百十二 二つの月

 津村稔とその妹の実花は、眼前にいるゴゾルの変わり果てた姿に驚きを禁じ得なかった。

 なにしろゴゾルの体には、稔と同じような角が生えていたのだから。これが実験の成果なのだとしたら、ゴゾルの角は稔のそれと同じように膨大な魔力を溜めるに違いない。

「ゴゾル……。これは……」

「そうだ。貴様と同じ角だ。無論、それだけではない」

 ゴゾルは魔法を発動させた。魔力の壁が張り巡らされる。

「私の……」

 思わず、実花は呟いた。

「試してみろ」

 と挑発するゴゾル。

 稔は戸惑いを隠せないまま右手を向けた。

「……メドル」それから少し間を置いて呟く。「ハーゲン」

 右手から発射された魔力の塊は、ゴゾルの壁とぶつかり合った。ゴゾルは健在。そればかりか、魔力の壁も少しも壊れていなかった。魔力を溜めすぎてしまえば、岩窟を崩壊させてしまうから、稔はもちろん加減した。それでも何もなければ、人を一撃で殺せるはずの威力だった。それを難なく防いだゴゾルの壁は、実花の魔法と同程度だろう。

「くくく」不気味に笑うゴゾルは、魔力の壁を解除した。「次は当ててみろ。殺す気で構わん」

 稔は嫌な予感がした。これは最大の好機に違いない。なのにゴゾルの自信は一体何なのか。

 合言葉を唱え、先程と同程度の魔法を撃ち放つ稔。ゴゾルはにやにやと笑みを浮かべるだけで、抵抗する素振りを見せない。そうしてそのまま頭部が吹き飛んだ。

 あまりに呆気なさすぎる。そう思う間もなく、ゴゾルの首からなくなったはずの神経や血管が生え、頭蓋骨が形成され、筋肉が生まれ、皮膚が再生し、頭髪や髭が伸びたのである。

 回復魔法だ。それも度を超えた常識外れの。

「迷いなく頭を撃ったな。面白い」

 ゴゾルは何事もなかったような態度で声を発した。

 実花は声を出して驚いたが、予想していたのか稔は渋い顔だ。

「……やっぱり、由梨江の魔法か……」

 ゴゾルは笑う。地の底を這うような声で。

「貴様には俺から逃げ出した時に見せた機転に期待している。それを乗り越えてこそ、神に勝てる確率が上がるというもの」

 ゴゾルは自分から手を出す気はないらしく、無警戒に二人を観察している。

 実花は不安そうに稔の背中を見た。実花には勝てる展望が思いつけない。

 すると、稔は振り返った。思わず実花と目があってしまう。そうして彼は、笑みを浮かべた。なんだかそれだけで、実花は安心することができるから不思議だ。

 けれど次に稔がとった言動には、さすがに面食らう。

「……止めだ。俺たちの負け、降参だ」

 諸手を挙げて、そう言うのである。

「……なに?」

 不快そうに眉尻をあげるゴゾル。しかし同時に困惑しているようだ。無理もないと実花は思う。実花にもこの行動は予想外すぎて訳がわからない。

 もしかして諦めたんだろうか。そう思いながら、兄の横顔を見てぞくりとした。

 稔の目は、憎悪の炎で燃え盛っていた。とてもじゃないが、復讐を諦めているようには実花には思えない。だがゴゾルは、そうした稔の目に気付いていない様子だった。

 何かを目論んでいるのは間違いない。けれど、それは何なのか。

「それだけ強い奴はドグラガ大陸でも見たことがない。メルセルウスト中を探しても、いないだろうな。間違いなく。神も殺せるんじゃないか?」

「いや、まだだ。まだ足らない。何しろ世界を産み落とすほどの途方もない存在だ。この程度の力では、難しいだろう」

「それも二人を相手にした場合だろ? 何も二神同時に戦う必要はないんじゃないか。一人の神と戦えばいいじゃないか」

「確かにそれなら可能性もあるやもしれん。だが問題は他にもある」

「問題?」

「神の世界である月に人間が到達できるのか、疑問だ。あの月は見えているだけに過ぎず、実際はこの世界から外れた場所にあるかもしれん。それの検証をしなければならん」

ゴゾルの脳裏にあるのは死後の世界。あの世界と同じように生きている人間には絶対に行けないように作られている可能性のことを、ゴゾルは考えずにはいられない。そればかりか、神の領域に触れようとする人間に容赦のない神罰を与えられるかもしれないと考えていた。

「……ゴゾル。その執念に敬意を表して、良いことを教えてやるよ」

「何だ?」

「俺の世界の人間は、月に行ったことがある」

「何だと! 魔法がないのにそんなことができるわけがないだろう。出まかせを言うな」

「残念ながら本当だ。俺の世界では科学という力がある。魔法とは違うアプローチで、魔法と似た結果を出すことができるんだ。その力を使い、人間は月に行った」

「……それで、貴様たちの世界の人間は、月で神に会ったのか?」

「それを聞いてどうする? 俺たちの世界とメルセルウストは違う。お前は知らないだろうが神様も違う。大体、俺たちの世界で神に会えなかったとしても、メルセルウストでは神に会えるかもしれない」

「その通り、だ」

「神様に畏敬を感じて、畏れを抱くのは仕方ない。けどそのせいで、お前は必要以上に神様を怖がっているんだよ。恐れは目を曇らせる。それは魔法学者であるゴゾルの方がよく分かっているだろう?」

「……反論できんな。まさか低脳に諭されるとは思っても見なかった」

「これでも色々と経験を積んできたんだ。お前のせいでな」

「またお前の評価を改めなければいかんな」

「好きにしろ。お前にどう思われようと俺にはどうでもいいことだ」

「それで、本当に月に行けるのか?」

「行ける。外で月を見ていて思ったことがある。俺たちの世界とこの月はもちろん違うが、それはちょっと形が違う程度だ。後は全部似通っている。そして、お前の空間魔法なら、あの程度の距離は時間をかければ到達できる。そうだろう?」

「ああ、そうだ。だが、まだ調べなければ……」

「そうやってぐずぐずしていると、また神様から遠ざかっていくぞ。そうやって延々と実験を繰り返し、最終的にはお前の目的を果たせなくなる。いいか、ゴゾル。行くなら今だ。今のお前はメルセルウスト最強だ。それは元マ王である俺が保証する。お前なら神の一人ぐらいなら倒せるはずだ」

「ねえ、ゴゾルさん」と、実花が口を挟む。「何事もやってみないと分からないの。私はあなたの魔法で召喚される時、逃げようと思えば逃げられたと思う。でも、どれだけ危険か分からなくても、もしかしたらその先にお兄ちゃんがいるかもしれない。そう思ったから、私は召喚魔法を受け入れた。分からなくてもやってみたから、私はこうしてお兄ちゃんと再会できた。やらなければ、あなたが憎んでいる神様も殺せない」

「ふん……。そうだな。俺は神を怖がっていた。それを認めよう。貴様らのいう通り、俺はこれから神を殺しに行こう」

「それなら、俺たちを無事に帰らせてくれ」

「元の世界にか?」

 稔は実花を見た。彼女は首を横に振る。

「違う。帝都で構わない」

 実花の意思はやはり変わらない。稔は悲しそうな瞳で彼女を見た。

 心配しないで、と実花は思う。お兄ちゃんがいるメルセルウストこそが、私がいたい場所だから。実花はうっすらと笑みを浮かべて稔を見返した。

「分かった。そうしてやろう」と、ゴゾルは一拍間を置いた。「開けておいた。これで俺が死んだとしても、帝都に帰れる」

「それならとっとと月に行ってこい、ゴゾル。俺はもうお前の顔を見たくない」

「ふ。いいだろう」

 そうしてゴゾルは空間魔法を発動させた。瞬時にゴゾルの姿が音もなく消える。

 上を見上げた稔。あの先にいるゴゾルの姿でも想像しているのだろうか。

 やがて彼は、抑揚なく呟く。

「『宇宙に神はいなかった』そう言ったのは、ガガーリンだったかな」

 実花にはお兄ちゃんの背中しか見えない。どんな顔を浮かべているのか、想像もつかなかった。




 雲はすでに飛び越えている。あるのは真っ暗な空。点々と瞬く星々。それから憎き月が二つ。

 ゴゾルは空間魔法を発動させて、瞬間移動を繰り返し、真っ直ぐに月へと向かう。

 もうすぐ、もうすぐだ、とゴゾルは思う。憎き神を殺す。まずは一神。それでどれほど疲弊するかは分からない。休憩し、体力を回復させる必要があるだろう。そうしたら、次はもう片方の神を狙う。なるべく早くだ。遅くなってはいけない。不意の反撃を食らう可能性が高い。あるいは防衛の準備をされるかもしれない。どちらにせよ相手は神だ。体勢を整えさせたらこちらの負けは確実。その前に殺さなければならない。

 それから何度も何度も飛んだ。殺意に満ちた目は月から決して離さない。

 エステナ、見ていてくれ。今から仇を討つ。神こそが君を殺した本当の仇なんだ。俺が、俺がやってみせる。俺はきっと極悪な人間として後世に刻まれるだろう。神殺しをした神敵として、多くの人間に恨まれるだろう。しかしそれでも構わない。俺がどんな仕打ちを打たれようとも、俺は君を殺した神を殺す。

 優しい君のことだ。君はきっとそんなことを望んでいない。そんな馬鹿げたことはやめてと止めるだろう。

 だけど駄目だ。無理な話だ。俺は神を許せない。好きな人一人守れない世界を作った神を。好きな人一人生き返らせれないこの世を作った神を。高みの見物を決め込んで少しも救おうとしない神を。

 俺は殺す。殺して見せる。

 二人の神を。


 そしてゴゾルは月に到達した。

 そして見た。それはゴツゴツとした灰色の岩で出来た巨大な塊だった。

 神が住んでいるようには見えない。神が住むような楽園には全く見えない。そればかりか生物が存在しているとも思えない。草一本すら生えるのを拒否している世界。

 あまりに殺伐過ぎる。

 しかしゴゾルにまともに思考する暇はない。

 呼吸ができないとすぐに気づく。

 存在しない空気を求めてあえぐ。

 薄れていく意識。

 だが喜多村由梨江並の回復魔法がそれを許さない。

 気絶できない。

 苦しみから逃れることができない。

 ゴゾルの角にあらかじめ溜められた稔並の膨大な魔力が減っていく。

 回復魔法が常時発動していた。

 故になかなか死ねない。

 言葉を発することもできないまま、ゴゾルは苦しみ続ける。

 空間魔法を発動し逃れようとするが、その前に減圧による致命的な損傷を負い続ける。そして回復魔法で瞬時に回復し続ける。

 魔法を使用できるほどの集中力を発揮することができない。

 どれほど時間が経ったか分からない。だがゴゾルにとって気が遠くなるほどの時間が経過した。時に永遠とも思えるほどの時の中を苦しみながら、ゴゾルの魔力は枯渇した。宇宙空間には魔素がなく、もはやこれ以上魔力を体内で精製することはできない。

 そしてゴゾルは死んだ。

 虚空の闇の中、ぼんやりと漂う彼の姿は、まるで老人のようにしわだらけになっていた。

 彼の変わり果てた姿を見つめているのは、冷たく輝く二つの月だけである。




 帝都の街の中を稔と実花は歩いていた。

 雨はもう止んでいて、雲と雲の間から星が瞬いている。

「ゴゾルは……どうなったんだろう。神様に会えたのかな」

 実花は稔の手を握り締めて、夜空を見上げてそう言った。

「由梨江が言ってたよ。もしかしたら、メルセルウルストは、地球と同じ宇宙にあるかもしれないって」

「それって」

「ああ。俺たちが知ってる通りの宇宙なら、ゴゾルは助からないし、神様もいない」

「そう、なんだ」

 実花は無慈悲に言う稔の顔を見つめてから、頭にぽつりと浮かんだことを言う。

「ねえ、あの星のどこかに、私たちの地球があるかもしれないんだね」

「そうだよ。あの遠い先には、俺たちの父さんや母さん、それに雫や友達が今も生きてる」

「……お兄ちゃんは、今でも雫さんのことが好きなの?」

「ああ、好きだよ」

「そっか……」

 二人は、星を見ながらホテルに帰り着いた。

 部屋に行くと、寝ずに待っていたネルカが目を見開いて、稔と実花を出迎える。それから大粒の涙をいっぱいこぼして、二人に抱きついたのだった。

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