第78話 母と息子、父と娘

 特別目立った外傷があったわけではないが、「ヒステリーのせいで気絶しただけ」のアイリは、それから十日が過ぎても目を覚ます気配は無かった。


 ダグウッド城は悲惨な状況だった。

 未だかつてダグウッドがこれほどの危機に陥ったことはない。

 嫡男である伯爵は出奔し、伯爵の親衛隊長のアグネスは重傷を負い、未だ意識が戻らない。

 もう一人の継承権者のアイリも昏睡状態にある。


 フェリックスとアビーは城に戻り、混乱する頭をどうしようもなく、焦燥して、ただ、アイリのベッドに張り付いているだけだった。


 重要な決定は、後日に残しておくとしても、とりあえずこの巨大都市が呼吸するためには、日々こなしていかねばならない書類仕事だけでも膨大である。マーカンドルフもルークも元々フル稼働している。必要なのは意思決定者だった。


 伯爵探索については、ただちにマルテイとリューネが本部をたちあげ、捜索隊を幾つか編成し、各地へと派遣した。言うまでもないことではあるが、伯爵出奔の事実は他家に知られるわけにはいかず、隔靴掻痒で、やらないよりはマシというところだ。


 ダグウッド家の運営については当面、クリスティナを頼るしかない。

 実質的には、フェリシアがすべてを差配し、可能な限り滞らないように奮闘していた。執務の遂行にあたっては、カイがダグウッドに残していた執務ノートが参考になった。



 アグネスが完全に意識を手放す前に、以下のことは伝えていた。


・マックスが別人のようであったこと。

・マックスが攻撃してきたこと。

・マックスが飛び去ったこと。


 少なくとも攫われたわけではないことが知れるだけでも、アグネスが伝えた情報は貴重だったが、その事実を知ればなおのこと、フェリックスの心労は募った。


 そして十四日目の朝、アイリは目覚めた。


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「アイリ…」


 意識を取り戻したアイリを抱きかかえて泣くアビー、そしてそのふたりを両腕を伸ばして包み込むフェリックス。


「お母様…ごめんなさい。すぐに話さないといけないことがあるの。お父様と二人きりにしてください」

「あなた無理をしては」

「私はお兄様の行方を知っています。いなくなったのでしょう? お兄様」

「アイリ…!」

「お願いします。お父様と二人きりにさせてください」


 アビーはフェリックスを見て、フェリックスは頷いた。


「無理をさせないで、フェリックス」


 アビーはフェリックスにそう言って、寝室から退出した。侍女たちも所払いされる。


「大丈夫か、アイリ。まだ気が付いたばかりだ、話は少し休んでからでも」

「あなたは、アビーにどこまで話しているの? 私はどこまで話してもいいの? フェリックス。いいえ、誠一」


 その名が出されたことで、フェリックスは衝撃を受けて、へたへたと椅子に座り込んだ。アイリを凝視する。


「君は…いったい誰だ?」

「アイリなのは間違いないわ。そしてあなたと同じ転生者。今回倒れるまで記憶は無かったのだけど。倒れてしまったのは記憶をこの身体になじませるまで時間が必要だったからよ。あなたと違って、赤ん坊の時から前世の記憶を宿していたわけじゃないんだから」

「転生者…」

「これくらいのことで驚いていられては話せなくなるわ。落ち着いて聞いて。私はあなたの母親の由紀子です。あなたが誠一だと言うことは分かっているわ。あなたを追ってここまで来たのだから」

「かあ…さん?」

「そうね…六歳まであなたは水色の毛布を手放せなかったわね。もうすぐ小学生なのに恥ずかしいって、お友達のさおりちゃんに笑われてから、急に毛布を手放して。小学校一年生の時だったかしらね、徒競走でゴール直前に転んでしまって、大泣きしてたわよね。読書感想文はうまかったわよね。毎年賞をいただいて。ああいうのもとってあったのよ。お嫁さんに見せてあげようと思ってたのに」

「母さん…母さん、母さん、母さん!」


 フェリックスはアイリに抱き着いて号泣した。


「あらあら。私は病み上がりなのよ。そんなに強く抱きしめないでちょうだい」


 慈愛に満ちた目で、フェリックスを見つめ、アイリはフェリックスの髪を撫でた。傍から見れば初老の男が少女に抱き着いているその光景は異様だっただろう。しかも明らかに少女の方が保護者の立場にいる。


「不思議ね。あなたの母親の私が、あなたの娘として生まれるなんて。

 あなたが悪いわけではないけど。泣きたいのは私の方よ、誠一。あなたが突然いなくなって、残された人たちがどれほどの地獄を味わったことか」

「僕は…あの時、トラックに突っ込まれて。事故に遭ったはず」

「あなたの遺骸は残っていなかったわ。遺骸が無かったから過失致死にはならなかったの。あなたは、突然、消えた」

「僕は…気づいたらフェリックスになっていて」

「私はね、私と浩一さんはね、三十年近く、あなたを探し続けたわ。どうしても死んでしまったとは思えなくて。そうね。私もこんな娘だけど、あなたも親になったなら分るでしょう? その三十年は一日たりとも笑ったことは無かったわ」

「ごめん、母さん」

「責めているんじゃないのよ。経緯を説明しているんだからよく聞いてね。大事なことよ。ちょっとお水を」


 アイリはキャビネットに置かれたコップを手に取って、水を流し込んだ。


「ある日、私はふいに思い出したの。お父さん、あなたにとってはおじいちゃんね、分かりやすいように名前で呼びましょう、高志さんから聞いた、東京大空襲の日のこと。高志さんは、高志さんのお父さんの迪男さんに手を引かれて、火の中を逃げ回っていた。手を離したら死んでしまうと思って、高志さんは迪男さんの手をしっかり握っていたの。でも、手を離したはずがないのに、いつの間にか、迪男さんは消えてしまっていたの。やっぱりはぐれてしまって、迪男さんは死んでしまったのかなあって高志さんは言っていたけど。伊達家の血筋で神隠しにあったのは、二人、あなたと迪男さん。何かつながりがあるんじゃないかと思ったわ」


 アイリはそこで一息ついた。


「ところで。アビーにはどこまで話しているのかしら。あなたが誠一ってことだけど。アビーにも後で知らせるなら、今一緒に聞いてもらった方がいいのだけど」

「アビーにはちゃんと話したことはない。でも、旧い知識の記憶があることはそれとなく分かっていると思う。僕は僕、フェリックスはフェリックスだからって、向こうも聞いてこなかったし」

「そう。いい子なのね。自分の母親のことをいい子って言うのもおかしな気分だけど。あなたは少なくとも、アビーがいてくれて幸せだったのね」

「ああ。父さんと母さんには申し訳ないけど。僕はフェリックスになってからはおおむね幸せだったよ」

「申し訳ないなんてことはないわ。あなたが幸せならば、私の過去の苦労も流される思いがするわ。どうにかして浩一さんにもこのことを伝えられればいいのだけど。とにかく、ちゃんと聞いていないなら、今はまだアビーには話さない方がいいわね。あなたの判断で、あなたからちゃんと言ってあげなさい」

「ああ、そうするよ」

「じゃあ、話を続けるわ」


 そう言って、アイリはベッドの上で正座をした。

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