第74話 息子の結婚
月日がたち、フェリックス・ヴァーゲンザイル・ダグウッドも既に初老の域に近づいている。もともと、とりたてて、運動をするタイプではないので、体が利かなくなったのを実感するほどの年齢でもないのだが、髪の色は既に半ばが漂白されて、新雪がまばらに散りばめられたようになっている。
異世界に転移して、この十年はようやく平穏を手に入れられた期間だった。
ダグウッド領も、ダグウッド財閥も守勢の時期に入り、日常的な運営は、フェリックスの手から離れた。
領主の仕事は既に大半は、息子のマクシミリアンに委譲してある。
やるべきこと、と言えば秘密裏に行われる魔族国との外交と折衝くらいだったが、あちらも別に対立を望んでいるわけではない。と言って、貿易や交流をするわけでもないので、基本的には没交渉だった。
一応、「大使」として魔族の者を、ダグウッド公爵家の家臣に組み込んだ以外には、稀に遠路はるばる観光に訪れる魔王を案内するくらいである。
引き際を知るというのは大事なことだった。
既にフェリックスは一個の個人としては、あり得ないほどのことを多々成し遂げていた。人生に残された時間から言えば、まだまだやろうと思えば出来ることはあったが、やり過ぎてはいけない、と思う。
ただでさえ、この世界にとっては異物である前世知識を持ち込んでしまったのだ。フェリックスがやったのは歴史の方向を変えることであって、どのような歴史が紡がれてゆくかは、ここに生きる人たちが自分たちの生きざまで描いてゆけばいいのだ。
これ以上の関与は悪女の深情けというものだろう。
ダグウッド公爵家嫡男マクシミリアンの婚礼の日である。
王国宰相の甥でもあるマックスの結婚は、王国にとっても国家的な慶事だった。
女王エレオノールの下で、宰相の任にあたったのは、当初、レドモンド公爵だったが、レドモンド公爵が卒去した後は、余人無しという理由で、ヴァーゲンザイル公爵アンドレイに白羽の矢が立った。
大規模な粛清は各地に遺恨を残し、西部や北部はなかなか鎮まらなかったし、諸外国との関係も決して穏やかではなかった。
難しい舵取りが迫られる国政にあって、宰相を務められる者はそうはいなかったのだ。
アンドレイは三度、要請を辞して、四度目の要請の後、溜息とともにその要請を受けた。ヴァーゲンザイル家にとってはむしろ損失の方が大きい話であったが、誰かがやらなければならない仕事というものは確かにあるのだ。
アンドレイの思惑はどうであれ、傍から見れば、マクシミリアン・ダグウッドは、ダグウッド公爵家の世継ぎであるのみならず、王国宰相の甥であった。その結婚には国際的な思惑が絡むのを避けられなかった。
ガローシュ王国王女、クリスティナ。
それが、マックスの結婚相手である。ガローシュ王国では直系の王族を親王、内親王と称し、傍系の王族を王子、王女と称する。
さすがに一貴族の配偶者に内親王を送ることはなかったが、ガローシュ王国としては手持ちの駒の中から、最善の駒を選んだのであった。
ダグウッド財閥とのつながりも相応に重要ではあったが、この場合は、アンドレイとのコネクションの方が重要であった。ヴァーゲンザイル公爵家ではロレックスが、周囲の反対を押し切って同族の勲功騎士爵の娘を室に迎え、外交カードとしては使えなくなっていたから、マックスにガローシュ王国の縁者を押し込むことが特に重要だったのだ。
ガローシュ王国でも、ボーデンブルク王国に倣って、教育の一般化が進められていた。ボーデンブルク王国から流れて来たある女性学者が登用されて、その中心にいることは、知られていたが、クリスティナ王女の侍女として、その女性学者の幼い娘が、ダグウッドに同道した。
名をフェリシアという。
フェリシアはありとあらゆる学問を、子供ながら母親に叩き込まれていて、かつての敵国へと嫁ぐという困難な任務を与えられたクリスティナ王女を支えるために、ダグウッドへと赴いたのだった。
「お奇麗ですよ、殿下」
婚礼衣装に身を包んだクリスティナの控室に現れたのは二人の母たちである。義母となるアビーと、ボーデンブルク王国における代母を務めるザラフィアだった。
マダム・ローレイが生きていれば、無理にでも付き添っていただろうが、彼女も数年前に世を去っている。
「殿下などと。さようなよそよそしい呼び方はなさらないでください。ただ、クリスティナ、と」
クリスティナの言葉に、アビーは微笑んだ。王女の身分にありながら、驕慢なところはかけらもない女性である。彼女ならばダグウッドに馴染み、将来は公爵夫人として、マックスを支えてくれるだろう。
ダグウッドの花嫁としては、アクアジェルに身を包むのは事実上の義務だったが、無色透明のその宝玉は、クリスティナの清楚さを一層引き立てていた。
「そうおっしゃっていただけで、嬉しいわ。でも、けじめがありますからね。婚礼が終わったら、仰せの通りにいたしましょう」
アビーがそう言ったその時、扉が開いて、少女が駆けて来た。
「ごきげんよう、お義姉様」
その少女、アイリは天真爛漫に微笑んだ。
「ごきげんよう、アイリ。私の衣装、似合っているかしら?」
「とてもお奇麗よ」
アイリはクリスティナの傍らに立ち、甘えるようにクリスティナを覗き込んで、そう言った。
結婚式のひと月前にダグウッドに到着して以来、クリスティナとアイリは義姉妹として親交を温めている。
一方で。
「お兄様はお見えになったのかしら」
「いいえ、お見えになってはいないわ」
それを聞くなり、アイリの顔に怒りの色が差した。
「まったくあの人は。気が利かないんだから」
マックスとアイリ、この兄妹は非常に不仲だった。と言うか、乳飲み子の時からどういうわけかアイリが一方的にマックスを嫌っている。
「アイリ」
短い言葉で、アビーがたしなめた。確かに、事前に花婿ならば花嫁に優しい言葉のひとつでもかけて、緊張を解すべきだろう。マックスが性格的にそういう気づかいが出来ない人であることは、もちろんアビーは母親として承知していた。
だが今日は、今日のこの日は、マックスはアビーの息子、アイリの兄ではなく、クリスティナの夫となる人なのだ。
目の前で新郎を非難されて、まさか新婦がそれに迎合するわけにもいかない。
「マックス様は素敵な方よ」
今のところは、心底、そう信じているように、クリスティナはなだめるようにそう言った。
実際、マックスは非の打ちどころのない青年であるかも知れない。
容姿に優れ、領主の任にも耐え、何一つ、これと言った欠点も無いように見える。
ただ、アビーは、マックスとアイリの兄妹仲が悪いのを困ったものと思いながらも、母親でありながら、なんとなく、なんとなくではあるが、アイリがマックスの何を嫌っているのか、分からなくもない。
マックスにはどこか人間味が欠けている。
クリスティナに対しての態度も一見、優しい。そう、まるでそうプログラムがインプットされた機械であるかのように。
そこからは一歩たりとも踏み出さない。
いざ、婚礼を迎えて、花嫁が不安がっていないだろうかなどと気遣うことは一切無い。
夫婦であれば、クリスティナもいつか、マックスの真実に気づくだろう。その時に、妻として支えてくれるかどうか。
けれどもアビーはこの結婚は望ましいと思っている。
国と国との関係、互いの威信がかかっている結婚だ。
好きになれないからと言って、放り出せる事業ではないのだ。
あるいはこの結婚が、クリスティナにとっていずれ牢獄になるかも知れないと予感しながら、アビーは我が息子のため、ダグウッドのため、いまさらこの花嫁を逃すつもりはなかった。
ガローシュ側の主賓としては、現国王の叔父にあたるフェルメール親王が出席し、ボーデンブルク王国からはさすがに女王の臨御は無かったが、側近のドレクセル伯爵が女王名代として出席している。
親族としてはヴァーゲンザイル一族が一人の遺漏もなく並び、かつての同盟の盟友たる諸侯たちも出席している。
パンタナール神社において、中央から派遣されて来た総大宮司が新たなる夫婦の結婚を司った。ダグウッド公爵領から分知される形で、新たにネグロモンティア伯爵領が創設され、マックスがネグロモンティア伯爵、クリスティナが同伯爵夫人となることが式において公表された。
むろん、ネグロモンティア伯爵領、東ダグウッドの一街区にちなんだその所領は、マックスが公爵領を正式に継げば、ダグウッド公爵領に統合されて消滅する。この結婚を機に、クリスティナの王位継承権と王女の称号が消滅するので、クリスティナに新たなる肩書を与えるための措置である。
モンテネグロ人が開発し、多く定住していることからその街区の名はネグロモンティアと名付けられたのだが、その地の名を名乗ると言うことは、ダグウッドの中核軍事力であるモンテネグロ人たちを、マックスが掌握するという意思表示でもある。
そしてこの結婚を機に、東方探索から復帰して親衛隊長の任に戻ったアグネスの護衛対象は、フェリックスからマックスに変わることになっている。
フェリックスとしては、結婚を見届けた後、情勢が落ち着けば、事実上の隠居状態を事実としての隠居に変更するつもりだった。
つまり公爵位をマックスに、財閥総帥の地位をイアン・ヒューゲンロックにそれぞれ譲り、アビーとともに、山奥にでも引っ込むつもりだった。
まず公衆の面前に、花嫁が代父であるアンドレイ・ヴァーゲンザイルによって手を引かれて登場し、その美しさに列席者がどよめいた。マックスが美青年であることは知られていたので、ガローシュ王国としては並んだ時に見劣りがしない花嫁を用意しなければならなかったわけで、アクアジェルで更に飾り立てられれば、その美しさは文字通り、絵巻のようであった。
マックスが、フェリックスに先導されて現れた時、列席者は更にその偉丈夫ぶりに驚いた。男であるから、別に化粧などをしているわけではない。しかし、今日ばかりは本気で、愛想よく、一部の隙も無く礼服を着こなしたその姿は、伝説の美神が執着したという寵童さながらであった。
「だから馬鹿なのよ」
とアイリが親族席で短く呟いた。小さな呟きだったから、聞こえたのは隣にいたアビーだけだったが、そしらぬ振りをしながらもアビーもまったく同感だった。
新郎が結婚式で花嫁とはりあってどうするつもりなのか。
もちろん、マックスなりに、今日ばかりはダグウッドの名誉のために全力を尽くすつもりで式に臨んだに違いない。
マックスの考えというのは、いつもどこかずれている。
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