零鬼 少女と蜘蛛

 少女は走っていた。


 いや、少女とも言えない。


 まさに幼女と言っていいような子だった。


 彼女は懸命に薄暗い竹林の中を走っている。


 季節はまだ残暑が厳しいはずの九月だというのに、彼女は身を震わせながら走っていた。



 冷気……



 林を取り巻く冷気が彼女を芯から冷やしていた。


 そんな彼女の腕の中に、まだ小さなパグの子犬がいた。


 子犬もまた寒さに震え、彼女の腕の中で小さくなっていた。



 静かだった。



 聞こえ、響いていくのは、彼女の足音と息遣いのみ……



 虫の声すらも他は何も聞こえない。



 空すらも覆い隠す青竹は、時間も方向すら全てを覆い隠していた。


 ここはもう異界と表して言い場所へと変異している。


 彼女は懸命に周辺を見回しながら足を進めて行く。


 だが、所詮は小さな小さな女の子の体力だ。


 体力が底へと到達するのは早い。


 あっと言う間に膝が笑い出し、脇腹が焼け付くように痛くなってきていた。


「はぁ……はぁっ……もう……もうちょっと……だか……ね」


 その言葉がどっちを指しているのか、客観的に見るとなんとも言いがたい。


 彼女達を追う者。


 それは音もなく素早く、正確に忍び寄ってきていた。


 その存在は、高さは大人の腰くらいまでの高さしかないが、全長にするとまさに大人と同じくらいのサイズだった。


 それが高速で最小限の音しか出さずに落ち葉の上を這い出していた。


 彼女の走る速度が落ちだしたときだった。


 腕の中にいる子犬がわめくように吠えだしたのだ。


 たった今まで小さくなり震えていたというのに……


 急に暴れ出す子犬の力に彼女は抗えなかった。


「ま、待って。あぶな……いよッ!?」


 走ることもままならなくなってきた彼女は思わず立ち止まる。


 その瞬間、子犬は腕から蹴り出し、地面に落ちながらも直ぐに立ちあがり……そして唸った。


「はぁはぁ……え?」

 

 肩で息をしながらも彼女はそれに気付いた。


 もう真後ろまで、その存在が近寄ってきていた事を……


 赤い無数の目が彼女をジッと見つめている。


 毛むくじゃらな体に、せわしなく口の横にある腕のようなものを動かしている。


 まさしく、人間が恐怖を抱くであろうその姿は、一瞬で幼女の思考回路、そして生きる希望を奪い去った。


 蛇に睨まれた蛙とはよく言ったものだ。


 金縛りにあったかのようにその足は動かない。


「いや……いやや……おうち、帰るの……」


 その存在が人間の言葉を解するかは分からない。


 だが、それは間違いなく一歩一歩、彼女へと歩み寄っていった。


 子犬は激しく吠え立てるが、そんなことに何の意味もない。  


 それどころか、それは目障りだったらしく、鋭くとがった前足を振りかざし、そして一気振り抜いた。



 一瞬だった。



 消え入りそうなほど小さな悲鳴と共に、子犬の姿は彼女の目の前から姿を消していた。


「え?」


 だが、まだ近くに子犬の気配を感じる。


 その間にもそれは一歩一歩、彼女へと近づいていっていた。


 そして、彼女の頬になにか液体が落ちた。


 反射的にそれを拭い、彼女は絶叫をあげることになった。



 なぜなら、彼女の頭上に前足で串刺しとなった子犬の姿があったからだ。


 右の肩口から左の肋骨部分にかけて貫かれ、舌を出しながら息絶えている子犬の口から血が滴っていた。


「いや、いやああぁぁぁ! ココ! ココォ!」


 ここ最近、ずっと毎日遊んでいた最愛である友達の変わり果てた姿だった。


 まだ、手足が微かに動いている所をみると、まだ死んではいないようだった。


「ココを返して……返してよぉぉ!!」


 彼女が叫ぶと、身につけている水晶の腕輪が反応し、まばゆい光を放った。


 次の瞬間、この世の者でない叫びが響き渡り、彼女の腕の中に瀕死の子犬が落ちて来た。


「ココ! ココ!」


 血とはみ出た臓物で身体が汚れるのも構わず彼女は子犬を抱きしめた。


 子犬もまた、最後の力を振り絞ってか血に濡れた舌を伸ばしていたが、それも叶わずその小さな命を消した。


 その間にも、光により前足一本を消失したが、それ……大きな大きな蜘蛛の化け物が彼女を喰らおうと近づいてきていた。


 だが、運命の時は訪れない。



「まったく、ピーピーわめくんじゃないよ」



 鈴の音と共に、声が響いた。


 声に大蜘蛛の動きが一瞬止まった。


 そして、何かを察知したのか一気に飛び退いた。


 再び鈴の音が鳴り響き、一拍の間の後に雷鳴の様な光が彼女の目の前に落ちた。


「っ―――――――――――!」


 光は彼女の悲鳴すらも飲み込み、その場にいた全てを無力化していった。


「情けない。それでも、京都の名門【華峰院家】の者なの? あの程度の妖怪に追われるなど」


 頭上から侮蔑も混じった容赦ない言葉が彼女を襲った。


「え? あの……」


 彼女が目を開き、周囲を見るとそこはよく見る光景が広がっていた。


 死んでしまった子犬とよく遊んでいた家の裏山だった。


 視界を巡らせてみると、白装束姿の姉の姿があった。


 腰に手を当て、あきれ果てたように彼女を見下ろしていた。


「ほら、とっとと帰るよ」


「え? でも……」


 そこでさらに彼女は気付いた。


 腕の中にいたはずの、子犬ココの骸がなくなっているのだ。


 ただしいたはずの痕跡はしっかりと、彼女の服にべったりと残っていた……

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その男、鬼市なり 源蔵 @genzo_322

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