百十三 エピローグ

 月の暗い支配は終わりを告げた。

 太陽の光が夜を駆逐し、地表を明るく支配する。暗い支配を寝静まって凌いだ生き物たちが動き出す。

 その中の二羽の小鳥が森の木に拵えた巣から飛び立った。

 仲の良さそうな二羽は、ちろちろと囀りあいながら草原に出た。草原には一軒の小さな家が立っている。

 羽を休めるために、二羽は屋根に降り立った。その間も可愛らしく囀っている。

 小鳥の囀りを、家に住む少女は台所に立って聞いていた。彼女の名前はネルカ。メイド服を着た青い髪の少女。今は朝食の準備をしているところだ。メイド服を着ているのは、これを着ていないとなんとなく落ち着かないからである。

「それじゃあネルカさん、起こしてくるね」

 ネルカに声をかけたのは、津村実花。黒い髪、黒い瞳の少女。

「はい」

 とネルカが返事をする頃にはもう、実花は歩き出している。居間から出ると、廊下沿いに部屋が三つ並んでいる。手前の部屋がネルカの部屋。真ん中が実花。それから一番奥の部屋に実花はそっと入った。

 ベッドの上で穏やかに寝入っているのは、実花のお兄ちゃん、津村稔だ。実花は音を立てずに近寄って、稔の寝顔を覗く。ともすれば、このまま時間を忘れそうになるけれど、そういうわけにもいかない。

「……おにいちゃん、おきてー……」

 小さな声で呼びかけてみるも、当然ながら起きない。

 じゃあ仕方ないか、と自分に言い訳をしながらも、ニヤリと笑う。足を振り上げる手慣れた動作。

それから実花のかかとは、ものの見事に稔の鳩尾に直撃する。

「……うごっげやあっ!!!!」

 稔はおかしな叫び声を上げた。家が震撼するほどの大きな声。屋根にいた二羽の小鳥が驚き、慌てて飛び退っていく。

 稔は腹を抑えて蹲っている。そんな情けない姿を鑑賞すると、ぞくぞくとしたいけない感覚が実花の身体を刺激する。

 ああ、これこれ。身体を震わせながら実花は思う。この感覚は稔でしか味わえない。地球にいた頃のあの懐かしくて幸せな日々。その日常の全てを取り戻せたわけではないけれど、こうしてその一端に触れ合うことができるようになったのは、素直に嬉しい。

「て、めー実花」と、稔は腹を抑えて実花を睨め上げる。「毎朝毎朝えげつない起こし方しやがって。たまにはまともに起こしやがれ」

「じゃあ、ちゃんと起きてよ。私いつも最初は普通に起こすよ? でもお兄ちゃん起きないんだもん。仕方ないじゃない」

「少しは加減しろ」

「加減してるよ? 私が本気出したら、お兄ちゃんきっと今頃血反吐を吐いていると思うよ」

 伊達に訓練をしていたわけではない。小学生の時より威力は格段に上がっている。そのことを思うと複雑な心情になるけれど、全てはお兄ちゃんと再会を果たすための仕方のないことだった。

 うん、仕方ないよね。再度自分に言い訳をする実花。

「まあ、ともかく早く起きてよ、お兄ちゃん。ネルカさんが朝食作って待ってるよ」

「はあ」と盛大なため息を稔は吐いた。「分かったよ」

 のそりと起き上がり、シャツを脱ごうと手をかけた稔は実花の視線を感じた。

「いや、着替えるから出て行けよ」

「いいじゃない、減るもんじゃなし」

「お前なあ」

「あはは、冗談冗談」

 実花はけらけらと笑って部屋から出た。もっとも本音を言えば、稔の着替えシーンを見たかったのであるが。


「おはようございます、稔様」

 居間に入るなり、ネルカが日本語で挨拶をした。やや訛りがあるけれど、十分に綺麗な発音だ。

「おはよう、ネルカさん。日本語、ほんと上手になったよね」

「ありがとうございます」

 嬉しそうにはにかんで、ネルカは日本語で礼を言う。まだまだ日本語で日常会話はできないが、挨拶の言葉だけはほぼ完璧に覚えたようだ。

「ほんとほんと、ネルカさん凄いよ」

 実花はそう言いながら、食卓のいつもの席に座った。

「それではご飯にしましょうか」

「そうしよう」

 と、稔は席に着こうとしたら、近寄って来たネルカが実花に聞こえないような小声で言う。

「あの……先ほどは大丈夫でしたか? すごい声が聞こえてきたんですが」

「あ、ああ、大丈夫だよ」

 稔は乾いた声を発した。とても大丈夫には見えない。

「早く早くー。ご飯にしよーよ」

 実花が急かしてきた。稔とネルカは顔を見合わせて微笑み、食卓へと向かう。食卓の中央にはパルツが山盛りに入った籠が置かれ、それぞれの席にシグーラムが配膳されていた。定番の朝食メニュだ。

 いずれ白いご飯と味噌汁を食べた回数よりも、この目の前のメニューを食べた回数が上回る日が来るのだろう。日本の食事を恋しく思うものの、もはや食べられる機会は絶望的に存在しない。

「いただきます」

 三人は手を合わせて日本語で言った。ネルカももう慣れたものだった。




 ゴゾルを月へ行かせたあの後、魔人は邪悪ではなかったと教会が発表した。その衝撃は人々にとって計り知れないものがあり、すぐに受け入れられるものではなかった。

 けれど人々の中には、それに賛同する者も僅かにはいて、さらに女帝がマ国との同盟を結んだこともあって、魔人が邪悪ではないという認識は徐々にだが受け入れられつつあった。実際、マ国との貿易も始まり、新しい交流が生まれてさえいる。

 しかし魔人への怒りや憎しみは根深く、教会の発表を嘘だと主張する一派もいた。それは教会関係者も含まれており、ニーゼ教を二分する勢力へ発展しようとしている。

 エルムント・ポルタレルが言っていた通り、世界は少しずつ変化しているのだ。

「お兄ちゃん、今日はどうするの?」

 食後のお茶を楽しみながら、実花は聞いた。

「今日はちょっとシニャさんの手伝いをしてくるよ。しばらく顔を出してなかったから」

「それなら私もお付き合いさせてください」と、ネルカが後を続く。「それから少し買い出しをしてきますね」

「それなら俺も行って荷物を持つよ」

「そんな、悪いですよ」

「いいから」

 二人の何気ないやりとりを、実花は思案気に眺めていると、

「実花はどうするんだ?」

 不意に稔に聞かれて、少し驚く。

「え、あ、うん。私も行きたいけど、今ちょっといいところだから、家にいるよ」

「そうか」

「うん。シニャさんによろしく言っておいてね、お兄ちゃん」

「ああ、分かったよ。もうすぐ完成するのか?」

「うーん。まだかかるかな。完成したらお兄ちゃんに一番に読ませてあげる」

「楽しみにしてるよ。でもちょっと恥ずかしいかな」

「ふふーん。あんなことやこんなことを書いてるから、覚悟してね」

「うへえ」

「その次は是非とも私に読ませてください」

「もちろんだよ、ネルカさん」

 ネルカが洗い物を済ませるのを待ってから、三人は玄関へと向かう。扉の前にいるのは稔とネルカだ。

「それじゃあ行ってくるよ、実花」

「行ってきますね、実花様。お昼ご飯、きちんと食べてくださいね」

「わかってるよ、ネルカさん。お兄ちゃんたちも気をつけてね。特にお兄ちゃん、ネルカさんとシニャさんに迷惑をかけないように」

「はいはい」

 二人がそう言って家から出ていくのを、実花はなんだか眩しいものを見るような目で見送った。

 それから実花は自室に入り、机の前に座る。机の上にはインクとペン、それから紙が敷かれている。紙には数行程度がすでに書かれていた。

 実花は今、マ王ツァルケェルがドグラガ大陸に出現してから、マ国を建国し、グラウノスト帝国に進軍するまでの経緯を書いている。

 これの前には、『ガーガベルトの真実』という題名で一本の巻物を書き、教会がスポンサーとなって世に出してみたところ売れに売れた。彼らの生活費の大半は、実花の作品によって成り立っていると言っても過言ではない。

 そうして今、実花は、自身にとっても大本命と言えるツァルケェルをテーマにした著作を書いているという訳だ。綿密な取材によって書かれた、などと銘打って売り出す予定だが、その取材先はツァルケェル本人なのだからこれ以上のものはないだろう。

 実花はペンを持って、指先で弄びながら、うーんと唸って考え込んでいる様子だ。稔たちにはああ言ったものの、実は詰まっているのだった。

「……あーあ。書くのがこんなに難しいなんて、思わなかったですよ、先輩」

 何もない中空を見ながら、実花は独り言を呟いた。

 思い出すのは中学校にいた頃、在籍していた文芸部の大橋望美だ。実花が地球にいた最後の日に会った人の一人。彼女はいつも小説を書いていて、時折実花に声をかけてくれていた。今思えば、それは、実花のことを心配してのことだったのだろう。当時の実花は、大橋からすれば、延々と本を読んで、時間が来たら帰るだけの事情がありそうな暗い子だったろうから。もっと色んなお話をすれば良かったと思うものの、その頃は精神的な余裕がなかったからどうしようもなかったとも思う。

「ほんと、やらないと何も分からないや」

 それからついでに、最後に出会った一人、週刊誌の記者だと言う大人の女性も思い出す。名前は忘れたが、実花から話を聞いた後で、忠告をしてくれた。それは本当に心配してのことだったのは分かるのだけれど、結局その忠告を無視して今こうしているのだから、申し訳なく思う。けれど同時に、感謝もしていた。あの時、彼女に出会わなければ、きっとお兄ちゃんと再会することはなかったと思うから。

 最近はこうして、地球にいた頃のことをよく思い出してしまう。メルセルウストに来た当初は、お兄ちゃんのこととか、戦争とかに必死だったから、思い返せる余裕がそれこそなかったからだが。落ち着いた今だからこそ、あの頃を懐かしさもあって思い出してしまうのだろう。

 それとも、本当に戻れなくなった今、名残惜しく思っているのだろうか、と自嘲する。確かに心残りはある。それは否定しない。両親のことや、友達のこと、先輩や記者さん。彼らはきっと、急にいなくなった実花に対してとても悲しんでいることは簡単に想像できた。何しろ、稔がいなくなった時だって、先輩や記者は例外としても、とても悲しんでいたのだから。

 そんな自分のことを、最低だな、と実花は思う。けれど後悔はしていなかった。稔とネルカの生活は、とても幸福に感じていたからだった。

「さてと、続き続き」

 今度こそ実花はペンを握って書きかけの紙を睨みつけたが、続きはなかなか思いつけないのであった。




 稔たちが住んでいる家は、カナルヤ・レイが私費で建てたものだ。

 この大層なプレゼントを提案された時、三人は目を白黒させ、全力で遠慮をしたのだが、カナルヤがお礼とお詫びを兼ねているからと半ば強引に買い与えたのである。もちろんメルセルウストにおいても一般的に家一軒は安い買い物ではない。しかしカナルヤにとっては大した出費ではないらしく、本人はもっと豪勢な作りにしたかったようだった。

 もっとも稔たちは、そんな家を建てられたら落ち着かないと主張して、今の一軒家となった。それでも調度品や家具は、地味なデザインながらも高級品が使われているのだけれども、稔たちは気付いていない。

 白状すれば、このプレゼントはとてもありがたかった。見た目が完全に魔人である稔に、死んだことになっている英雄であり聖女でもある実花と、そのメイドであるネルカがあのまま帝都やどこかの街に住めるわけがない。もちろん村も無理だろう。

 そういうわけもあって、稔たちの家は帝都グラウとベネトとの間に建てられた。街道から外れた場所にあるのは、人が往来するところから離れたかったためだ。また、喜多村由梨江の墓から近いと言うのも理由の一つだった。

 稔とネルカが向かった先には、街道沿いに建てられた一個の白い建物があった。

 防犯と魔物の襲来から守るために白い壁で囲まれたその建物の門には、キタユリ孤児院と書かれた看板が掲げられている。その中に、稔とネルカは合鍵を使って迷いなく入った。

 よく手入れされた小さな庭がまず目に入る。その中を十歳にも満たないような少女が、転がったボールを追いかけて行く。ボールに追いついた少女がふと顔を上げて、ようやく稔とネルカの存在に気がついた。

「あーネルカお姉ちゃんとミノルおじさんだー!」

 彼女はぱっと明るい笑顔を浮かべて、嬉しそうに指差して声を上げた。するとどこからともなく、五人ほどの子供たちがわらわらと集まってきた。

「おじさんじゃねーって言っただろ。お兄さんだ!」

 稔がそう抗議したがどこ吹く風で、子供たちはミノルおじさんミノルおじさんと連呼する。

 その様子を見ていたネルカはくすくすと笑い、それから子供達の目線と合わせるために屈んだ。

「みんな元気だった?」

「うん!」「元気だよ!」

「館長さんはいるかな?」

「うん! 待ってて呼んでくる!」

 子供たちの一人が元気よく駆けて行った。それからしばらくしてから、子供に引っ張られてやってきたシニャの姿があった。

「ミノル様! ネルカさん!」

 二人の姿を見た瞬間、弾んだ声を上げたシニャは、キタユリ孤児院の若い館長であった。

「お邪魔してます」

「今日は大丈夫でしたか?」

「はい! お二人ならいつでも歓迎します! それで今日は、ミカ様は来られないんですか?」

「実花は例の執筆で忙しいみたいです。今日は行けないとのことで、よろしくと言っていました」

「新作の巻物ですか。楽しみです。出版されたら、早速購入して孤児院に置かせて頂きます」

「買わなくてもプレゼントするのに」

「いいえ。こういうのは買わないとだめなんです」

 前回の『ガーガベルトの真実』もプレゼントしようとしたが、シニャは拒否して自費で購入していたのである。孤児院の経営は実のところ金銭的に厳しく、高価な巻物を買うのは結構な痛手のはずだった。それを知っている稔たちは、売上金の一部を孤児院に寄付している。

「あと、これはこの前獲れたイノシカの肉です」

「いつもすみません」

「いえいえ。俺たちも孤児院で育てた野菜をもらっていますから、お互いさまですよ」

 稔たちの家には、時折グリアノス一家や、カースが遊びに来る。余談ではあるが、ルグストは彼らから離れ、教会の発表した内容を嘘だとする例の一派の一員になっていた。グリアノスとカースは彼のことを心苦しく思っているが、もはやどうしようもできない。

 話を元に戻すと、稔が狩り仕方を知っているのは、グリアノスとカースに教わったからだ。しかしながら、グリアノスもカースも稔には狩りの才能がない、などと言われてしまった。弓を引けば獲物に当たらない、剣もまともに使えない、魔法は加減が難しく、下手すれば獲物が跡形も無くなってしまうのだから、才能がないと言われても仕方がない。

 そこで教わったのは、罠の作り方や、獲物が出そうな場所である。これなら、あとは運次第だ。もちろん罠だと気づかれないようにする必要があるものの、彼らは狩猟の達人である。当然罠猟も心得ている。時間をかけて教わった結果、稔も罠猟ができるようにはなったのだ。

 イノシカという獣は、ツノが四つほど生えた中型の四つ足の草食獣で、昨日の昼に罠にかかっていたのを発見していたのだった。

「つまんねー話してないで、ミノルおじさんこっち来いよ! 一緒に遊んでやるよ! ミノルおじさん友達いなくてかわいそうだからな!」

 遊びたい盛りの男の子が、おもちゃ、いや稔を引っ張って連れていく。

「ちょ、お前らな!」

「みんなー程々にねー」

「はーい! 分かってるー!」

 教会が自らの欺瞞を認め、ヒカ大陸全土の国々に発表した時、シニャは後始末をするために色々と動き回った。何しろ教会は混乱状態に陥っていたし、大司教のジージは責任をとって辞めてしまっていた。

 後任として決まった大司教は、エルムント・ポルタレル。当時司祭であった彼は、教会に真実を追求した英雄として祭り上げられ、地に落ちた信頼を取り戻すために大抜擢されたのである。そんな彼が信用したのが、行動を共にしていたシニャだったのは当然のことだった。

 シニャはこれまで以上に働いた。それでもこれは自分たちが起こした後始末である。その責任は取らなければならない。四方八方に動き回り、へとへとになりながらもシニャは働いた。

 そのかいもあって、教会は完全に元に戻ったとは言えないものの、それでも一定の落ち着きを取り戻すことができた。

 そうしてシニャは、教会を辞めた。たくさんの人から引き止められ心を動かされたが、シニャの決心は硬かった。もちろん神への信仰がなくなったわけではない。だが一度でも神を疑った負い目が、これ以上教会に居座ることを何よりもシニャ自身が許せなかった。それに、やりたいこともできた。

 シニャはエルムントに孤児院をやりたいと相談したのである。戦争によって親を失い、多くの孤児が生まれてしまっていた。教会の力でも全てを救うことは不可能のだ。だからその一部でもシニャは救いたかった。

 エルムントはシニャが教会を辞めることを残念に思っていたが、結局はシニャの孤児院を後押しすることに決めた。エルムントは個人的な資産で孤児院に出資し、無事にシニャは孤児院を始めることができたのだった。また孤児院に出資したのはエルムントだけではなく、カナルヤやモルガノ・メイトスも資金面で協力したのはここに記しておく。

 街の中ではなくこの場所に建てたのは、単純に土地代が安価で済むのと、どうせなら稔たちの近くに住みたかったと言う私情もあった。

「一人でこの孤児院を経営するのは大変ではないですか?」

 稔が子供たちに遊ばれているのを微笑ましく眺めながら、ネルカは尋ねた。

「大変ではない、とはさすがに言えませんね。ですが、ミノル様を始めとして色んな方々に手伝っていただけています。おかげで経験の浅い私でも、なんとか今まで経営することができています。ここだけの話ですが、なんとエルムント様も時折遊びに来てくださるんですよ」

「エルムント様が?」

「はい。さすがに身分は隠した上で、ですが。どうも職務の気分転換に来られるようで、教会の方は大丈夫なのかと毎回はらはらしてしまうのですが……」

 元教会のシスターだけあって、その苦労は簡単に想像できるようだ。

「それは、大変ですね……」

「はい。大変なんです……」

 シニャはしみじみと言った。

 それから暫しの間、二人は子供たちに弄ばれる稔を鑑賞する。髪を掴まれたり、蹴られたりいいようにされていた。

「……来るたびに酷くなってません?」

 ネルカは呆れて同意を求めた。

「やはり、そう思いますか……」

 そして、稔はついに我慢の限界に達した。奇声をあげながら怒り出し、子供たちを追いかけ始める。子供たちは待ってましたと言わんばかりに、逃げろ逃げろと実に楽しそうに散っていく。もはや狙って怒らせているようにしか見えない。

「はい! ここまでっ!」

 シニャは手を叩いて大声を上げた。稔と子供たちは一斉に足を止めてシニャに注目する。

「お勉強のお時間です!」

「ええーー!!」

 子供たちが抗議の声をあげた。なぜか稔もその中に混じっている。

 じろり、とシニャが睨み付けると、全員が押し黙った。もちろん稔も。

「……やべえ。まじで怒ってる……」

「館長を怒らせるとミノルおじさんより怖いしな……」

「仕方ねえ。みんな勉強するぞ」

 こそこそと話をしているが、まる聞こえである。

「それではお願いしますね。ミノル先生」

 シニャは実に良い笑顔で頼むと、稔は姿勢を正して「はい!」と元気よく返事をしたのであった。


 シニャが孤児院を建てたと聞いた時、稔と実花は何かできない事はないかと考えた。

 何しろシニャには恩がある。あの時、無事に帝都に入れたのはシニャのおかげだ。三人での生活にも忙しいはずなのに合間を縫って色々と助けてくれた。本人は稔たちに恩を売ったつもりはなかったけれど、稔たちからすれば恩を返さなければ気が済まない。

 できることを考えてみた結果、孤児たちに算数を教えることにしたのである。この世界にも、四則計算程度は広まっている。何かと忙しいシニャの代わりに教えて上げることができれば、彼女の負担は大いに減るのは明白だった。

 提案してみたところ、シニャは渋ったものの最終的には受けてくれた。

 そうして孤児を迎い入れて、しばらく経った頃、稔たちの教育が始まった。

 基本的な算数を稔と実花が教え、ネルカが魔法を教える。

 子供たちは思いの外勉強に意欲的で、教えれば教えただけめきめきと覚えていくのは気持ちが良いものがあった。

 そうなれば教える方も熱が入るというもの。面積の割り出し方なども教え始める稔。この頃ぐらいから、実花は『ガーガベルトの真実』の執筆をし始めており、算数を教えるのは稔だけであった。

 とはいえ、ここまでは良かった。面積の割り出し方も、この世界においても普通に使われているものだ。

 問題はこの後である。稔はついに数学や化学なども教え始めたのである。もちろん、稔が知っている範囲内だが、化学よりも魔法が発達しているこの世界において、その教えはメルセルウストの中では画期的である。

「……お兄ちゃんが子供相手に現代知識無双してる……」

 これが気分転換に遊びに来た実花が稔の授業を見た時に思わず呟いた言葉であった。

 さらに問題は続く。

 稔たちが授業を行なっていると聞いたカナルヤやモルガノが、子供たちに魔法を教え始めたのだ。本職である彼女たちによる指導により、子供たちは高度な魔法も扱えるようになっていくのだった。

 そうしてそう遠くない未来、彼らは産業革命を起こした天才集団としてキタユリ孤児院の名と共に歴史にその名を刻むのだが、それはまた別の話である。




 洋上を進む一隻の帆船の姿がある。

 視界全てが淡い青色で埋まるほど気持ちよく空が晴れ渡っている。程よい風が吹き抜けて、帆がその恩恵を存分に受け止め、穏やかな波を掻き分けるように船が進んでいく。

 船上では筋骨隆々の船員たちが忙しく働いていた。そんな中で、二輪の儚げな花という形容が似合う一際小さな双子が船の縁から海を眺めていた。頭髪が緑色の二人は、よく見比べても分からないほど似通っている男の子と女の子だ。

「何か珍しい生き物でも見えましたかな?」

 二人に声をかけたのは、ケルビスである。生粋の商人である彼は、この船の保有者でもある。

 双子は声をかけられたにもかかわらず、 視線は海にから離さずに「んーん」と首を小さく横に振った。その所作は全く同じで、同じタイミングで行われた。

 双子の名前は、男の子はペル、女の子はメルという。一見何の変哲もない二人だが、彼らは魔人である。

「明日の昼頃には帝国に着くかと思いますよ」

 その言葉に、二人は全く同時に振り向いた。

「本当?」

「はい」

「ようやくツァルケェル様に会える」

「あー、残念ながらすぐに会えないなあ」

 彼らの会話に割って入ってきたのは、ガーズルである。

「……どうして?」

「どこにいるのか分からないから、探す必要があるんだ」

「見つかる?」

「見つけるさ。俺も会いたいからな」

 ガーズルは、帝都に着いてからの双子の案内役だ。親身にしているガーガベルトにそう頼まれた。もっともそうでなくとも、ガーズルは自ら買って出るつもりだったけれども。

「そういえば、あなたがツァルケェル様をドグラガ大陸に送ったんでしたっけ」

 とケルビスは聞いた。

「そうとも。あの時はまさか、マ王となるような人とは思わなかったけどな。おれはあいつと接して、なんだ、魔人も人とあまり変わらないじゃないかって思ったんだよ。それからだ、魔人をドグラガ大陸に逃すようになったのは」

「そうだったんですね。しかし驚きましたよ。あなたとの関係は原典の件だけで終わるものかと思ってましたのに。まさかあなたが帝国から魔人を逃していて、そのおかげでマ国との関係が深くて、こうしてまた一緒に仕事をすることになるとは思いませんでしたよ」

「こっちこそ驚いたぜ。帝国に内緒でマ国と商売をしていた人がいるのは知っていたが、それがあんただったなんてな。お互いそういう人がいるって知っていたのに、初めて遭遇したのは原典の件で集まった時ときたもんだ。マ国で出会えなかったのが本当に不思議だ」

「それは確かにそうですね」

「ま、これも何かの縁だ。今後も何かと用がある時が来るかもしれない。その時はまたよろしく頼むよ」

「こちらこそ、よろしくお願いします」

「ところで、あんたはツァルケェルと会わなくてもいいのか? あんたも知り合いなんだろ?」

「確かにもう一度会いたいですね。ですが残念ながら、今は仕事が忙しくてその暇はないんですよ」

「そっか、残念だな」

「そのかわり、見つけたら場所だけでも教えてくださいますと助かります。その時がくれば、自分で会いに行きますから」

「分かった。そうしよう。帝都の商館に言付けを頼んでおけばいいんだな?」

「はい。あらかじめ私の方からも話を通しておきますので、そこにおりますトゲイストに伝えておいてください」

「あいよ」と大きく頷いたガーズルは、双子と向き合った。「ペルとメル。小腹が減らないか? お菓子とお茶を用意してもらったから中で食べよう」

「ん。ツァルケェル様の話、聞きたい」

「ああ。食べながら話そう。しかし驚いたよ。死んだと思っていたツァルケェルが生きていたなんてな。よかったらその時ことを教えてくれないか」

「ん。話せられるところだけなら」

「十分だ」

 と言ってから、ケルビスが羨ましそうに見ていることに気がついた。

「うう、私も聞きたい」

「仕事があるだろ」とガーズルは呆れる。「今度俺から教えてやるから」

「楽しみにしてます……」




 孤児院を出た稔たちは、ベネトに歩き着いた。日本と違い徒歩が移動の手段になっているため、すでに昼を超えている。

 昼食は道中、ネルカのお手製の弁当を食べた。と言っても、大量に作り置いてあるバルツを持ってきただけだが。

 ネルカの指示のもと買い物を済ます。稔の服装はもはやお決まりとなっている灰色のローブだ。これが一番安価で、正体を隠すのに便利なのである。外見が完全に魔人である稔だけれど、今は魔人であっても自由に入れる決まりになっている。実際、風に聞いた噂によれば、帝都に住んでいる魔人がいるらしい。死んだことになっている元マ王としては、正体をばらされてはまずいので、帝都には行かないようにしているが。

 自由に入れるようになったこと自体は、大きな進展だ。しかし未だに魔人を悪だと考える者は多くいるし、先の戦争から憎しみを抱いているものは少なくない。そのため稔は姿を隠す必要があったのである。そのことを心苦しく思いながらも、ネルカはこうして自由に動けるようになったことを嬉しく思う。何しろこうして稔と気兼ねなく出掛けることができるのだから。

 歩を進めていくと、メメルカ・ノスト・アスセラスがどこぞの第三王子と婚約したらしいという話を耳にした。この帝国の目下の問題は後継ぎがいないことだった。これが本当ならば、後継者問題が解消されるのは時間の問題だろう。

 けれどこの国の行末など、稔にとっては興味のないことである。やがて二人はメーガスト食堂が目に入った。

 二人は店内に入る。                                              

「いらっしゃいませ!!」

 景気の良い声が二つ重なって、二人の耳の中に入った。二人の従業員、シシリアとニーセが、稔たちの姿を見た途端、顔を笑顔で輝かせる。

 店内は混雑時までまだ時間があるため、人入りは少ない。シシリアとニーセは、二人して稔たちの元へ駆け寄った。

「お久しぶりですね、ミノルさん」

 とシシリアは挨拶をし、ニーセはちょこんと頭を下げた。

「久しぶり、シシリアさん」

 魔人は悪ではない。そのことが広まってしばらく経ち、街の中に出入りできるようになってから、稔は自分の正体をシシリアに明かした。と言っても、マ王であったことは秘密にして、魔人だと素顔を見せた程度だったが。シシリアは大いに驚いたけれど、それで同時に納得もいったようだ。どうりで頑なに顔を隠し、さらにあの時街の中に入ってこなかったのだと。

 稔は嫌われ、憎まれる覚悟をしていた。だがシシリアは、そんな稔のことをあっけらかんと笑い飛ばした。その時言われたのは、「だって私、魔人に悪いことされてないんだもん」であった。

「シシリアさん、その指輪……」

 ネルカは彼女の小指に指輪がはめられていることに気がついた。

「あ、気づいちゃった?」とシシリアは恥ずかしそうに笑みを浮かべる。「実はそうなんだ」

 メルセルウストにも、偶然なことに、結婚指輪の習慣があった。もっともここでは、女性は左手の小指で、男性は右手の小指に嵌めるという違いがあるが。

「おめでとうございます」

「ありがとう」

「それでお相手は、やはり……」

「あー、うん。店長なんだ……」

 少々気落ちした様子でシシリアは肯定した。店長ことメーガストによってがっちり胃袋を摑まされていたシシリアは、「俺の料理を一生食わせてやる」という口説き文句にあっさり堕とされたのだ。

「プロポースの言葉がすごいんですよ」とニーセ。「俺の……」

 シシリアは慌ててニーセの口を塞ぎ、

「わーわー! 言わなくていいから!!」

 大声をあげて必死に邪魔をする。

 実のところ、結婚をした時、常連を招いて食堂で宴を催したのだが、酔っぱらったメーガストが周りの誘導にあっさりと乗って口を滑らせたのだ。シシリアも油断していて、止める間もなかった。その結果、集まったみんなに大いに笑われたというものすごく恥ずかしい思いをした。もっとも、シシリアはその後全員をぼこぼこにしたのは言うまでもないことである。なお、魔人との戦争に参加した常連の一人は、後にこう述懐している。「俺が戦ったどの魔物や魔人よりも怖かった」と。

「……こほん」とシシリアは咳払いを一つした。「それで、今日はツミカちゃんは一緒じゃないの?」

 ツミカは実花の偽名だ。ちなみに作家名でもある。

「はい、今日は執筆が忙しいそうで」

「そうなんだ。それじゃあ二人で食べていくの?」

「いえ。食べたのがバレると殺されるので、今日は顔を見せに来ただけなんです」

 稔は引きつった笑みを見せた。

「うーん。でもせっかく来てもらったんだしなあ。あ、そうだ、ちょっと待ってて」

 シシリアはそう言うなり、厨房の方へと駆けて行った。それから店長とやりとりをする声が聞こえ、数十分が経過した。

 厨房から出てきたシシリアは籠を持っている。

「はい、お土産。お代はいらないよ。冷めても美味しいものを作ってもらったから、家に着いたら三人で食べてね」

「そんな、悪いですよ」

 と稔が言った。

「いいのいいの。これからもうちの店を贔屓にしてねって意味だから」

「……そういうことなら、いただきます」

「うん。ツミカちゃんにもまた遊びに来てねって伝えておいてね」

「はい、伝えておきます」


 店を出た二人が次に向かった先は斡旋所である。

 掲示板に貼られた紙を見ると、様々な仕事が書かれていた。けれど稔が求めている魔物退治の仕事はない。

「今日もないのか……」

 がっくりと肩を落とす稔。

「心配しなくても、まだまだ蓄えはたくさんありますから」

 ネルカはそんな稔を慰める。

「……そうだけどさ……。妹に食わせてもらってる兄貴なんて、情けなくないか……?」

「私も実花も気にされておりませんよ。むしろ実花様は、私がお兄ちゃんを養ってあげるんだ、って張り切っておられます」

「……他は接客業ぐらいか……」

「まだ魔人に対する偏見は根強いですよ。魔人だと分かった途端、毎回毎回追い出されてるじゃないですか。諦めた方が良いかと」

「はあ……」

 稔は深いため息を吐いて、家に帰ることにしたのであった。




 すでに空は暗くなっていた。気の早い星が早々に顔を出している。

「ただいまぁ」

 稔とネルカは家に帰ってきた。

「お帰りなさい、お兄ちゃん、ネルカさん」

「ほら、お土産だ。ちょっとメーガスト食堂に寄ったら、これをもらったんだ」

「……私抜きで食べたんじゃないよね、お兄ちゃん」

 実花はじとりとした目で稔を睨みつけた。魔人を殺すほどの殺気を孕んでいて、稔は思わずたじろいた。

「食べてない! 断じて食べてない!」

 ぶんぶんと首を横に振る稔を尻目に、実花はネルカを見た。その視線に殺気はない。

「本当に?」

「はい」と普通に応じるネルカ。「本当に食べていません。これはシシリアさんのご好意です」

 横目で稔を見ると、彼は何度も頷いている。

「……じゃあ、許す。メーガスト食堂で食べる時は、きちんと私に言ってよね、お兄ちゃん」

「わかってる。わかってるから」

「それでは少し遅いですが、晩ご飯を作ってきますね」

 台所に向かうネルカを見届けると、実花は稔に向き合って、小声で声をかけてきた。

「ねえ、お兄ちゃん。私考えたんだけどさ」

「うん?」

「ネルカさんとなら……いいよ」

「……なにが?」

 意味が分からないらしく、稔はきょとんとしている。

「だ、だから……その、恋人になっても……」

「……いや、どうして?」

「……ネルカさんは満更じゃないみたいだし、お兄ちゃんには普通に幸せになって欲しいから」

「俺としては、実花にこそ幸せになって欲しいんだけどなあ」

「私は、お兄ちゃんと一緒に暮らせればそれだけで幸せだからそれでいいの。私が重たいのは自覚してるよ。でもネルカさんならこんな私でも受け入れてくれると思うから」

「……お前、なに言っているか分かっているのか?」

「分かってる。分かってるよ」

「……はあ、まあでも、難しいかもな」

「なんで?」

「どうも、俺たちとメルセルウストの人との間だと、子供ができないらしいんだよ」

「どうしてお兄ちゃんにそんなこと分かるの?」

 途端、実花の目が険しくなった。それを怯まずに真正面から受け止めた稔は、真剣な眼差しで実花に教える。

「いいか、一度しか言わないからな」

「うん」

「由梨江がな、そういう実験をさせられていたんだ」

「……え」

「沢山したらしいんだが、結局できなかったそうだよ」

「由梨江さん……」

「たまたまの可能性もあるけどな。でも俺たちはこの世界においては宇宙人の立場だ。科学的な検査もできないのに子供ができてしまったら、その子供がどうなるのか全く分からないよ。それこそ酷い障害をもって生まれるかもしれない。だから俺たちは、メルセルウストの人と無闇に子供を作るべきじゃないんだ」

「……そう、だったんだ」

「そういうわけで、とりあえず俺たちはここでのんびりと暮らすしかないさ。もちろん、子供ができなくてもいいから一緒になりたい人ができれば、結婚してもいいんだぞ、実花」

「ばか。分かってるでしょ。私は恋人を作る気なんて全くないんだからね。私はお兄ちゃんと一生一緒にいたいの」

 実花は顔を真っ赤にさせながら言った。

 稔は困ったような顔をして頬を掻く。実花からの愛情にはもちろんさすがの稔も気付いていた。

「そう言うなって。けど、もしもネルカさんにそう言う人ができたら、ちゃんと笑って背中を押してやるんだぞ。引き留めたりしたらダメだ」

「分かってるよ。でも、その相手はきっとお兄ちゃんだと思うな」

「まだ言うか」

「もちろん」

 と実花は笑った。

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二つの月のメルセルウスト うなじゅう @unajuu

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