第75話 小さな悲劇

 ヴァンゼクロフト村は、ダグウッド東岸、エノ山中腹にある新しい村で、避暑地として開発された。開発に当たっては徹底した魔物狩りが行われた後、結界陣が張られ、一戸あたりの敷地が巨大な別荘が建ち並んでいる。

 ダグウッドの領主権はおおむねマックスに委譲されているが、この村のみは、フェリックスの箱庭として権限も残されていた。

 ヴァンゼクロフト村の別邸には使用人の数が七名、こじんまりとした所帯で、フェリックスとアビーはそこに暮らしている。

 フェリックスは、初孫が生まれれば、爵位もすべてマックスに譲るつもりだった。


 フェリックスに面談を請う者はあいかわらず多く、秘書のルッツの仕事は、その要請を問答無用に却下することだった。

 むろん、厳選されたうえで、アポイントメントをとることに成功する者もいる。ヴァーゲンザイル公爵家、ギュラー公爵家の使い以外では、よほどの緊急性と重要性があるとルッツが判断したケースである。


「君は、クリスティナの侍女の」

「フェリシアと申します、閣下」


 誰かと思えば未だ幼女のフェリシアだった。フェリックスもクリスティナが幼女を侍女にしていることは知っていたが、貴婦人の周囲には慰めとして小型犬代わりに幼女が置かれることは珍しくない。もともとが愛玩用であって、実務は期待されていない。普通であれば。

 

「どうしたのかな、何か不満事でもあったのかな?」


 フェリックスの態度を見て、自分が侮られていることをフェリシアは察知した。十歳前後の子供なのだ。侮られるというか、子供が子ども扱いされるのは当然であったが、まずは信用を得るためには、並の子供ではないことを示す必要があった。


「このような必要が無ければ申し上げるつもりは無かったのですが、私は、カイ・テオフィロスの娘です」


 目をむいて、驚愕の表情を浮かべたフェリックスに、二通の手紙をフェリシアは差し出した。


「一通は私の母セオリナが事情を説明したものです。もう一通は、私が幼い時に現れて、私の保護者となってくれたガマさんが、内容を裏書きしたものです」


 フェリックスは震える手で、その書状を受け取った。セオリナの手紙はともかく、ガマの手紙は、確かにガマの筆跡だった。


 ボーデンブルク王国から逃れたセオリナは、ガローシュにたどり着き、娘フェリシアを産んだ。そして亡き夫カイの遺志とフェリックスの理想を継ぐべく、苦労を重ねた末に、教育行政官の地位を得た。

 ボーデンブルク王国には及ばなくても、ガローシュでも、貧しさを克服する策がようやく実施できるようになった。

 途中から合流したガマは、てさぐりで銀行の真似事を始め、ダグウッドと同じことをガローシュで行おうとしている。


 手紙を読みながら、フェリックスは涙をその上に落とした。

 そして震える声を絞るようにして、


「すまない。すまなかった」


 と言った。

 首を振りながら、フェリシアは、


「どうかご自分をお責めになられませぬよう。こうなると分っておりましたので、本当であれば名乗るつもりはなかったのです。カイ・テオフィロスも、閣下のために死ぬことを誇りに思っていました。どうかご自分を責めることで、私の父の誇りを踏みにじらないでください」


 と言った。そして、立ち上がって、優しくフェリックスの肩に手をかけ、静かな嗚咽がおさまるのを待った。


「クリスティナ様に同道させていただくのは、父の娘として天命だと思いました。ダグウッド家にお仕えすること、私にとってこれ以上の望みはありません。お分かりいただきたいのは、私はカイの娘ですので、並の少女ではないということです。母を通して父の知識は徹底的に叩き込まれました。私は姿かたちはこのようですが、どうかカイ・テオフィロスの言葉として申し上げることをお聞きください」

「テオフィロス家の再興は…難しいが、君には別途爵位を与えて…」

「いいえ。そのようなことは望んでおりません。私のためを思って下さるのであれば、どうか今まで通りで。必要が無ければかようなことを申し出るつもりもなかったのです」

「…必要が、できたと?」

「はい。どうぞお乱れなくお聞きください。ネグロモンティア伯爵夫人クリスティナ様が自殺未遂をおこされました」

「なにっ!」


 フェリックスは立ち上がった。


「衝動的にバルコニーから飛び降りられたのですが、たまたま私たち侍女の中に防御系の魔法を使える者がいて、咄嗟に魔法のクッションを地面に出現させたので、大事には至りませんでした」

「大事はないのか?」

「はい。身体的には。このことを知るのは、伯爵様と、侍女数名、そして侍医のみです」

「大事が無いなら、まずは良かったが…なぜそんなことを。身ごもってでもいたならば、大変なことになっていただろうに」

「それはありませんでしょう」

「いや、流産でもしていたら子にも母体にも危険が」

「妊娠することがあり得ないのです。クリスティナ様は未だ清いお体ですから」

「…? まるで、マックスの手がついていないように聞こえるが」

「そう申し上げています。私たちも初めて知りました。なぜかようなことを起こされたのか、側近としてクリスティナ様を問い詰めないわけにはいかなかったのです。泣く泣く打ち明けられたのは、この一年、結婚以来、指一本触れられたことがない、ということでした。伯爵様に嫌われているとお思いで、絶望のあまり、衝動的な身投げをしてしまったということが分かりました」

「…なぜだ?」

「差し出がましいことながら、ガローシュ王国から派遣されて来た側近として、伯爵様には真偽を確かめるとともに、ご内意を確認させていただきました。伯爵様は、結婚は結婚、同衾は同衾、別物であるとのお考えです。正直に申し上げて、ので、夫婦間の微妙なお話ながら、フェリックス様のお力にすがりたく、参った次第です」


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「クリスティナのことは気に入ってるよ? うるさくないし。僕がアイスを食べ過ぎても文句も言わないしね。何より、彼女と結婚したことで、もう結婚しろとうるさく言われないで済んだ。生まれ変わってもクリスティナと結婚したいくらいだよ」


 ダグウッド城の執務室。人払いして、ここにいるのはフェリックスとアビー、マックスの三人だけである。


「なら、どうして優しくしてあげないの?」


 頭を抱えながら、アビーが疲れた声でそう言った。


「優しくしてあげてるよ? 服だって宝石だって最上のものをあげているし。お金が欲しいならもっとあげてもいいくらいだよ」

「マックス。アビーが言っているのはそんなことじゃない。どうして抱いてあげないんだということだ」

「結婚式の時にぎゅっと抱きしめたよ?」

「フェリックス。それですら通じないのよ。もっとはっきり言わないと。なんで性行為をしないのかってことよ。性行為、わかるわよね?」

「性行為。狭義では男性の生殖器を女性の陰部に挿入する行為、もしくはその行為の果てにおいて射精を行うこと。広義では…」

「そんなことはいちいち言わないでいいの。分かってるなら、なんでそれをしないのかってことよ!」

「なんでって、する必要ある?」

「あるわよ! 結婚ってそういうことよ!」

「えー、結婚って法律において配偶者になることだと思ってたけど。じゃあなに? 結婚式って、みんなの前で性行為をすることなの?」

「マックス。あんなに魅力的な女性だ。そういうことをしたくなるのが普通だろう?」

「普通って全体の何割くらいから普通なの? そもそも普通っていいことなの? 普通だったらなぜそうなくちゃいけないの?」

「あなた、ひょっとして。男性の方が好きだとか」

「同性愛? ううん、そんなことはまったく無いけど」

「じゃあ、なんでしないのよ!」


 逆上気味に叫んだアビーを、フェリックスは「どうどう」をして、今度は厳しい視線で、マックスを見た。


「公爵家の跡取りはどうするつもりだ。子供が出来なければ跡取りも得られないぞ」

「お父さん、常日頃言ってるじゃん。大事なのは公爵家じゃないって。僕もそう思うよ。成り行きで出来た公爵家だもの。そんなに跡取りって必要? なんならアイリでもいいし、アイリの子でもいい。ロレックスの子やイアンの子を養子に迎えてもいいわけじゃん」

「マックス、あなたそんなにクリスティナと、の?」

「うん、やりたくないね。別にクリスティナだからじゃないよ。必要もないことは僕はしたくない。子供も好きじゃないしね。父親になって子供に振り回されるなんて死んでも嫌だね。お父さんとお母さんがいまやっているみたいなこと、僕はつくづくやりたくないよ」


 マックスが癖のある性格なのは分かっていた。

 しかしここまでとは。

 フェリックスとアビーは顔を見合わせて、互いに「おまえの血筋だろ!」という言葉が喉から出そうになるのを必死に抑えていた。

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