第2話
「他人を愛しなさい、信じなさい」
そう言った叔母の目は、冷たく諦めに満ちていた。
5歳の時に僕は事故で両親を失い、同じ町に住む叔母の家に預けられた。
物心付いた時以来、僕は彼女を不幸で救いのない女性として憐れんでいた。彼女のことを実の親のように素直に慕うことのできなかったのは、僕自身の気質のせいのみならず、彼女の方が僕に距離を置く姿勢があったからだと思う。
その口で他者への愛を説きながらも、叔母の言動に溢れ出んばかりの真実の愛を感じたことは一度も無かった。僕の身の回りの世話をしたり、教会のボランティア活動に参加したりするとき、彼女は驚くべききめ細やかさで配慮の行き届いた行動ができるのだが、その眉間にはいつもかすかなしわが寄っているのだった。
叔母が示す善意の行動と言うのは、彼女の内より湧き出る愛の証明では無く、外付けされた愛情表現を忠実に実行しているに過ぎないのではないか。僕はいつしか彼女をそう疑うようになってしまった。
彼女にとっての心の柱は、教会で司祭が彼女に説く一つ一つの教えによって構築される、彼女の信じる「A」という名の宗教の教理そのものだったのかもしれない。それは、彼女の一生を決して幸せにはしなかったのではないかと、今でも深く考えることがある。
叔母には子供が居なかった。
体質として、子供を授かれない体だと医師が叔母達に宣告して間もなく、彼女の夫は去っていったという。夫と言っても法的な婚姻関係には無く、夫婦だと思っていたのももしかしたら叔母の方だけだったのかもしれない。
叔母の両親で僕の祖父母は資産家であったため、叔母の元夫は、別れた後も何度かカネを無心するために家にやって来た。
小学生のときだった。ある日、叔母が留守のときにやってきた男に対し、僕は尋ねたことがある。
「山辺さんは、なんでおばさんと別れたの」
山辺は窓の外を眺めながら携帯をいじっていた手を止め、僕の方を向き、頬にこわばった感じの笑いを浮かべた。
「瑞穂のことか。決まってる、責任を果たしていないからだ」
「責任?」
「すべての生物が持たなければいけない責任。子孫繁栄の責任。生物学的責任」
まるで叔母が生物として失格であるというような口振りで、山辺は断定的に言った。その価値観は、僕がこれまでに様々に触れた一般的な倫理道徳に対してまるで異質なものだった。しかし異質であるがゆえに、僕は好奇心にかられて追及した。
「おばさんのことが好きだから、一緒に暮らしてたんじゃないの?責任なんて関係ないよ」
「ああ、最初はそうだった。だが」
男は決して広いとはいえないアパートの洋室をゆっくりぐるぐると歩き始めた。
「なあ信人。責任を果たしていないということはな、罪なんだ。生きとし生けるものはみな、命のバトンを繋いでいる。親から子へ、子から孫へと命を繋ぎ、それを以て人類の進化の歴史の一端を担うことこそ人間の本質なんだよ」
「進化って?」
「例えば科学、芸術。人間が情報生物たる所以として、高度な知識の伝達能力や保存能力が挙げられるが、その集積物である歴史の成果物、つまり人間という種全体として持つ無形の財産を増やしていくことが進化だ」
「それと子供を産めないことに、何の関係があるの?」
「簡単なことじゃないか」
男はフンッと鼻息を鳴らして腕組みをし、僕を見た。軽薄そうなその身なりに反して、男の目は沼のように濁っていた。
「子孫を残せなきゃ、この人類の偉大なる進化の営みに関与することができない。そいつ自身が科学者や芸術家であるなら話は別だがな。個としての価値が無い俺達小市民の身としては、人類の歴史をなるべく存続させ、多様化させながら、未来の才能ある科学者や芸術家が出現するのを待つことしかできない。それが人類の進化に対する責任だ」
男は長い髪のサイドをかきあげ、にやりと笑って言った。
「そういう意味で、子を産めない、不妊治療も受ける気がない瑞穂は無責任だというわけだ」
まるで何度も同じセリフを言ったことがあるような様子だった。僕は口をつぐんで何も言わなかった。
山辺は勝ち誇ったように鷹揚とあぐらをかき、テレビを点けて自然ドキュメンタリーなどを見始めた。
「見ろよ、信人。この峠からの景色。この絵画のような紅葉の色づき。新鮮でうまい空気が視覚だけで伝わってきそうだ」
もはや先程議論した内容もしたこと自体も忘れ、山辺はごろんと横になり、テレビに夢中になっていた。
「自然はいいなあ。俺、来世は山猿になりてえよ。好きなだけ山を駆けてさ、時々温泉に入ってさ……」
しかし実のところ、山辺の理屈は僕にとって支離滅裂だった。
最初は生物学的責任などと言って、人間を含めた生物全部の話であるような文脈だったが、次第にそれが人間だけの話にすり替わる。科学者や芸術家より「小市民」に価値が無いなんて傲慢な思想だ。そして、小市民なら子孫を残す方法でしか歴史や進化に関与できないなどと、偏屈なことまで主張する。
「おばさんがそんな責任も持てない人なのだったら、カネをせびるなよ」
その後、少し成長した僕は、あの日の問答を思い出して山辺に悪態を吐いた。
すると、男は笑って
「瑞穂に対して俺が許せないのはそこだけな。それ以外の部分では、むしろ彼女を尊敬しているんだよ、俺は」
と言い返した。
しかし、山辺と僕の関係はそれほど険悪なものではなかったし、男は遊びや食事に僕を度々連れて行ってくれたので、叔母を悪く言う山辺を僕は憎まなかった。しかし、根底の部分では男の本質を軽蔑していた。
思うに、この男の心の柱は、もっともらしい理屈で自分の行為を正当化し、それを世の中に通すことで相手を言いくるめる快楽を得ることだったのだろう。事実、叔母が産めないことを批判した彼も、叔母との離別後、誰かと結婚したり同棲したりする様子もなくのらりくらりと生活していた。山辺にそのことを問い詰めると、濁った目の男は笑ってはぐらかして逃げた。
その言い訳はなかなかに滑稽だったので、僕は嫌いではなかった。
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