならば警察に通報して注意してもらうか、車の持ち主に見えるように車体に張り紙をすればいいだけだ。

 穏便かつ円滑な解決法を選ぶのが自分にとって最も得をする判断だと僕は思っていたが、相沢にはそれが思い浮かばなかったのか。

「そんなんじゃ、ダメだろ」

 僕がそのことを話すと、相沢はすぐに否定し、ゼリーを手ですくってフロントガラスに投げた。べちゃりと鈍い音を立てて、ゼリーの半透明な白さがフロントガラス一面を支配した。

「そんなんじゃ、今ここにこの車を止めた罪はどうなる?平和に解決したようでも、狭い通りで交通を妨害した過去は消えないんだぞ」

「妨害なんて大げさな…」

 僕は呆れてそう言うしか無かった。

「いいや、妨害だね」

 相沢はフンッと鼻を鳴らし、断固として言った。

「現に古河君も、向こうのガードレールいっぱいまで避けて通ろうとしたじゃないか?つまり、そこまでしなければ通れないような狭さだったというわけだ。もしこれが妨害じゃないなら天地がひっくり返るね」

「仮に妨害だとしても、許してやることはできるだろ?警察に注意してもらえば二度とは停めないに違いない。そもそもここは駐禁場所じゃない」

「確かに駐禁場所ではない。それが問題な、ん、だ!」

 相沢はリズムよくゼリーを車にぶち当てた。

「現行法ではこいつを裁けない。罰則がなければ注意しても拘束力が無い。拘束力が無ければどうなる?自分勝手な生き物はまた同じことを繰り返すかもしれない。だから、『正義実行』だ」

 正義実行。小児アニメのイデオロギーじみたおかしな事を口にするんだな、と僕は思った。

「バレたらどうするんだ?説教じゃ済まない」

「大丈夫」

 相沢はククッと笑った。

「この時間帯は薄暗くて顔なんてはっきり分からない。加えて学ラン姿に学生カバンの格好では誰が誰なのかなんていう区別もつかない。見つかっても逃げ出せばいいだけさ」

 相沢の弁は大げさで独断的であり、私的制裁を禁じる社会のモラルに対しても反していた。しかし、自信満々に陰湿な行為を行う彼の笑い顔に、何か惹かれる物があったのは間違いない。

「他人を愛しなさい」

 かつてAの集いで、立派な身なりの神父が説いた言葉を笑い飛ばすように、相沢は残り全てのゼリーを車体にぶちまけた。水銀灯の光が、車全体を水棲生物の表皮のようにテラテラ輝かせていた。

 その日から、相沢と僕は度々行動を共にするようになった。


 相沢の価値観・人生観は独特だった。

「なぜ、古河君は正義の実行を我慢する必要があると思うんだ?」

 学校の帰り道。立ち寄ったコンビニで買った菓子パンを頬張りながら、相沢は僕をまじまじと見て続けた。

「善や正義と言うのは、己の中の道徳性が決める良き物事のあり方だろう。物事は何でも悪い状態より良い状態のほうが望ましいに決まってる」

「それは、自分だけの哲学を人に押し付けることにならないか?」

 唐揚げを頬張りながら僕は尋ねた。コンビニの唐揚げは過剰なくらいに塩辛く、中毒的な味わいが僕をしばしば虜にした。それは叔母の作る健康的で薄味な食事からは決して得られない快感を秘めていた。

「哲学という言葉は、俺は好きじゃない。それは主観に対しての真理や合理性の追究であり、科学に属するものだからだ。人の道徳性やそれに基づく意思決定は何も主観によってのみ決められるものじゃあない。だから、より広範な意味を含めて自分だけの科学と呼ぶべきだろう」

 相沢はそう言いながら、菓子パンの包装紙をくしゃっと丸めてポケットに押し込んだ。

「話はそれたけど、もし仮に、俺が正義を実行し、他者がそれを押し付けと感じたところで俺は一向に構わない」

 夕刻、誰も通らない小さな川沿いで、ねじ巻き機械人形のように淡々と歩を進めながら議論はかわされた。

「お前が正義を貫いたところで、それのせいで他にいろいろ問題が沸き起こったらどうするんだ?例えば、バレて恨みを買ったら?バレなくても、そいつに逆上されて事態が一層悪くなる可能性もある」

「何に重きを置くか、だよ。古河君。正義を通せないで悶え苦しむことを憎むか、正義の副産物として起こる些末な問題に苦労することを嫌うか。後者を選べば平穏な日々は約束される。けどな、ククッ」

 道端の小石を思いっきり川面に蹴り飛ばして相沢は言った。

「心には一生の後悔が残る」

 《後悔》と聞き、僕はなぜか教会で祈る叔母の姿を思い描いた。信念のままに生きて、周りの目を気にせずとも己を充実させる者がいれば、強迫的とも言える信念に身を任せても、不幸で、後悔に身を沈める日々を送る者もいる。

「お前、これから先も自分だけの正義感に振り回されて生きるのか?その正義感は本当に社会に通用するのか?敵も増えるだろう。なにより、人を理解し容認できないと、自分の理解者も増えない。本当に弱った時に誰も助けてくれなくなるぞ」

 相沢は確かに強い奴だが、僕は奴の将来が心配だった。同時に、強い信念に人生を預けることに対しての不安と懐疑の心が、僕にそんな言葉を発させた。

「社会に通用しなくても良い。どうにもならなくなっても良い」

 相沢は真顔だった。

「何もしないで、何も思わずに生きるより、ずっと素晴らしいだろうよ。古河君」

 僕は確かに相沢と親しくなった。だがそれで、僕は一体何を得ようとしていたのか…。

「それに、世界は平等であるべきと俺は考えている。だが、誰かが悪の行為を為せば、そこには偏りが生まれる。だとすれば、俺達一人ひとりが世界の意志となり、それを是正しなければならない。不義を滅ぼすのは、正義だけだ」


 分かれ道に着いた頃には辺りはすっかり暗くなってしまった。相沢と手を振って別れた後、地平線の上には、威圧的なほどに赤黒い真円の月が浮かび上がっていた。

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