第80話 フェリックスの手配
ダグウッドの人口は百二十万人を越えていた。ダグウッド領主府が把握している定住人口だけでそれだけである。不法滞在者、旅行者、一時滞在者を含めれば、確実にその人口規模は倍になる。
ありとあらゆる分野が急普請だった。ダグウッドの改革が始まってから三十年、落ち着くということが無い。
何かを解決すればまた新しい課題が生じる。
かつては想像もしていなかった問題、下水処理の問題、浄水処理の問題、ゴミ処分の問題、都市衛生の問題、土地価格の値上がりの問題、公地給付を巡っての不公平の問題、市民内格差の問題、ありとあらゆる問題にダグウッド領主府は対応しなければならない。
純民生部門の家臣、家臣と言うよりは市役所職員だけでも、三万人を抱えていた。
ダグウッドの西岸地区、かつての本来のダグウッド村には今はもう農地は一枚も残っていない。西岸地区全域が歴史文教保全地区に指定され、宗教施設や大図書館、ダグウッド市役所(ダグウッド公爵領の中からダグウッド市政のみを切り離して管轄する役所)、美術館、ダグウッド大学などの文教施設が集中している。
住民の居住地区、商業地区の中心は完全に東岸地区に移った。
東岸の河岸沿いには三十階建てを越える高層建築が林立している。ダグウッドでも最も地価が高い地区で、アグネスら、かつての「不動なる者たち」はこの地区の最初の探索者であったから、土地を給付されていて、地代収入だけでもいまや相当な富豪であった。
かつてのパンタナール大橋は、板張りの質素な平橋であったが、湿地には今は鉄橋が何本もかかっている。恒久的で丈夫な鉄橋をかけることについては、東岸防衛が困難になるとの理由で、ルークは反対したが、今となっては幾ら軍事上の必要があるとは言え、経済の動脈を損なうわけにはいかない。
以前は、ダグウッドで一番高い建物だったダグウッド城も、塔に上っても、今や幾つかの建物からは見下ろされる高さである。
ダグウッド城で一番高い場所、赤の塔の最上階に、フェリックスはいた。
城主と、旗の掲揚係しか入れないその部屋に、フェリックスは、マーカンドルフとルークを招いた。
「私たちもお供させてください」
マーカンドルフがすがるように頼んでいた。今、この場で、フェリックスはすべての事情を両名に明かしたばかりである。
自分が転生者であること、マックスが勇者ハヤトであること、ハヤトがやろうとしていること。
「僕はマックスを殺しに行こうとしているんだよ? 卿らに出来るのかな。マックスを殺すことが」
「フェリックス坊ちゃん。マーカンドルフがどうかは知りませんが俺はそもそもダグウッド家の家臣であるつもりは一度もありませんでしたよ。俺はあなた個人の臣です。あなたがお命じになるのであれば、誰であれ殺しましょう」
ルークは躊躇いもなく言い切った。
「それは私も同じこと。私が選んだのはあなたです、フェリックス様。ダグウッドでもヴァーゲンザイルでもありません。マックス様は私が手塩にかけてお育てした御子ですが、それもあなたのご嫡子であればこそ。事情が事情であれば、マックス様に手をかけるのも止むを得ません」
マーカンドルフの眼にも迷いはまったく無かった。
「ありがとう。でも、はっきり言って足手まといだ」
フェリックスはそう言い切った。そう断言されても、マーカンドルフにもルークにも驚きはない。二人ともこれまで、フェリックスの全力を見たことはない。しかしその魔力が隔絶しているのを感じ取るくらいの能力はあった。
「事実としてお尋ねします。仮に、フェリックス様のお力を、平均的な熟練兵士の戦闘力とした場合、私の力はどれくらいと評価なさいますか?」
「一匹の蚊くらいだよ、マーカンドルフ。侮って言っているんじゃない。これは単なる事実だよ。勇者の力はそれくらいに隔絶している。だてに勇者であるわけじゃない」
勇者の力。その言葉を聞き咎めて、ルークは尋ねる。
「フェリックス坊ちゃん。坊ちゃんも勇者ハヤトなのですか?」
「僕は依り代に過ぎないけど、ハヤトの魂を抱えて生まれた。ハヤトの別の側面ではある、とは言えるだろうね。ハヤトのオリジナルがマックスで、コピーが僕だとも言える。でも、能力自体は、僕もマックスも同じだ」
「でも坊ちゃんは坊ちゃんなんですよね?」
「同じ人間でも育ち方が変われば、優先順位は変わる。アビーを愛したのは、僕であってハヤトじゃない。ダグウッドを築いてきたのは僕であってハヤトじゃない。ヴァーゲンザイルやギュラーが大事なのも僕であって、ハヤトじゃない。そして、僕の祖父、伊達高志を世界の何よりも大事に思っているのはハヤトであって、僕じゃない」
「では、どうあっても私たちはお連れ頂けないのですね」
マーカンドルフは肩を落とした。
「僕とマックス、いや、僕とハヤトはよくても互角だよ。マックスの親としては本当に申し訳ないけど、ハヤトにとっては、卿とルークは虫けらほどの価値も無い。隠し切れなかったマックスの酷薄さ、卿らも承知していると思うが? あれにとっては大事なのは伊達高志だけ。自分自身にすら価値を認めていない。
今になって分かるのは、どうしてあんなに子作りを嫌がったのか。別の子供が生まれて、高志にだけ向ける純愛が損なわれるのが嫌だったんだろう。下手にその子に情けを抱いてしまったら、世界なんて滅ぼせなくなってしまうからね。
僕はハヤトとは違う。僕にとっては卿らはかけがえのない友だ。卿らがいれば、卿らを守るために僕は力を割かないといけなくなる。ただでさえ互角なのに、卿らを連れて行けば僕はハヤトに負ける。連れて行ったからと言って卿らが役に立つことは無い。ハヤトからすれば蚊が二匹増えるだけのことだからね」
気を落とすマーカンドルフの肩を、ルークは叩いた。
「落ち込んでなどいられないぞ、マーカンドルフ。坊ちゃんは何も言わずに旅立たれても良かったんだ。それをわざわざこうして打ち明けられた。俺たちにしか出来ない仕事があるからだ」
「その通りだよ、ルーク」
フェリックスとハヤトは力は互角。
しかし、フェリックスには負けないための秘策があった。
勝ち負けは勝利条件次第である。
何をして勝利条件とするか。
フェリックスは勝利条件を、「この世界の人類を滅ぼさないこと」とした。
作戦の全容を打ち明けられ、さすがに海千山千のマーカンドルフとルークも、しばらくは声も出なかった。
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業務連絡として、ダグウッド領主府は、ダグウッド公爵家の面々、ネグロモンティア伯爵マクシミリアン、ダグウッド公爵フェリックス、ダグウッド公爵夫人アビゲイル、ダグウッド公爵令嬢アイリが長期の休暇に入ることを通告した。
目的は、第一に病を得たマクシミリアンの療養と、伯爵夫人クリスティナの経験を積むことであり、クリスティナはこの期間、フェリシアの補佐を受けて正式に公爵代行に就任した。
アンドレイやキシリアからは、いったい何があったのかとの問い合わせが何度も送られてきたが、クリスティナから事務的な回答が送られただけだった。
クリスティナ自身、事情を知りたかったのだが、フェリシアが、フェリックスの要請を受けて、うまく口車をあわせて、クリスティナを説得し、はぐらかせていた。
フェリシアは、事情を知らされていたわけではない。しかし彼女はカイ・テオフィロスの娘であった。究極的に言えば彼女の忠誠心の対象は、フェリックス個人にしかなく、フェリックスから要請されれば、彼の意向に沿って動くのは当然のことだった。
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「どこに行くの? フェリックスはどこに行ったの? あなたたちは私に何を隠しているの?」
手籠めにされるようにして半ば強制的に「東方行」に連れてこられたアビーは、他の三人の同道者、マーカンドルフ、ルーク、アイリに何度もそう尋ねた。
そのたびにまったく応答がないか、返事があっても求めた答えは得られなかった。
「アビー様。私たちはサイト139に向かっています」
マーカンドルフがようやくそう答えた。
「サイト139?」
それに答えたのはルークだった。
「放棄された東方探索の拠点のひとつです。文明圏から離れているわりには、魔物が少なく、物資も貯蔵されています。しばらく身を隠すには絶好の場所です」
「なんで身を隠さなくちゃいけないの? ダグウッドはどうなってるの? 私をダグウッドに戻しなさい。私はダグウッド公爵夫人よ」
「お父様の指示よ、お母様」
「アイリ、あなた何を言っているの? フェリックスは何をしようとしているの? 侍女の一人もつけずに、こんなに森深くに入って。あなたは公爵令嬢なのよ?」
「その前に、私はお父様とお母様の娘です」
そして、誠一の母です、とアイリは心の中で言った。
「マックスのことが関係しているの? マックスはどうなったの? あの子は無事なの?」
その問いかけに、マーカンドルフもルークもアイリも沈鬱な表情になった。
この三人にとっては今や、マックスは肉親でも無ければ主君でも無く、敵でしかない。
だが、アビーにとってはどこまで行っても息子であるだろう。勇者でもなければ伯爵でもなく、公爵家嫡男でもない。ただ、自分が腹を痛めて産んだ息子に過ぎない。そのことは永遠に変わらなかった。変わりようがなかった。
その息子を、彼女にとっては夫のフェリックスが殺めようとしている。
あるいは逆の結果になるかも知れない。
マックスがフェリックスを殺すことになったとして、マックスは微塵も躊躇も後悔もしないだろう。
今、ダグウッド家の人々の中で、一番地獄の淵に近い場所に立っているのはアビーである。
結果がどうなろうとも、それが彼女にとっては地獄であることは既に変えられない。
ルークはふいに思い出す。あの年の瀬を。子供が出来たとアビーがはにかみながらも打ち明けて、フェリックスが年甲斐もなく号泣したあの夜を。
あの夜にルークも立ち会っていた。
ヴァーゲンザイル勲功騎士爵家にとってこれ以上は無いというほど幸福だったあの夜に、ルークもいた。
あの幸せがこのような地獄に通じていたとは、想像もしていなかった。
ルークはおもむろにアビーを抱きかかえた。
「ちょっ、ちょっと、ルーク、何をするの? 下ろしなさい!」
「ここで時間を無為に費やす余裕はありません。我々は一刻も早く、ダグウッドから離れなければならないのです。フェリックス坊ちゃんの命令です。アビー様と言えども従っていただきます」
マーカンドルフ、ルーク、アイリは顔を見合わせて、うなづく。
逃避行が再び開始された。
アビーはしばらく暴れて、文句を言っていたが、やがて諦めて大人しくなった。
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